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インタビュー「「その他の外国文学」の翻訳者」

第13回 ポルトガル語:木下眞穂さん(1/4)

 25年ぶり、2作目。日本の新刊点数が年間7万から8万点という膨大な数に上ることを考えると、いかに稀有なジャンルかと思う。ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザの作品『忘却についての一般論』は、記念すべき2作目の、しかも25年ぶりに翻訳、出版されたアンゴラ文学だ。日本ではほとんど耳にすることのないアフリカの国だし、そこでどんな文学作品が書かれ、読まれているのか、まったく想像がつかないというひとがほとんどだろうし、これまで2作というのも不思議ではない。逆に、誰が、なぜ、翻訳したのかとさえ思う。翻訳を手がけたのはポルトガル語の翻訳者、木下眞穂さんだ。
 アンゴラ文学がポルトガル語で書かれているとは初耳だというひとも多いかと思う。かつての宗主国ポルトガルの影響を受けて、ポルトガル語が公用語になっているのだ。もっとも、同時にアフリカ系の言語も使われている。
 アンゴラの文学はなじみがない。では、ポルトガル文学ならどうだろうか。木下さんは「大学生のときは、ポルトガル文学の翻訳は数冊しかなかった気がする」と振り返る。いまはさすがに翻訳作品は増えた。だが、「その他」に分類されるマイナー分野であることは変わらない。第5回翻訳大賞を受賞した、折り紙付きのポルトガル語翻訳者である木下さんは、ポルトガル、そしてさらにはアンゴラ文学にどのように至ったのだろうか。

「ポルポル」まっしぐら
 ポルトガル語は話者人口は世界第7位を誇る大言語だ。ポルトガルで生まれた言語で、アフリカ、アジアでも話されているが、話者分布でいうとブラジルが約8割と圧倒的多数を占める。もとは同じことばではあるが、ポルトガルとブラジルでは文法や使う単語、表現などにちがいがある。日本でも、ポルトガル語を学ぼうと思って書店に行ってまず見つかるのは多数派であるブラジルのポルトガル語、いわゆる「ブラポル」のテキストだ。
 しかし、木下さんが得意とするのはポルトガルのポルトガル語、通称「ポルポル」。父親の仕事の都合で中学生のときにリスボンに一年間暮らしたことが、ポルトガルとの出会いだった。といっても、現地で通ったのは英語で教える学校だった。ポルトガル語もやってみようかと思ったが、英語の勉強で手一杯で、少しかじる程度に過ぎなかった。
 本格的にポルトガル語を学ぶことになったのは上智大学ポルトガル語学科に進学してからだ。ヨーロッパへの憧れに加えて、一年とはいえ暮らしたことがある国のことばという親近感が進路選択のきっかけになった。ブラジルのほうに興味があるという学生がやや多かったが、木下さんはその逆、ポルトガル志向だった。もともと英語を勉強するのが好きだった。小学6年生のときに、NHKラジオの英語講座を聴いて、ことばがわかるようになる喜びを知ったのが原体験にある。なのでポルトガル語を学ぶこと自体は楽しめた。とはいえ、覚えることが多い。動詞が人称や時制によって変わる。名詞も男性と女性があるし、形容詞も性や数によって変わる。「ぜんぶ覚えなきゃいけないの?」と驚いた。同じ系統の言語であるフランス語やスペイン語を学んだことのある人なら共感できるだろう。それを乗り越えても、今度は接続法や過去未来などの意味を理解するのに四苦八苦する。「接続法のニュアンスはだいぶわかるようになったけど、いまでも自分で発信するときには使いこなせない」というから、学生にとっていかに難関だったかと想像する。
 大学の4年間でポルトガル語のすべてをカバーできるわけではない。だが、レベルがあがってくるとことばの奥深さがわかってくる。ポルトガル語学科で学ぶのだから、ある程度は使いこなせるようになりたいという気持ちもあり、留学を最初から考えていた。行先はもちろん、ブラジルではなくポルトガル。大学の留学制度を利用し、同級生数人と一緒にアヴェイロ大学に受け入れられた。アヴェイロはリスボンとポルトを結ぶ直線上に位置する。人口規模としては、ポルトガルのなかでは上から数えたほうが早いが、「田舎の町」だそうだ。
 中学生以来、久しぶりに訪れたポルトガルの印象はどうだったのだろうか。1981年、中学生の木下さんが最初にポルトガルに行ったときは、自分のもつ外国のイメージとのギャップに驚いた。その頃の木下さんにとって外国といえばアメリカ、華やかできらびやかなイメージだったが、ポルトガルの印象はそれとはほど遠かったと振り返る。1974年のカーネーション革命で長い独裁政治に終わりを告げていたが、ヨーロッパの先進国には遅れをとっている。まだマカオという植民地を抱えていたこともあって、アジア人は植民地の人という、少し下に見る雰囲気を木下さんも感じた。なので、そんなものだと思って訪れた2回目のポルトガルには衝撃は受けなかった。むしろ小さい町なので近所のひとにすぐに顔を覚えてもらえたし、学生寮に住み、友人に囲まれて楽しく過ごせた。
 ちなみに、アヴェイロは大分市と姉妹都市になっている。町の大通りはその名も「アヴェニーダ・オオイタ」であり、さらに「オオイタ」なるショッピングセンターがあるそうだ。なので、日本から来たというと「日本のどこから?オオイタ?」と聞かれるのだ。「世界広しと言えども、日本と聞いてまず大分を挙げるのはアヴェイロだけでしょうね」と笑う。
 大学はポルトガル人と同じ授業を受けるので、内容はほとんど理解できなかった。ポルトガル語の力がついたのは意外にも帰国してからだという。インターネットもない時代だから、ポルトガルの友だちと頻繁に手紙をやりとりした。すると、二回目の留学で再会したときに「ポルトガル語うまくなってるね!」と言われた。話す練習は日本ではあまりしていなかったのに、気づけば滑らかに話せるようになっていたのだ。「自分では意識しなかったんですけど、読んで書くというのが大事なんでしょうね。インプットができたから、アウトプットもできるようになった」。手紙のやりとりを重ねることで語彙や表現が身につき、話すときにもつまることがなくなったようだ。

思い出の『葡和新辞典』
 二回目の留学は奨学金を得てリスボンで過ごした。ポルトガルの国立大学には外国人向けのポルトガル語・ポルトガル文化コースが設けられており、木下さんもそこに在籍した。アヴェイロとはうってかわって、リスボンという都会で世界中から来た学生に囲まれるのはとても刺激的だった。下宿をしたのも、ポルトガルの生活を知るとてもいい経験になった。下宿先のおばさんにいろいろなことを教えてもらえたのだ。ポルトガルでは、毎週日曜日には祖父母の家に親戚が勢ぞろいして一緒に昼食を囲む習慣がある。下宿先のおばさんの元にもひとが集まる。たとえば、そのときにおばさんがこれは嫁、こっちが婿、そしてそっちが亡夫の前妻の娘、と暮らしでとても重要な語を使って紹介してくれる。そうした語彙は、おばさんの作ってくれたポルトガルの家庭料理の味とともに木下さんの血肉となった。
 木下さんは留学で「困ったことは特にないですね」という。しいて言えば「スープを最初に食べきってからメインを食べるのを知らなくて、学食で変な目で見られたことくらい」ということで、ポルトガルは木下さんの肌にとても合ったようだ。
 ただし、日本でのポルトガル語の教材はいまほどは充実していなかった。書店に行っても参考書の数はそこまで多くないし、大学のテキストも先生の手作りのものだった。なにより、いまでこそ辞書はいくつかの出版社から学習辞書が出ているが、木下さんが大学生当時にまず使ったのは『ローマ字ポ和辞典』。日系人向けに編まれたものだ。しかし留学をするとなると、これでは語彙数が足りない。留学をすることを、最初に木下さんをポルトガルに導き、そのときは北京に赴任していた父に電話で話すと、一冊の辞書を薦めてくれた。大武和三郎編『葡和新辞典』だ。1937年出版、旧字体で書かれた古い辞書だが、内容には定評がある。大武和三郎さんは日本からブラジルに最初期に渡ったひとりで、帰国後、ブラジル大使館に勤めて日伯の親善に貢献し、最初のポルトガル語辞典を完成させた。日本とブラジル、それに日本でのポルトガル語の歴史の最重要人物だ。
 古い本なので、その当時すでに書店には売っていない。父からは、家の書棚にあるから、その奥付の発行者の住所を見て、そこから電話番号を調べて、譲ってもらえないか尋ねるべしとの指令が下った。いま思えば、家にある一冊をもらい、父に買い直してもらえばよかったのだが、そんな発想はなかった。恐る恐る電話すると、和三郎さんの息子さんが電話に出た。事情を話すと「もう残部も少ないけど父から学生さんには負けてあげなさいと申しつかっています」と、手ごろな値段で譲ってくれた。古くても語彙が充実した、木下さんにとって大事な辞書になった。


リスボンで下宿した大家さんの親戚の集まり


白水社『現代ポルトガル語辞典』(左)と『葡和新辞典』(右)

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【お話を聞いた人】

木下眞穂(きのした・まほ)
上智大学ポルトガル語学科卒業。訳書にパウロ・コエーリョ『ブリーダ』『ザ・スパイ』(角川文庫)、ルイ・ズィンク、黒澤直俊編『ポルトガル短篇小説傑作選』(共訳、現代企画室)、ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ『忘却についての一般論』(白水社)など。2019年、ジョゼ・ルイス・ペイショット『ガルヴェイアスの犬』(新潮クレスト・ブックス)で第5回日本翻訳大賞受賞。

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