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「考える人のための事典・辞書」平尾浩一

第5回 詩人たちの事典・辞書改革

 C.チャップリンは自伝の中でS.エイゼンシュテインの映画『イワン雷帝』について、次のように書いています。「詩人の精神で歴史を扱っているのだ──歴史を扱うもっともよい方法にちがいない。ごく最近の事件でさえもいかにひどく歪められるかを知っているわたしとしては、ただ歴史というだけでは、むしろ疑いたくなるだけだ。それに反して、詩的解釈というものは、かえってある一時期を全体的に把握させてくれる」

 近代では事典や辞書は小項目かつアルファベット順が主流になります。先月の末尾でも触れたように、この潮流に対抗する試みが18世紀後半にありました。以降、事典においてはS.T.コールリッジ、L.フェーヴルらが、また辞書においてはE.リトレ、グリム兄弟らが詩的な感性をもって歴史を描写し、新時代を画しました。

事典に秩序を求めて

 19世紀にはイギリスの詩人コールリッジが「百科事典に秩序を取り戻す」ために、体系的に論文を配した『メトロポリターナ百科事典』(1817-1845)を編みます。20世紀前半、両大戦期には歴史学を刷新したフェーヴルらが「世界を良い方向へ改変する希望の文書」との標語を掲げてEncyclopédie française(「フランス百科事典」、1935-66)を企画します。全20巻からなる本事典はアルファベット配列を斥けた上で、各学問分野の断絶をも打破します。各巻のタイトルは「知の道具(思想・言語・数学)」「宇宙と地球」「精神生活」「書き表された文明」などで、前例を見ないテーマ設定が注目されました。同時期のイギリスで「世界百科事典」論(1936)を発表したのが、SF作家のH.G.ウェルズです。ウェルズは大国同士の権力争いに対抗するために「世界に散乱した人間の英知を統合する」ことを提唱します。30年代にはフランスの詩人、小説家のクノーも既成の知への懐疑を抱いて『不正確科学百科事典』(1938)を書きました。

 コールリッジ、フェーヴルらの事典は商業的には失敗し、ウェルズの講演は百科事典の理念を語るに留まりました。しかしこれらの試みは再評価が重ねられ、1960年代後半からは大項目の論述を独自に秩序立てながら載せた事典が各国で支持を得ます(本連載第2回参照)。先述のクノーは1956年にEncyclopédie de la Pléiade(「プレイヤード百科事典」、1956-1991)の編集長となり、新たな知の配列を試みた約50巻の刊行が始まりました。

 大衆の欲求に応えて小項目かつアルファベット順の事典が主流となる近代、それは同時に「知の無秩序化」の時代でした。他方でこの流れに抗い詩人、作家たちが事典に「秩序」を求めました。彼らは、20世紀後半の大衆の需要を先取りしていました。

歴史を語る辞書の「神話」性(A.レイ)

 先月は、アルファベット順、五十音順配列以外の秩序を持つ日仏の「逆引き」「脚韻」辞典に言及しました。リサーチにおいては便宜性のみならず、「迂回」にも価値があります。それは辞書における、多義語の意味の配列にも当てはまります。

 19世紀中葉に歴史性を重視した辞典がヨーロッパで誕生し、日本にも影響を与えました。ドイツでは童話で知られるグリム兄弟による大辞典、イギリスではOxford Engish Dictionary、そしてフラン スではエミール・リトレのDictionnaire de la langue française(「フランス語辞典」、1863-1877)の編纂が開始されました。

 これらの辞書は「単語、文章の理解」という目的への到達までに、読者が迂回して歴史的過程を把握することを求めます。ひとつの単語は時代、場所に応じて姿を変えつづけ、読者の想像を超える背景を有しています。リトレが序文で挙げた多義語の例に名詞 « croissant » があります。 « croissant(三日月=成長する月)»は、12世紀頃に動詞 « croître(増大、成長する)» の現在分詞から生じます。その後6世紀以上の間に多くの意味が派生し、19世紀に「ウィーン産の三日月状パン菓子」にもこの名が付されます。この歴史的過程を習得した者は「人々が « impôts croissants(増大する税)» に苦しんでいる」 » という文章を、「人々がクロワッサンの税に苦しんでいる」と訳すことなど有り得ないはずなのです。

 リトレは多義語の項目において「最もよく用いられる意味から記述する」という従来の方法を、「偶然に頼るもの」と批判しました。彼の辞典では、単語の語源から数千年に亘る人々の思考の跡が論理的に綴られます。20世紀後半に Petit Robert(「プチ・ロベール」、初版は 1967)を生み出し、今日に至るまで辞典の国際的リーダーであり続けるアラン・レイはリトレの後継者とも言えます。19世紀の偉大な先駆者の方法を発展させたレイは、リトレの辞典が語りかける歴史を「神話」と称しました。太古に遡り、そこから言葉が創造されて来た過程を引用とともに描き出したリトレの著作、それは人類の伝承です。

 リトレ辞典を座右の書としたゾラ、マラルメ、ジッド、J. グリーン、F. ポンジュらは、その描写に人々の息吹を感じ取り創造に転化しました。語の意味を調べるに当たって、「偶然、最初に目についた意味」で満足していては喚起されることの無い「言葉が負う神話」、それが作家を導くのです。


ゾラはリトレを「世紀の人」と評していました

◇初出=『ふらんす』2018年8月号

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著者略歴

  1. 平尾浩一(ひらお・こういち)

    スイスの大学を中心に百科事典・辞書学を研究。同志社大学他・非常勤講師

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