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「考える人のための事典・辞書」平尾浩一

第2回 百科事典・新時代について

 百科事典とは「聖書のように、同じ内容が翻訳によって世界に散らばっているもの」と考える人も少なくないようです。インターネットが普及した今日、百科事典は必要とされていないのでしょうか。

「情報過多」時代と百科事典学・辞書学

 町の図書館、大学の図書館には国内外の百科事典が揃っています。インターネット検索で手間をかけることなく情報を入手できる今日なお、そこでは常に事典を机に置いて調べものをしている人々がいます。事典コーナーを覗くと、予想外の著作に出会います。『死の百科事典』『音の百科事典』『飲食事典』など、視点も斬新です。百科事典はある国、時代、集団の世界観を写す鏡です。20世紀の2つの世界大戦間に刊行が開始された『ソヴィエト大百科事典』にはマルキシズム、『イタリアーナ百科事典』にはファシズムが色濃く、ドイツの『マイヤー百科事典』はナチズムで塗り潰されたと言われます。

 日本には未だ百科事典学、辞典学は無いと言えます。欧米では1960年代後半に百科事典、辞書の編纂法や歴史を研究するLexicography(英)、Lexicographie(仏)が興り、文化史、言語学などからの多角的アプローチによって発展しました。それは「情報過多」の社会問題化と連動しています。

 同時に20世紀後半には百科事典の新時代が到来します。19世紀から20世紀にかけて主流となった小項目、アルファベット順の「情報量と機能性」を誇る事典に対抗して、項目を厳選して大項目の論述を載せる18世紀型の事典が復活しました。『ユニヴェルサリス百科事典』(フランス、初版1968-1975)、『新ブリタニカ百科事典』(アメリカ、1974-1984)は大項目の論文と小項目の辞典を組み合わせた複部構成として成功を収めました。大項目のみの著作としては『ラルース大百科事典』(フランス、1971-1976)などがあり、中でも『エイナウディ百科事典』(イタリア、1977-1984)は14巻に600項のみという徹底したものです。

 さらに19 ~ 20世紀の小項目事典の流行を批判して企画され、商業的に失敗したイギリスの詩人S.T. コールリジの『メトロポリターナ百科事典』(1817-1845)、フランスの歴史家リュシアン・フェーヴルらの『フランス百科事典』(1935-1966)が、百科事典学の勃興と歩調を合わせて再版、再評価されました。20世紀後半には日本でも『万有百科事典』(小学館、1972)、『丸善エンサイクロペディア・大百科』(1995)などがアルファベット順を廃止して分野別、テーマ別の配列を試み、それらは今も図書館などで手にすることができます。

ページをめくり、五感を刺激される体験

 事典の序文における日仏の作家による言葉を拾ってみましょう。ロラン・バルトによると「辞典は夢見る機械」であり、「辞典の1ページに、あるいは数ページに目を通していると[…]頭のなかに、あるいは図解入りの辞典ならば目の前に、夢想をみちびく大いなる対象がつぎつぎと現れてくる」とのこと。同じように辞典に戧作の源泉を求めた作家として、バルトはマラルメやF. ポンジュの名を挙げています(『アシェット辞典』1980)。井上靖においては、百科事典は「神さまからの贈りもの」です。「仕事に疲れて、何もするのが厭な時は、百科事典の一冊を取り上げて、どこでもいいからページをめくって、そこにあった項目に眼を当てる。そしてその解説を読んでゆく。おそらく一生関心を持たないであろうような分野の知識が私を取り巻く」と綴るこの作家にとって、その行為が「頭の洗濯」となるのです(『小学館・日本大百科全書』 1984)

 インターネットと比べた場合の、紙媒体の事典の特徴を、バルトや井上靖は言い当てていました。目当ての情報のページに辿りつく前に、掲載されている写真、イラスト、文字などが自然と目に入ります。予想していなかった情報が手に入り、普段は気にとめていないことに気づきます。筆者の講義で久々に(または初めて)百科事典を手にした学生の多くが、紙媒体の事典のメリットとして上記の点を挙げています。

 インターネットの検索エンジンにキーワードを入力したとき、人は検索結果の上位のサイトから順に情報を取り入れがちです。一つの情報を受け取っても、その内容は続くサイトの情報によって否定されさえします。ネット上の情報の無秩序によって、私たちはしばしば調査対象への興味を失います。他方、百科事典のある項目を参照しながら私たちは時代、国境、ジャンルの概念を超えた別の項目に幻惑されます。たとえば『アシェット辞典』の「U 項」を開いてみれば、「urbanisme(都市計画)」「Urguai(ウルグアイ)」「Utamaro(歌麿[喜多川])」「Utorillo(ユトリロ)」【図版】と、豊かなヴィジョンが目前に展開されます。ページをめくる行為とは甘美なものです。

 図書館の百科事典コーナーで調べものをする大人たち、学生たちは幼少期に親しんだ「子ども百科」や図鑑を想起しています。彼らはページをめくるごとに、五感を刺激される体験を味わっているのです。

◇初出=『ふらんす』2018年5月号

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著者略歴

  1. 平尾浩一(ひらお・こういち)

    スイスの大学を中心に百科事典・辞書学を研究。同志社大学他・非常勤講師

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