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「考える人のための事典・辞書」平尾浩一

第1回 インターネットは脅威か?

 今日、世界の百科事典と辞書が次々とオンライン化されつつあります。筆者は大学で「百科事典vs インターネット」を主なテーマに据えた講義を担当しています。本連載では情報が氾濫する時代に、それに抗うヒントとしてフランスのヒット百科事典『ユニヴェルサリス百科事典 Encyclopaedia Universalis』(1968–1975初版)や、『プチ・ロベール Petit Robert』(1967初版)の生みの親であるアラン・レイ氏らを取り上げます。インターネット検索の時代において、百科事典と辞書の存在意義はどこにあるのか? 国際的な議論の的となっているこの問題に多角的に切り込みたいと思っています1)

事典の読み比べは、比較文化

 まずは、私自身の体験を書かせていただきます。技術系の学生として過ごした大学の1、2年生の頃は、熱心にフランス語の習得に励んだとは言えません。フランス語に興味を持ち本腰を入れて学ぼうとした時、図書館にあった『ラルース百科辞典 Dictionnaire encyclopédique Larousse』などから5~ 10行程度の好みの項目を拾い読みしながら表現を覚えていました。人名の項目をよく読みましたから « dʼorigine「~出身の」» のような言い回しには早く馴染みました。同時に古い映画に興味を抱き始めたので「へップバーン(オードリー)」や「カルネ(マルセル)」が軽めに扱われ、「溝口(健二)」に多くの行が割かれていると面白く思い、他国の百科事典も参照して比べるようになったのです。そして徐々に「百科事典は、ひとつの文化の集大成ではないか」との思いが強まりました。

 日本に今生きる私たちの「当然」が当然ではないことは、古今東西の百科事典を読み比べれば一目瞭然です。例えば『アメリカーナ百科事典 Encyclopedia Americana』(1993)の「原子爆弾」項では「広島、長崎」に簡単に言及していますが、1945年8月にこの二都市に原爆が投下され、「その数日内に日本との戦争は終結した」と結ばれています。原爆の使用によって戦争が終わった、との印象を与えるこの記述を日本の百科事典は否定します。百科事典についての講義の中で、学生たちは感じているようです。「百科事典は、時代や国民文化、より普遍的には人類の知識の(その時点での)記念物である」と。

『ユニヴェルサリス』vs ウィキペディア

 さて、あるベテランの医師の方が嘆かれていました。「最近は患者さんがネットであれこれ調べまくって迷い、矛盾する情報に疲れ切って来院されるのです。私たちにはバイブルのような医学書があるのですから、それをもって患者さんの頭を整理してあげなければなりません」。医師には、やはり座右の書となる医学の百科事典があるのでしょう。

 En-cyclo-pedia(百科事典)は、人間のもつ全知識を、「円環状に結びつけながら、体系的な教育を行う」というその語源からも分かるように、本来のコンセプトは「読者の消費力より、その理解力、洞察力、判断力に訴える」こと、「問題提起の無限の場となる」ことです。『ユニヴェルサリス』初代編集長のクロード・グレゴリーは「百科事典とは何よりもまず連鎖であるのなら、大量の知識の中で循環の道筋を網目状に構成することが、その役割であるのは明らかではないか」と書きました。

 21世紀を迎えても順調に版を重ねていた『ユニヴェルサリス百科事典』ですが、新時代への対応をめぐって対立が生じます。そして2004年にアメリカのブリタニカ社(ブリタニカの版権は20世紀にアメリカへ移りました)が全版権を買い取ります。その後は私に言わせれば迷走期、『ユニヴェルサリス』は1968年当初のコンセプトとその役割を薄めていきます。本論を収めた約30巻の前に置かれて知の体系を示していた「索引」は、説明もなく最終巻に移されます。序文では「開かれた議論 débats ouverts」2)の存在には触れず、問題提起的な性質は弱まりました。セールスは下降線を描き、2012年に『ユニヴェルサリス』は有料のオンライン事典に変えられてしまいます。数年後にはル・モンド紙などに「『ユニヴェルサリス』、ウィキペディアの脅威に晒されて危機に瀕す」と報じられて論議を呼びました。

 しかし「Web上から簡単に内容を書き換えることができるWebサイト管理システム」であるウィキペディアがその理念として謳うのは、「信頼されるフリーなオンライン百科事典、それも質・量ともに史上最大の百科事典を、共同作業で戧りあげること」。これは「全知識を円環状に結びつけながら、体系的教育を行う」本来の百科事典とは何の関係もありません。新しさ、自由、ある種の民主主義といったものが売りであり、無料である点やスピードの点でもたしかに有利ですが、ウィキペディアは各人が散り散りにもっている知識を、統合することなくそのまま提示します。大量の知識の循環の道筋とは対極に位置する、秩序を欠いた情報の散乱であり洪水です。情報の提供において「最良」ではなく「最速」を目指す、インターネット検索の象徴であると言えるでしょう。

1)事典は「事物、事柄」を扱い、辞典は「言葉」を扱う書物です。しかし実際には日本でも欧米でも、その境界線は曖昧です。

2)『ユニヴェルサリス』では見解が分かれるであろう主題については、写真のような « débats ouverts »のマークが付されます。写真の箇所では、アルジェリア独立戦争時のドゴールの内面に焦点を充てています。

◇初出=『ふらんす』2018年4月号

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著者略歴

  1. 平尾浩一(ひらお・こういち)

    スイスの大学を中心に百科事典・辞書学を研究。同志社大学他・非常勤講師

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