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ダニ・ロドリック著『貿易戦争の政治経済学』特集

『貿易戦争の政治経済学』ダニ・ロドリック著/岩本正明訳 第一章(2)

『貿易戦争の政治経済学 ——資本主義を再構築する』ダニ・ロドリック著/岩本正明訳

<第一章(1)

発展途上国における流行
 過去二十年間は、発展途上国にとっては良き時代だったと言える。米国と欧州が金融危機や緊縮財政、ポピュリストの巻き返しで混乱している間、中国とインド率いる発展途上国は過去に類を見ないペースの経済成長と貧困削減を成し遂げてきた。この時期に限っては、ラテンアメリカ、サハラ以南のアフリカ、そして南アジアも東アジアの成功の列に加わることができた。ところが新興国市場はその宴のピークにもかかわらず、頭上に二つの暗雲が垂れ込めている。
 まず第一に、欧州や米国、東アジアに急速な経済発展をもたらした産業化の道を、今の低所得国は同じようにたどることができるのだろうか? 第二に、先進国が二十世紀に確立したような近代的な自由民主主義の制度を、今の低所得国は発展させることができるのだろうか? これら二つの質問に対する私の答えは、おそらくノーだと言わざるをえない。
 政治に関して言うと、自由民主主義の政治制度を確立し、維持していくには、非常に特別な前提条件を必要とする。自由民主主義の制度の下で便益を得る人々は通常、選挙民主主義の国や独裁国家のケースとは違い、人や資源を自分たちの味方につけていないというのが最大の難点だ。先進国でさえ最近では自由民主主義の社会規範に則って社会を運営するのに苦慮しているのも、おそらく驚くべきことではない。長期間にわたって自由がしっかりと根付いた伝統のない国が、自然と行き着く先は専制政治だ。専制政治は政治の発展だけではなく、経済の発展の上でも悪い影響をもたらす。
 経済成長に行き詰まると、民主主義の発展はより難しくなる。我々の時代における最も重要な経済現象の一つは、私が「早すぎる脱工業化」と名付けたプロセスだ。製造業の自動化やグローバリゼーションによって、現代の低所得国は先行した東アジア諸国と比べて、産業化の機会があっという間に過ぎ去る。以下に論じる理由から、もし製造業が伝統的に強力な成長のエンジンでなかったならば、これはそれほど悲観することではない。
 今では明らかになっていることだが、ほとんどの新興市場に通ずるたった一つの成長パターンがあるわけではない。中国やベトナム、韓国、台湾など製造業の奇跡を起こした国とは違い、近年の成長の優等生は近代的な輸出志向の国内産業を幅広く発展させたわけではなかった。ほんの少し調べれば、産業の転換ではなく内需の拡大によって高成長を実現し、一時的な商品市場の高騰や持続不可能な公的債務、もしくは(より一般的だが)民間債務によって、その成長を加速させた国があることがわかる。確かに、新興市場にも多くの世界水準の企業があり、中間層の規模は間違いなく拡大している。ただこうした国では、生産性の高い企業で雇われている労働者はほんの一部であり、生産性の低い非公式企業が残りの大多数の労働力を吸収している。
 自由民主主義は、発展途上国には訪れないのだろうか? それとも今日の先進国とは異なる形で導入されていくのか? もし産業化が失速した場合、発展途上国にはどのような成長モデルが残されているのか? 早すぎる脱工業化は、労働市場と社会的包摂〔あらゆるタイプの国民全員を社会を構成する一員として取り込むこと〕にとってはどういった意味を持つのか? こうした将来の新たな課題を克服するために、発展途上国は公的部門と民間部門、両方の活力を生かす新しい創造的戦略が必要とされている。

貿易原理主義の時代の終焉
 我々の時代が抱える「極めて重要な課題は、開かれかつ拡大を続ける国際貿易システムを維持していくことだ」。あいにく、世界貿易システムの「自由の原則はますます激しい攻撃にさらされている」。「保護主義がますます幅を利かせるようになった」。「貿易システムが機能停止になる……つまり、あの恐怖の一九三〇年代がリプレイされるように、貿易システムが崩壊する危険性が高まっている」。
 これらのセリフは、ビジネス・金融系のメディアに掲載された反グローバリゼーションの気運を憂慮するここ数年の発言の中から一部抜粋したものだろう。そうあなたが考えてもある意味仕方ないが、実際は三十六年前の一九八一年に書かれたセリフだ。
 当時の問題は、先進国を襲ったスタグフレーションだった。そして世界のマーケットを追い回している——さらに次々とシェアを奪っている——貿易戦争における敵国は、中国ではなく日本だった。米国と欧州は日本の自動車や鉄鋼に対して貿易障壁を設け、「輸出自主規制」を課すことで対応した。忍び寄る「新たな保護貿易」をめぐる議論は激しさを増していた。
 ところがその後に起きたことは、貿易制度に対するそうした悲観論を一蹴するような展開だった。世界の貿易規模は縮小するどころか、一九九〇年代と二〇〇〇年代には爆発的に拡大した。その背景にはWTOの創設や二国間・地域レベルの貿易・投資協定の広がり、そして中国の台頭があった。グローバリゼーション——というよりむしろハイパーグローバリセーション——の新たな時代が幕を開けたのだ。
 今振り返って考えると、一九八〇年代の「新たな保護主義」の動きは過去の歴史から大きく断絶したものではなかった。政治学者のジョン・ラギーが書いたように、制度の崩壊というよりは制度のメンテナンスと呼ぶ方がふさわしい。当時の輸入「セーフガード」や「自主的な」輸出規制(VERs)はその場限りのものであり、新たな貿易関係の到来が突きつける〔国内の利益の〕分配や調整面での課題に対応するために必要な措置だった。
 その当時にオオカミ少年を演じた〔保護貿易の過ちを警告した〕経済学者や貿易の専門家は結局、間違っていた。もし政府が有権者の求めに応じずに彼らの忠告に耳を貸していれば、事態はさらに悪化していただろう。当時の人には経済に悪影響のある保護主義のように見えた政策は、政治的な圧力が過度に高まる事態を未然に防ぐために必要なガス抜きだったのだ。
 今日のグローバリゼーションに対する大衆の反発に対しても、外部の専門家は同じような懸念を感じているのだろうか? 例えば、IMFは成長の鈍化とポピュリズムが保護主義の台頭につながるかもしれないと最近、警告を出している。IMFのチーフエコノミストであるモーリス・オブストフェルドによると、「貿易の統合を拡大するという見通しを擁護することは極めて重要だ」。
 これまでのところ、各国の政府が断固とした態度で開放経済から手を引こうとしている兆候はほとんど見られない。トランプ大統領は貿易をめぐって騒動を引き起こすかもしれないが、彼は口で言うほど大それたことはしないことがわかっている。globaltradealert.org というウェブサイトは、保護主義政策に関するデータベースを管理しており、保護主義が徐々に広がっているという主張を裏付けるデータとして頻繁に引用されている。保護主義的な政策を視覚で表すインタラクティブ・マップをクリックしてみれば、花火の爆発を確認できるだろう(世界中のいたる国に赤い円が出現している)。自由貿易の政策をクリックすると同じくらい緑の円が出現することを確認するまでは、不安になるような絵柄だ。
 今回の保護主義的な動きで特異な点は、ポピュリスト政党が以前よりも力を持ち、選挙での勝利により近いところまで来ているということだ——一九八〇年代以降、グローバリゼーションが新たな段階まで進化したことに対する反応という側面がある。つい最近まで、英国がEUから脱退する、もしくは米国で共和党の大統領が貿易協定を破棄し、メキシコからの移民を標的に国境に壁を建造し、海外移転した企業に罰則を課すと公約するなど誰が予想しただろうか? 国民国家が再び、自らを取り戻そうとしているように思える。
 ただし、一九八〇年代の教訓に照らせば、適度な開放経済を維持することに資するのであれば、ハイパーグローバリゼーションからの多少の揺り戻しは必ずしも悪いことではない。特に我々は、国際貿易や国際投資よりも自由民主主義に必要な要件を優先する必要がある。多少のリバランスをしたとしても、開かれたグローバル経済の余地は大きく残されている。実際は、開かれたグローバル経済を可能にし、維持する方向に作用するだろう。
 ドナルド・トランプのようなポピュリストが危険なのは、彼が掲げる貿易に関する具体的な提案ではない。彼の統治指針となっている排外主義的、反自由主義的な綱領だ。彼の経済政策では、どうすれば米国と開かれた世界経済が共存繁栄できるかに関する一貫したビジョンにはなっていないという現実もある。
 今日の先進国において主流派の政党に突きつけられている極めて重要な課題は、ポピュリストのお株を奪うようなナラティブとともに、そのようなビジョンを考え出すことだ。それら中道右派、中道左派の政党に求めるべきことは、あらゆる犠牲を払ってでもハイパーグローバリゼーションを救うことではない。自由貿易を支持する人々は、彼らが政治的な支持を集めるために、非伝統的な政策を採用したとしても理解を示すべきだ。
 各党の政策は、公平性や社会的包摂を求める思いが動機となっているのか、それとも排外主義的・人種差別主義的衝動が動機となっているのか? 彼らは法の支配や民主的な熟議を強化したいのか弱めたいのか? また、彼らは開かれた世界経済(基本原則は各国で異なるが)を維持するよう努めているのか、今よりも閉鎖的な経済を求めているのか? 我々はこれらの点に注目して目を凝らさなければならない。
 二〇一六年のポピュリストの反乱を受けて、過去数十年続いた慌ただしい貿易協定の締結ラッシュにはほぼ終止符が打たれた。発展途上国はより小規模な貿易協定を締結しようとするかもしれないが、交渉段階の二つの大規模な地域貿易協定であるTPPと大西洋横断貿易投資パートナーシップ協定(TIPP)は、米国大統領にドナルド・トランプが選ばれた時点でほぼ頓挫したようなものだ。
 それら二つの貿易協定が立ち消えになったとしても、悲観に暮れるべきではない。我々が直面している政治面、テクノロジー面での新たな現実を認識して、グローバリゼーションと経済発展を改めてゼロから考え直し、自由民主主義の要件を最優先にすることについて、誠実で信念に基づいた協議を始めるべきなのだ。

より良いバランスを取り戻す
 ハイパーグローバリゼーションが抱える問題は、それが大衆の反発につながりやすい達成不可能な夢物語だということだけではない。結局、市場が依拠する規制・法律上の取り決めを定めることができるのは、いまでも国民国家だけなのだ。エリートや専門家がハイパーグローバリゼーションの妄想にとりつかれることで、国家の正統な経済的・社会的目的——経済的繁栄、金融の安定、社会的包摂——の達成が困難になるということの方がより深刻な欠点と言える。
 我々の時代は、以下に挙げるような疑問を抱えている。貿易と金融において、どの程度のグローバリゼーションを我々は許容すべきなのか? 輸送と通信の革命によって明らかに地理的な距離がなくなった時代においても、国民国家の存在を擁護する論拠はあるのか? 国家はどの程度、主権を国際機関に譲り渡す必要があるのか? 貿易協定は果たして何をもたらすのか、そしてどうすれば我々は貿易協定をより良いものにすることができるのか? グローバリゼーションはどの段階まで行くと民主主義を蝕むのか? 国民として、国家として、我々は国境の向こうの国や人々に対してどのような責任を負うのか? どのようにすれば、その責務を最善の形で果たすことができるのか?
 こうした疑問すべてに答えるためには、我々は国家の統治とグローバルな統治、その二つの間の健全かつ良識のあるバランスを取り戻さなければならない。それぞれの国民国家が自国の社会契約を策定し、自国の経済戦略を考えることができる十分な自律を持つ多元的な世界経済が必要なのだ。世界経済を「グローバル・コモンズ」(世界の共通財)と捉える従来の世界観——我々全員が手を取り合わなければ、経済が破滅に至るという世界観——は、非常に誤解を生むものだと私は主張したい。もし我々の経済政策が失敗したとすれば、それは国際的な理由ではなく主に国内の理由によってそうなるのだ。経済の分野において国家が世界の利益に資する最善の方法は、自国内の経済を秩序あるものにすることだ。
 グローバルな公共財の規定が不可欠な気候変動のような分野では、グローバル・ガバナンスは引き続き非常に重要だ。また、グローバルなルールを設けることで熟議と決定のプロセスがより民主的になり、国内の経済政策の改善に役立つこともある。ただ、社会をより民主的にするグローバルな協定は、我々の時代の特徴とも言えるグローバリゼーションを促すような協定とは大きく異なる様相を呈するだろうというのが私の意見だ。
 次章では、我々の政治と経済の中心を占める存在でありながら、過去数十年間批判にさらされてきた国民国家について議論して行きたい。

◇初出=『貿易戦争の政治経済学 ——資本主義を再構築する』ダニ・ロドリック著/岩本正明訳

*続きはぜひ『貿易戦争の政治経済学 ——資本主義を再構築する』ダニ・ロドリック著/岩本正明訳でお楽しみください。

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