第6回 ラヴェルの生地はピアニストだらけ
サン=ジャン=ド=リューズの「シャレ・アバス」
1917 年7 月初め、ドビュッシーは避暑先のサン= ジャン= ド= リューズに赴いた。スペイン国境近くで、ラヴェルが生まれた街としても知られている。
夏の住居は「シャレ・アバス」といい、イギリス人の陸軍大佐に貸与されていたもの。「魅力的な家です!」とドビュッシーはデュラン宛の手紙で書いている。「遠くのほうに、有名になりたいという野望を持たない小さな山脈が見えます」(実はピレネーの支脈だった)。
とはいえ、体調は最悪だった。「このところ、恐ろしい疲労に襲われています。毎朝の身支度すら、ヘラクレスの12 の難行ほどにも感じられるのです」
ドビュッシー一家が夏をパリ以外の土地で過ごすのはそれが初めてではなかった。1915 年夏には、ドビュッシーが「私のコーナー」と呼んでいたプールヴィルに滞在し、わずか2 か月の間に2 台ピアノのための《白と黒で》、ソロ・ピアノのための《12 の練習曲》《チェロとピアノのためのソナタ》《フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ》を次々と作曲していった。しかし、2 年後の夏は健康がそれを許さなかった。ドビュッシーはデュランへの手紙で「いくつかの管弦楽器群を使ったピアノ小協奏曲シリーズ」の構想について語っているが、それは未来永劫着手されないだろう。
8 月20 日ごろ、ドビュッシーは指揮者のアンゲルブレシュトへの手紙で、サン= ジャン= ド= リューズにはたくさんのピアニストが来ていると書き、リカルド・ヴィニェス(スペインのピアニスト、ラヴェルの親友)、マルグリット・ロン(フランスのピアニスト、教師。ドビュッシー《12 の練習曲》から2 曲を初演)、ホアキン・ニン(キューバの作曲家、ピアニスト。作家のアナイス・ニンの父)の名前を挙げている。
20 世紀初頭、ヴィニェスは《ピアノのために》《版画》《喜びの島》《映像第1・2 集》など中期の傑作を次々と初演したが、作曲家は次第に彼の演奏を「あまりにも無味乾燥」と思いはじめ、距離をとるようになった。
マルグリット・ロンは、1914 年5 月、慈善演奏会をきっかけにドビュッシーと知り合い、7 月には《喜びの島》の指導を受けている。このときは戦争のため中断されたが、17 年8、9 月にはサン= ジャン= ド= リューズでピアノ曲をまとめてレッスンしてもらう機会を得たらしい。その模様は「ドビュッシーとピアノ曲」(音楽之友社)に記されているが、ドビュッシーの「お言葉」には評論や書簡からの引用が多く、どこまでがレッスン記録なのか判然としないところがある。
8 月末には、アルベニス《イベリア》を初演したブランシュ・セルヴァも乗りこんできたらしい。全4 巻からなる《イベリア》はドビュッシーの《前奏曲集第1 巻》(とりわけ〈とだえたセレナーデ〉)に大きな影響を与えた曲集で、第2 巻はまさにサン=ジャン=ド=リューズで初演されている。
9 月25、27 日には、フランスの重鎮ピアニスト、フランシス・プランテがリサイタルを開いている。ドビュッシーはデュランに宛てて次のように書く。
「この人物は桁外れです──いささか恐ろしくさえあります。最初の演奏会で、彼はピアノのハンマーをひとつ折ってしまいました。彼の歳[78 歳]にしては、すごいことです! 彼は「トッカータ」を大変すばらしく、またリストの「鬼火」も見事に弾きました」
《ピアノのために》の第3 曲〈トッカータ〉はドビュッシーのピアノ曲でも難易度の高いほうだし、何より78 歳で最難曲《鬼火》を弾くのは称賛に値する。
1839 年にピレネー地方で生まれたプランテは、パリ音楽院でドビュッシーのピアノの先生でもあるマルモンテルに師事、11 歳で音楽院を卒業した早熟の天才であり、1934 年まで生きた長命のピアニストでもある。
彼は練習魔で、1928 年、90 歳のときのインタビューで「私は毎日8 時間のピアノ練習をつづけて75 年になります」と語って周囲を驚愕させた。この年、プランテはフランスのコロムビアでレコーディングし、そのうちショパン〈練習(エチュード) 作品10-4〉〈同10-7〉〈同25-11〉はYouTube でも聴くことができる。
1917 年9 月27 日、サン=ジャン=ド=リューズの2 回目のリサイタルで《映像第1 集》から〈水の反映〉と〈運動〉を弾くことになっていたプランテは、ドビュッシーに助言を求めたが、作曲家は困惑するばかりだった。
巨匠がマルグリット・ロンには稽古をつけたらしいことをききつけたプランテは、ランド地方の自宅に彼女を呼び出し、〈運動〉を5 回も弾かせながら、「で、あなたにどんなふうに言っていました? ここは? あそこは?」としつこく問いただしたという。
なぜサン= ジャン= ド= リューズでご自分でたずねなかったのですか?ときかれたプランテは、「作曲者にどう思っているのか、たずねるようなまねをすると、それにしばられることになるからね」と答えている。老ピアニストの精一杯の強がりがほほえましい。
◇初出=雑誌『ふらんす』2017年9月号