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青柳いづみこ「ドビュッシー 最後の1年」

第5回 パラードとペトルーシュカ

ドビュッシー(右)とサティ(中央)、1910年頃
ドビュッシー(右)とサティ(中央)、1910年頃

 

 1917年5月5日に最後の作品《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》の初演を果たしたドビュッシーは、同じ月の16日、戦争のため中断されていたロシア・バレエ団の公演に招待されている。

 演目はストラヴィンスキー《火の鳥》やマシーン振付けの《陽気な女房たち》。

 シャトレ座で主催者のディアギレフに会えなかったドビュッシーは、知人に住所を訊ねて手紙を書き、「ロシア・バレエ団の格別の美しさ」を再認識したと謝辞を述べている。ところで、その2日後、同じ会場、同じバレエ団でサティの問題作《パラード》が初演されているのだが、ドビュッシーは列席しなかった(二人はその年の3月、理由は不明だが仲違いしている)。

 ディアギレフ率いるロシア・バレエ団がパリに進出したのは1909年のこと。ドビュッシーも招かれてシャトレ座に行き、天才ダンサー、ニジンスキーが踊る《饗宴》などの舞台に接している。ディアギレフから依頼されて《マスクとベルガマスク》のシナリオを書いたものの、作曲しないままになった。

 1910年6月初演の《火の鳥》でも「まったく異例なリズム上の照応関係」に注目したドビュッシーは、翌年6月に初演されたストラヴィンスキー《ペトルーシュカ》に夢中になった。作曲者への手紙で「それには、一種の音の魔術がありますね。機械人形たちが魔法によって人間へと神秘的に変わっていきますが、今までのところ、あなたは、そうした魔法を戧り出した唯一の人物であるように思われます」と賛辞を送っている。

 このときドビュッシーは、かねてから親交のあったサティとともにストラヴィンスキーを自宅に招き、サロンで写真を撮った(本連載の第1回参照)。

 1912年5月29日、ロシア・バレエ団はドビュッシーの傑作《牧神の午後への前奏曲》にもとづくバレエを初演した。《ペトルーシュカ》を踊ったニジンスキーの振付けデビューとなった作品だが、古代ギリシアの壺のレリーフにヒントを得た奇妙な振付けと性的な動作が顰蹙(ひんしゅく)を買い、パリの知識階級を二分する大スキャンダルに発展した。

 ドビュッシーも後年、「ニンフや牧神たちが、まるで操り人形ででもあるかのように、常に横向きでいかつく、角張って、また古風かつグロテスクに様式化された身振りで動くのを見て感じた恐怖」について語っている。

 翌13年5月、ドビュッシーにとってさらに辛いできごとがあった。彼の《遊戯》とストラヴィンスキーの《春の祭典》が2週間を隔てて初演されたのだ。《春の祭典》におけるニジンスキーの振り付けは、従来のバレエの概念をくつがえす荒々しい動きで、前衛的なストラヴィンスキーの音楽と相まって、大騒動をひき起こした。ドビュッシーの《遊戯》も、振付け・音楽とも斬新なものだったのだが、《春の祭典》と鉢合わせしたためにすっかり影が薄くなってしまった。

 実はドビュッシーは、1912年6月、つまり初演の1年前、音楽評論家ルイ・ラロアの別荘で《春の祭典》を作曲者と連弾で試し弾きしている。「彼[ストラヴィンスキー]は新作「春の祭典」の4手ピアノ版簡易スコアを携えてきた。ドビュッシーは、私が今もなお所有しているプレイエル製のピアノで、低音パートを弾くのに同意した。彼は友人の敏捷で柔らかい手を音の横溢の中に引きずり込んだが、友人のほうは難なくついていき、困難をものともしない様子だった」

 ドビュッシーは初めて見た譜面を難なく弾きこなす大家だったが、有名な指揮者ですら振り間違えるという複雑な変拍子を初見で弾きこなすとは……。ドビュッシーは作品の印象を「美しい悪夢のようにとりついて離れない」と語っているが、どちらかといえば《ペトルーシュカ》のほうが好きだったようだ。

 短期間に一挙に有名になったストラヴィンスキーとは対照的に、サティは無名時代が長く、モンマルトルの酒場でピアノを弾きながら極貧のうちに暮らしていた。自宅にピアノがなかったため、週に一度ドビュッシーの家で練習し、夕食をおごってもらっていた時期もある。

 しかし、1915年にロシア・バレエ団の庇護者ミシア・セールの家でコクトーに紹介されてからは、立場が逆転した。新時代の音楽を推進するためにドビュッシーを否定する必要を感じたコクトーは、サティをその旗頭にかつぎあげたのだ。

 コクトーが台本を書き、サティが音楽、ピカソが衣装と舞台装置を担当した《パラード》は、まさに新時代を象徴するバレエ作品となったが、冒頭にも書いたようにドビュッシーは、《パラード》が初演された1917年5月18日ではなく、2日前の公演を観に行った。

 ドビュッシーが再びシャトレ座に赴いた5月25日には、フォーレ《パヴァーヌ》にマシーンが振り付けた《ラス・メニナス》とストラヴィンスキー《ペトルーシュカ》とともに《パラード》も上演されている。ドビュッシーは《ペトルーシュカ》を「断固として傑作」と讃えているものの、《パラード》については何も語らないままだった。

 死を翌年に控えたドビュッシーが、後輩の2人の作曲家の作品に対して示した反応はなかなかに興味深い。

 

◇初出=雑誌『ふらんす』2017年8月号

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著者略歴

  1. 青柳いづみこ(あおやぎ・いづみこ)

    ピアニスト・文筆家。著書『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』『ドビュッシーとの散歩』

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