第5回 ペトラルカのような詩を作れるのだろうか
本連載(全8回)も今回で第5回となる。前半の4回では語学学習の文法や会話においてどのような活用方法があるのかを探ってみた。ChatGPTでは、何らかの状況設定をして、そこで交わされる会話の例を作ってもらうこともできる。何でもすぐに答えてくれ、非常に優れていて便利だという印象を持つ人も多いかもしれない。
しかしながら、私たちが漠然と「優れている」だとか「便利だ」という感覚は何をもとにして生み出されているのだろか。筆者が語学を大学で教えていると知った人がよく口にする言葉のひとつに「イタリア語がペラペラなんですね」というコメントがある。おそらく「語学ができる=流暢に会話ができる」という図式が潜在意識の中に埋め込まれているのかもしれない。
せっかく時間や労力──場合によってはお金──をかけて、習得する能力であるのだから、流暢に自分の考えを相手に伝えたり、相手の考えをしっかりと理解できる方が良いのは当然だ。ただし、ペラペラとしゃべること自体が目的となってしまっては本末転倒ではないだろうか。つまり、自分の考えや思いを言葉を介して伝え、相手の考えや思いを言葉を介して受け取る。この目標を見失ってはいけないと思う。
筆者がイタリア語を学び始めたきっかけは「イタリア・オペラ」、特にオペラ歌手の歌声や表現力に感動したからだ。当時は歌詞を説明してもらったり、字幕を見ながらの理解だったが、実際に目の前で行なわれる演奏を聴いたとき、歌詞の内容だけでなく、その奥から溢れるような思いのようなものを漠然と感じ取り、その不思議な力に魅了されたのが始まりだ。それから徐々にその不思議な力の正体を確かめずにはいられなくなった。そして、その秘密を本場イタリアの優れたアーティストや教師から直接学び取るぞ、と高校時代に決心した。
イタリア・オペラで歌われる歌詞(台本のセリフ)は韻文で書かれている。また、イタリア・オペラで歌われる内容はほとんど「愛と死」「喜びと苦しみ」といった単語で構成されていると冗談混じりに揶揄されることがあるが、それは少なからず的を射ているだろう。とはいうものの、オペラ台本作家の源泉やお手本となっているのはペトラルカ(Francesco Petrarca 1304-74)の『俗語断片詩 Rerum vulgarium fragmenta(カンツォニエーレ Canzoniere)』である。
イタリア語の歌を専門的に学び、歌う者にとっては、『カンツォニエーレ』の詩句を理解し、表現できるようになることが必要不可欠な要素のひとつであることは案外知られていない。とはいえ、現在、それを原文で読む講座を音楽大学やオペラ研修所で見つけることは難しく、日本語の翻訳書で読もうとしても(池田廉による翻訳が出版されてはいるものの)すぐに理解することは難しいのではないだろうか。
そこで、音楽の分野では恋愛抒情詩のお手本とされるペトラルカのような詩句を今回はChatGPTに考えてもらおうと思う。ペトラルカのスタイルで書かれたソネットということで生成されたのが以下の詩句とその日本語訳である。
ソネットが14行詩であり、4つの詩連がそれぞれ4・4・3・3行で構成されることを踏まえて詩作されている。押韻も途中までは順調だが、最後のところ(第4連目)で第3連目と同じタイプの韻を踏むことができなかったようだ(ABAB ABAB CDC AAE)。
対訳に関しては、それぞれの連がどのような意味なのかは示されているが、どの行がどこに当たるのかは我々が判断するしかない。それらしい――正しい訳文であるかのように示された――対訳はさておき、ペトラルカの詩句を行ごと訳そうとするのは、どだい無理な話である。それは作者であるペトラルカ自身が作品の冒頭で「in rime sparse il suono(字義的に。散り散りの詩片のうちの声)」と述べているように、それぞれの語やフレーズは極限まで解体され、構築され、さまざまな詩文として語られているからだ。
また、より専門的な話をすると、ソネットは11音節詩行で書かれるが、──母音結合や母音分離等のルールを駆使したとしても──6・8・11・14行目については逸脱している。例えば、8行目での「angelo」を「angiol」とすれば11音節詩行のリズムは保たれるが、その選択をしていない。
ここで筆者に新たな疑問が浮かんでくる。ChatGPTは詩句の音の響きやリズム、美しさを判断したり、説明できるのだろうか。次回は詩句の美しさについて考えてみたい。