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根井雅弘「英語原典で読む経済学史」

第15回 ジョン・スチュアート・ミル(1)

 リカードの次の古典派経済学の「巨星」は、ジョン・スチュアート・ミル(1806-73)ですが、ミルを単に「経済学者」と呼ぶのは適切ではないように思います。彼は、幼い頃からリカードの友人であった父親ジェイムズ・ミル(1773-1836)の英才教育を受けましたが、期待にたがわず、若くして論壇においても学界においても驚くべき多才な活躍をした、偉大なる教養人だったからです。彼の『自由論』が、かつて旧制高校の英語のテキストによく使われたことは、前にも触れました。
 経済学をもっぱら「理論史」の観点から眺めれば、ミルはリカードに遠く及ばないと思います。経済理論家としてのリカードの偉大さは、それほど確立しています。しかし、リカードの視野は、功利主義哲学、代議制論、論理学、女性解放論等々にまで関心が広かったミルと比較すれば、やや狭かったと言ってもよいでしょう。視野の「広さ」と理論的厳密性が両立するかどうかは、それだけでも興味深い問題ですが、私たちは、リカードやミルほどの「大物」を評価する場合、それぞれの強みと弱みの両方に留意しなければならないと思います。私は、ミルを教えるときは、経済学の個々の分野での理論的仕事よりは、もっと広い視野で物事を考えた思想家としての側面を重視することにしています。そして、それは、ミルがリカードより遡ってスミスにまでつながる「社会哲学者」(「社会哲学」を「モラル・フィロソフィー」といってもほとんど同じです)の視点でもありました。

 さて、リカード経済学を解説したとき、彼が「定常状態」の到来を回避するために、穀物の価格を引き下げるための自由貿易を提唱したことをみました。定常状態では利潤がゼロとなるので、そのような事態が産業資本家にとって歓迎すべからざるものであることは明らかです。そうならないためには、イノベーションによって土地の生産性が著しく高まるか、自由貿易→穀物価格の下落→賃金の下落と利潤の上昇というルートに期待をかけるしかありません。
 古典派のほとんどの人々にとっては、定常状態とはなんとかそれが到来するのを回避すべきものでした。しかし、ミルは、定常状態の到来をそれほど悲観的に考えず、それを人々が精神的に豊かになるための好機としてむしろ好評価するという異端派のはしりになったのです。
 「はしり」になったという表現を使ったのは、現代では、少数派とはいえ、それに近い考えをもっている人たちがいるからです。フランスの思想界の事情に詳しい人なら、「脱成長」(décroissance)のことだなとピンとくるかもしれません。英語では、degrowthと言っています。『ル・モンド・ディプロマティーク』誌(2003年11月号)には、フランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュ(Serge Latouche)の「脱成長社会のために」(Pour une société de décroissance)と題する文章が載ったことがありますが、「成長のための成長」、簡潔には「経済成長至上主義」が資源の制約や環境破壊などによって維持不可能となっており、「脱成長」という新しい経済哲学を受け容れるべきときがきていることを主張しました。最近では、わが国の全国紙にも紹介されるようになっています。そして、「脱成長」やそれと類似の思想を説く人たちは、ほとんどの場合、19世紀の後半にジョン・スチュアート・ミルという先駆者がいたことを意識しています。

 では、「本家」のミルに戻って、彼が『経済学原理』(初版1848年)において定常状態をどのようにみていたのかを読んでいきましょう

It is scarcely necessary to remark that a stationary condition of capital and population implies no stationary state of human improvement. There would be as much scope as ever for all kinds of mental culture, and moral and social progress; as much room for improving the Art of Living, and much more likelihood of its being improved, when minds ceased to be engrossed by the art of getting on. Even the industrial arts might be as earnestly and as successfully cultivated, with this sole difference, that instead of serving no purpose but the increase of wealth, industrial improvement would produce their legitimate effect, that of abridging labour.


 最初の英文は文法通りでも問題はないと思いますが、原則に従って、「改めて指摘するまでもないが、資本と人口の定常状態が人間的発展の停止状態を意味するものでは決してない」と訳します。岩波文庫に「停止状態」とありますが、stationary conditionならstationary stateとほぼ同じで、「定常状態」と訳したほうがよいと思います。
 そして、「定常状態でも、以前と同じように、あらゆる種類の精神的文化や、道徳的および社会的進歩の余地が十分にあることに変わりはないだろう。また『生活様式』を改善する余地も以前と変わりなく、むしろそれが改善される可能性は、人間の心が出世する術に夢中にならなくなるとき遙かに大きくなるだろう」と続きます。単語には難しいものはありません。しかし、as muchのような部分は正確に訳す必要があります。
 さらに、「産業の技術さえも、以前と同じように熱心に、かつ成功裏に開拓されるだろう。唯一の違いは、富の増大という目的だけに奉仕する代わりに、産業上の改善が労働を節約させるという、そのもっともな効果をもたらすだけになるだろうということだ」とあります。この英文は、初めのEven the industrial artsからsuccessfully cultivatedまでを語順通りに先に訳し、with this sole difference以下を後に回して訳したほうがわかりやすいでしょう。英米人の頭は必ずそのように働いています。

I cannot, therefore, regard the stationary state of capital and wealth with the unaffected aversion so generally manifested towards it by political economists of the old school. I am inclined to believe that it would be, on the whole, a very considerable improvement on our present condition. I confess I am not charmed with the ideal of life held out by those who think that the normal state of human beings is that of struggling to get on; that the trampling, crushing, elbowing, and treading on each other’s heels, which form the existing type of social life, are the most desirable lot of human kind, or anything but the disagreeable symptoms of one of the phases of industrial progress.


 この英文もできるだけ原則に沿いたいと思いますが、英文の構成上やや難しいところもあります。 最初の英文は、例えば、「それゆえ、資本と富の停止状態に対しては、旧学派の経済学者たちが一般に本気で嫌悪感を露わにしてきたのだが、私は、そのような定常状態を彼らほどの反感をもって考えることができないのである」と訳してみましょう。「私はむしろ、定常状態が、全体として、私たちの現在の状態を著しく改善するだろうと信じたいくらいなのである」と続きます。
 次から最後までは文章が長いのですが、単語の意味がわかれば、文の構成は難しくはありません。get onの次に;(セミコロン)があるので、ここで切るのがよいでしょう。「告白すると、私は、人間の正常状態が成功するために苦闘することだと考えている人たちが固執しているあの人生の理想には魅力を感じないのである。すなわち、お互いの足を踏みつけ、押しつぶし、押し分け、踏みつぶすことが現在の社会生活の典型を成しているのだが、それが人類の最も望ましい運命だとか、産業的進歩の一つの段階の決して不愉快な兆候ではないという考えには与することができないのである」と。ミルらしい文章です。

 ミルの定常状態に対する異端の評価は、残念ながら、当時も現在も、経済学界の主流派には受け容れられていませんが、興味深いことに、若い頃はわが国を代表する数理経済学者の一人で、後期から晩年はジョーン・ロビンソン(1903-83)や制度主義の影響を受けて異端派に近づいた宇沢弘文の思想にも影響を及ぼしました。
 宇沢氏によれば、ミルの「定常状態」は、マクロ的諸変数(国民所得、消費、投資、物価水準など)が一定でありながら、ミクロ的には華やかな人間活動が展開されている状態のことですが、このような状態は、ソースタイン・ヴェブレン(1857-1929)の制度主義の経済学によって実現可能だと主張しました。「それは、さまざまな社会的共通資本(social overhead capital)を社会的な観点から最適な形に建設し、そのサービスの供給を社会的な基準にしたがっておこなうことによって、ミルの定常状態が実現可能になるというように理解することができる。現代的な用語法を用いれば、持続的発展(sustainable development)の状態を意味したのである」と(『経済学と人間の心』東洋経済新報社、2003年、118ページ)。ここで、「社会的共通資本」とは宇沢氏独自の概念で、「自然環境」「社会的インフラストラクチャー」「制度資本」の三つに大別されます。ミルの定常状態が決して「ユートピア」ではないという宇沢氏の主張は、「脱成長」を掲げる人たちの思想とも共鳴します。

 古典派のなかでミルほどスケールの大きい教養人を探すのは困難ですが、幸い、彼は自伝を書いてくれたので、その思想の形成過程をかなり詳しく辿ることができます。次回からは、その自伝も参照しながら、ミルの思想の特徴をみていくつもりです。

1 フランス語に慣れた読者のために、原文を引用しておきます。

Après quelques décennies de gaspillage frénétique, il semble que nous soyons entrés dans la zone des tempêtes au propre et au figuré... Le dérèglement climatique s’accompagne des guerres du pétrole, qui seront suivis de guerres de l’eau , mais aussi de possibles pandémies, de disparitions d’espèces végétales et animales essentielles du fait de catastrophes biogénétiques prévisibles. Dans ces conditions, la société de croissance n’est ni soutenable ni souhaitable. Il est donc urgent de penser une société de « décroissance » si possible sereine et conviviale.

 「無駄」「気象の異常」「石油戦争」「水戦争」「生物発生のカタストロフ」…のような個々の単語を拾っただけでも、資源の制約や環境破壊などを連想させますが、結局、「成長社会」は維持不可能であり、「脱成長社会」に道を譲るべきであると続きます。

2 例えば、次の記事が参考になるでしょう。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201007130317.html

3 ミルのテキストは、以下を用います。
http://oll.libertyfund.org/titles/mill-the-collected-works-of-john-stuart-mill-volume-iii-principles-of-political-economy-part-ii


 <参考訳>

 『経済学原理』全5巻、末永茂喜訳(岩波文庫、1959-1963年)

 「資本および人口の停止状態なるものが、必ずしも人間的進歩の停止状態を意味するものでないことは、ほとんど改めて言う必要がないであろう。停止状態においても、あらゆる種類の精神的文化や道徳的社会的進歩のための余地があることは従来と変わることがなく、また『人間的技術』を改善する余地も従来と変わることがないであろう。そして技術が改善される可能性は、人間の心が立身栄達の術のために奪われることをやめるために、はるかに大きくなるであろう。産業上の技術でさえも、従来と同じように熱心に、かつ成功的に研究され、その場合における唯一の相違といえば、産業上の改良がひとり富の増大という目的のみに奉仕するということをやめて、労働を節約させるという、その本来の効果を生むようになる、ということだけとなるであろう。」(『経済学原理(四)』、109ページ)

 「したがって、私は、資本および富の停止状態を、かの旧学派に属する経済学者たちがあのように一般的にそれに対して示していたところの、あのあらわな嫌悪の情をもって、見ることをえないものである。私はむしろ、それは大体において、今日のわれわれの状態よりも非常に大きな改善となるであろう、と信じたいくらいである。自らの地位を改善しようとして苦闘している状態こそ人間の正常的状態である、今日の社会生活の特徴となっているものは、互いにひとを踏みつけ、おし倒し、おし退け、追いこませることであるが、これこそ最も望ましい人類の運命であって、決して産業的進歩の諸段階中のひとつがそなえている忌むべき性質ではない、と考える人々がいだいている、あの人生の理想には、正直にいって私は魅惑を感じないものである。」(『経済学原理(四)』、104-105ページ)

[2018年10月16日追記]
本連載に大幅に加筆し、『英語原典で読む経済学史』として刊行予定です。続きはぜひそちらでお楽しみください。

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著者略歴

  1. 根井雅弘(ねい・まさひろ)

    1962年生まれ。1985年早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。1990年京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士。現在、京都大学大学院経済学研究科教授。専門は現代経済思想史。『定本 現代イギリス経済学の群像』(白水社)、『経済学の歴史』、『経済学再入門』(以上、講談社学術文庫)、『ガルブレイス』、『ケインズを読み直す』、『英語原典で読む経済学史』『英語原典で読む現代経済学』(以上、白水社)、『経済学者の勉強術』、『現代経済思想史講義』(以上、人文書院)他。

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