第19回 限界革命(1)
「限界革命」とは、「限界効用」(財の消費を1単位増やしたときの効用の増加分)の発見に始まり、「需要と供給」の均衡理論に終わる長い理論上の革新を指す言葉です。昔は、限界効用に重点を置き、「限界効用学派」という言葉も使われましたが、現在では、「革命」とはいっても、一気に学界の勢力図を塗り替えたわけではなく、最初に限界効用、次に「限界生産力」(生産要素の投入量を1単位増加させたときの生産量の増加分)というように「限界概念」が普及していき、最終的には、マーシャルやワルラスの均衡理論として結実した理論的革新と捉えるのが通説になっていると思います。わが国では、かつて安井琢磨(1909-95)がそのことを明確に指摘しました1。
限界革命について語るとき、ほぼ同時期に代表作を発表した三人の名前、すなわち、イギリスのウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ(1835-82)、オーストリアのカール・メンガー(1840-1921)、フランスのレオン・ワルラス(1834-1910)が必ず登場しますが、限界効用の発見というだけなら、他にも何名か先駆者が挙げられます。しかし、ちょっと前に指摘したように、限界効用の発見は革命の端緒に過ぎないので、他の先駆者たちに触れるのは割愛します。
さて、最初に登場するのは、イギリスで「リカード=ミル学派」(いうまでもなく、古典派経済学の正流です)の権威に挑戦したジェヴォンズです。ジェヴォンズは多彩な人で、経済理論のほかにも、石炭問題、論理学、貨幣論などの分野でも活躍しましたが、ここでは、経済理論に的を絞ります。彼は若くして亡くなったので、イギリスで大きな影響力をふるうことはなかったのですが、若き日の才気あふれる文章は、有名なケインズを魅了したほど、新鮮な輝きを放っていました2。
1 安井琢磨『経済学とその周辺』(木鐸社、1979年)に収められた論文「限界革命のもたらしたもの」が優れた考察を提示しています。
2 わが国のジェヴォンズ研究としては、井上琢智『ジェヴォンズの思想と経済学』(日本評論社、1987年)が挙げられます。評伝は、ロザモンド・ケーネカンプ『ジェヴォンズ評伝』丸山徹ほか訳(慶應通信、1986年)を参照。
ジェヴォンズの書簡集や主著からの引用は、以下のお馴染みのウェッブサイトによっています。
http://oll.libertyfund.org/people/william-stanley-jevons
若い人の才能はいつの時代でも光り輝くものですが、ジェヴォンズの場合も、20代半ばには、いま限界効用と呼んでいる概念をつかんでいたことが判明しています。彼は、兄ハーバート宛に頻繁に手紙を書いていますが、1860年6月1日付の手紙のなかで次のように言っています。
[1]During the last session I have worked a good deal at political economy; in the last few months I have fortunately struck out what I have no doubt is the true Theory of Economy, so thorough-going and consistent, that I cannot now read other books on the subject without indignation. While the theory is entirely mathematical in principle, I show, at the same time, how the data of calculation are so complicated as to be for the present hopeless. |
[2]Nevertheless, I obtain from the mathematical principles all the chief laws at which political economists have previously arrived, only arranged in a series of definitions, axioms, and theories almost as rigorous and connected as if they were so many geometrical problems. One of the most important axioms is, that as the quantity of any commodity, for instance, plain food, which a man has to consume, increases, so the utility or benefit derived from the last portion used decreases in degree. The decrease of enjoyment between the beginning and end of a meal may be taken as an example. And I assume that on an average, the ratio of utility is some continuous mathematical function of the quantity of commodity. This law of utility has, in fact, always been assumed by political economists under the more complex form and name of the Law of Supply and Demand. But once fairly stated in its simple form, it opens up the whole of the subject. |
手紙の文章のなので、難しい表現はありません。しかし、[2]には、核心に迫る文章が含まれています。手紙なら、ふつうは口語体で訳しますが、ここでは、文語体で統一します。
[1] 「この前の学期中、私は経済学の研究に多くの時間を投入した。そのおかげで、この数カ月のうちに、幸運にも私が疑いなく真の経済理論と信じているものを発見した。それはきわめて徹底的かつ首尾一貫したものなので、いまでは私は、この学問に関する他の本を読むたびに憤りを感じるほどだ」と始まっています。この英文には二重否定、I cannot now read other books on the subject without indignationが使われています。これを「憤りを感じることなく……他の本を読めない」と直訳してもわからないことはないのですが、数学でいえば、マイナスの上にマイナスがあるわけなので、強いプラスの意味で訳してもよいと思います。
次は、「この理論は原理上まったく数学的なのだが、私が同時に示しているのは、計算のデータが差し当たりどうにもならないほどいかに複雑であるかということである」とあります。文法通り訳しても問題ありません。
[2] 最初の英文は、例によってwhich以下が長めなので、ほぼ原則通りに読んでいきます。「それにもかかわらず、私は、数学的原理から、すべての主要な法則を導き出している。そのような法則は、以前にも経済学者たちが発見していたものだが、ただ一連の定義、公理、および理論を厳密かつ関連をもったものとして配列したことによって、ほとんどまるで(それらが)多くの幾何学的問題であるかのように見えるはずだ」と。この英文も、as if以下から訳したら、読みにくくなると思います。( )内は省略してもかまいません。
次は、「最も重要な公理の一つは、次のようなものである。すなわち、何らかの商品、例えば人間が消費しなければならないふだんの食糧の数量が増加するにつれて、最後に使用された部分から得られる効用または便益はその度合が減少するということである。食事の最初と最後のあいだの満足の減少をこの一例にとることができるだろう」という重要な文章が出てきます。これは、いまでも経済学を初学者に教えるときに使う「限界効用の逓減」という現象です。限界効用は、前に触れたように、財の消費を1単位ふやしたときの効用の増加分のことですが、消費量が増えるにつれて減少していきます。ジェヴォンズは、のちに、今日ふつうに使われる「限界効用」(marginal utility)ではなく「最終効用度」(final degree of utility)という言葉を使いました。
最後は、「そして私は、平均して、効用比率は商品の数量のある数学的な連続関数であると仮定する。このような効用の法則は、実際、経済学者たちが需要と供給の法則というもっと複雑な形式と名称の下でつねに仮定してきたのだが、いったん単純な形式で明確に提示されれば、この学問の全体を開明するものだ」とありますが、ここも重要な意味を含んでいます。なぜなら、財の消費から得られる効用が財の数量の連続関数であるならば(ここでは、「効用」とは「総効用」のことです)、簡単な微分法によって限界効用を明確に定義することができるからです。この瞬間から、微積分がわからない学生たちに厳密な経済理論を教えることが難しくなったとも言えるでしょう。
ジェヴォンズは、のちに『経済学の理論』(The Theory of Political Economy,1871)と題する著作を発表しましたが、その第2版(1879年)への序文に次のような文章があります。
But as all the physical sciences have their basis more or less obviously in the general principles of mechanics, so all branches and divisions of economic science must be pervaded by certain general principles. It is to the investigation of such principles—to the tracing out of the mechanics of self-interest and utility, that this essay has been devoted. The establishment of such a theory is a necessary preliminary to any definitive drafting of the superstructure of the aggregate science. |
「しかし、すべての自然科学の基礎が大なり小なり力学の一般的原理にあることが明らかなように、経済学のすべての部門や区分にも、明確な一般的原理が浸透していなければならない。もっぱら、そのような原理の探求――利己心と効用の力学の追究――のためにこそ、まさに本書は書かれたのである。そのような理論を確立することは、科学全体の上部構造を明確に描写するためには不可欠の準備である。」
ジェヴォンズが「利己心と効用の力学」といっているのは、『経済学の理論』第1版への序文にある「快楽と苦痛の微積分学」(a Calculus of Pleasure and Pain )とほぼ同じものと考えてよいのですが、解析が出てくるわけなので、数学が全くわからない読者には読むのが苦痛に違いありません。この連載は数理的展開を主たる目的としていないので、連載全体を通じて、数学の使用はなるべく控えるつもりです。
ただし、ジェヴォンズが、限界革命のトリオの一人として、今日「限界効用逓減の法則」や「限界効用均等の法則」(限界効用が均等になるように財の消費を配分したとき効用が最大化されること)と呼ばれているものを明確に把握していたことは忘れてはなりません。もし不徹底さが残ったとすれば、効用の最大化問題は解いたけれども、市場全体の均衡理論の方向にまでは進んでいないことでしょう。その残された仕事は、のちにワルラスが解決することになりました。この点はいつか再び取り上げます。
さて、「革命児」の定めというべきか、1862年10月、ジェヴォンズは相当の自信をもって、「経済学の数学的一般理論の考察」(Notice of a General Mathematical Theory of Political Economy)と題する論文を大英学術協会F部会に提出したのですが、残念ながら、ほとんど注目されずに終わりました。自信があっただけに挫折感も相当なもので、彼は一時経済理論の仕事から離れ、『石炭問題』(1865年)という資源問題を論じた本を書きました。ところが、皮肉にも、この本は大成功を収め、ジェヴォンズの名前は一気に高まりました。その後、自分と類似の理論が世間に出始めたことに危機感を深め、再び理論へと回帰しました。その研究の成果が、1871年の代表作でした。
ジェヴォンズは、限界効用が財の価値を決めるという新理論が世に受け容れられないのは、「リカード=ミル学派」の生産費説が壁になっているからだと思い込んでいました。ほとんど憎悪の眼でみていたと言ってもよいかもしれません。『経済学の理論』第2版への序文のなかには、次のような激しい糾弾の言葉さえ登場します。
When at length a true system of Economics comes to be established, it will be seen that that able but wrong-headed man, David Ricardo, shunted the car of Economic science on to a wrong line, a line, however, on which it was further urged towards confusion by his equally able and wrong-headed admirer, John Stuart Mill. There were Economists, such as Malthus and Senior, who had a far better comprehension of the true doctrines (though not free from the Ricardian errors), but they were driven out of the field by the unity and influence of the Ricardo-Mill school. It will be a work of labour to pick up the fragments of a shattered science and to start anew, but it is a work from which they must not shrink who wish to see any advance of Economic Science. |
「ついに真の経済学体系が確立されたときには、有能ではあるが片意地な男、デイヴィッド・リカードが経済科学の車両を誤った路線に入れ換えたことがわかるだろう。ところが、その誤った路線は、同じように有能ではあるが片意地なリカードの賛美者、ジョン・スチュアート・ミルによってさらに推し進められて(学界を)混乱状態に陥れてしまったのだ。なるほどマルサスやシーニョアのように真の学説をはるかによく理解していた経済学者もいたが(もっとも、彼らもリカードの誤謬から免れていないが)、彼らはリカード=ミル学派の団結と影響力によって学界の外に追い払われてしまった。粉砕された科学の断片を拾い上げ、新たにスタートするには大変な労力が要るだろう。しかし、それは、経済科学の何らかの進歩を見届けたいと願う人々が決して回避してはならない仕事なのである。」
ジェヴォンズは、最初に述べたように多彩な人で、その仕事を上に挙げたものだけで判断するのは早計です。経済学の分野だけをとっても、彼の資本利子論にのちのオーストリア学派の迂回生産論のアイデアが含まれていたことを高く評価する研究者もいます。それにもかかわらず、彼が若くして亡くなったことと、のちに限界革命と古典派とを見事に統一したアルフレッド・マーシャルが登場したことによって、イギリスの学界におけるジェヴォンズの影響力は決して大きくはならなかったと思います。彼を再評価する研究者の論文を読むたびに、優れた弟子たちを養成できたかどうかが新理論の提唱者の「価値」を決める重要な一因であると思わずにはおられません3。
3 ジェヴォンズの『経済学の理論』には、邦訳(小泉信三・寺尾琢磨・永田清訳、寺尾琢磨改訳、日本経済評論社、1981年)がありますが、訳語が少々古くなっているので、参考にする人は注意が必要です。
最近の研究書では、以下のものを推奨します。
Harro Maas, William Stanley Jevons and the Making of Modern Economics, Cambridge University Press, 2005.
[2018年10月16日追記]
本連載に大幅に加筆し、『英語原典で読む経済学史』として刊行いたしました。続きはぜひそちらでお楽しみください。