第1回 プロローグ
経済学(political economy)は、他の社会科学と同じように、幕末に「輸入学問」のひとつとして日本に導入されました。福沢諭吉が当時芝にあった慶應義塾でフランシス・ウェーランド(1796-1865)のThe Elements of Political Economy(1837)をテキストに経済学を講じた話は有名ですが1、明治維新から150年ほど経った現在、洋書を使わずとも日本語で経済学の基礎が学べる教科書がいくつも出版されるようになっています。
1 関心のある読者は、西川俊作「福沢諭吉、F.ウェーランド、阿部泰蔵」(『千葉商大論叢』第40巻第4号、2003年3月)を参照。
もちろん、経済学に限らず、いろいろな学問が日本語で学べるということは、この国の向学心のある人たちの啓蒙に資すること大であり、日本人として誇らしく思います。しかし、西欧で誕生した経済学という学問を日本語だけで学ぶ限界も同時に認識しておかなければなりません。とくに、日本では、いまだに洋書の日本語訳を通じて重要な文献を読むという習慣があるので、外国語から日本語に移すときに失われる「何か」に気づくことなく、そのまま一生を終える可能性があります。
私は西欧の経済思想史を専門に研究していますが、学部段階の学生たちにすべての古典を原語で読むように指導したことはありません。しかし、一部、たとえ一冊でも古典を原語で読んだ経験は、その人に外国語と日本語の違いは言うに及ばず、西欧と日本の文化や習慣の違いなど、実に多くのことを教えてくれるはずだと信じています。もちろん、私は英文学者でも翻訳家でもないので、学生たちが翻訳家のように訳せるように指導することはありません。しかし、実際に経済英語のような授業で英文を訳させてみると、いまだに高校や予備校で習ったような多少ぎこちない訳し方をしているのを何度もみてきました。受験段階で学ぶ英文法は、それによってなんとか英文を読めるようになるという意味で必須のものなので、大学に入る前はそれをしっかり習得すべきです。しかし、大学生になっても、高校生と同じような訳し方をしてよいのかといえば、それは多少の問題含みだと思います。
かつて旧制高校ではJ.S.ミル(1806-73)の『自由論』(On Liberty,1859)が英語のテキストによく使われたと聞いたことがあります。ミルの自由主義哲学を簡潔に説いた名著で、今日でも熟読するに値します。しかし、この本の原典をどう訳すべきかという点では、識者の意見は一致しません。ある人は、逐語訳のように、原文が浮かぶような訳し方をしたほうがよいと考えています。また、別の人は、必ずしも英文法に縛られずに流暢な日本語に移しかえるべきだと譲りません。私は翻訳家ではないので、その中間くらいの立場をとっています。――英文法通り訳してそれほど違和感がなければそれでもよい。しかし、ちょっと読みづらいなら、欧米人のように前から後ろへ読んでいくような工夫をしたほうがよいと。
具体的に、ミルの『自由論』の第1章から引いてみましょう2。わかりやすいように、文章をいくつかに分けて改行しましょう。
2 パブリック・ドメインに入った自由主義関係の文献の多くは以下のサイトで利用できるので、覚えておいて損はないと思います。
http://oll.libertyfund.org/
ミルの『自由論』は、以下から引用します。
http://oll.libertyfund.org/titles/mill-on-liberty-and-the-subjection-of-women-1879-ed
[1]The object of this Essay is to assert one very simple principle, as entitled to govern absolutely the dealings of society with the individual in the way of compulsion and control, whether the means used be physical force in the form of legal penalties, or the moral coercion of public opinion. |
[2]That principle is, that the sole end for which mankind are warranted, individually or collectively, in interfering with the liberty of action of any of their number, is self-protection. That the only purpose for which power can be rightfully exercised over any member of a civilized community, against his will, is to prevent harm to others. |
(中略)
[3] To justify that, the conduct from which it is desired to deter him must be calculated to produce evil to some one else. The only part of the conduct of any one, for which he is amenable to society, is that which concerns others. In the part which merely concerns himself, his independence is, of right, absolute. Over himself, over his own body and mind, the individual is sovereign. |
私は、学生の頃、『自由論』を岩波文庫(塩尻公明・木村健康訳、1971年)で読みました。多少硬い訳ですが、読むのに不満をもったことはありません。ただし、50年近く前の訳なので、いまの学生たちなら違った訳し方をしても許されると思っています。岩波文庫では、[1]は次のように訳されています。
「この論文の目的は、用いられる手段が法律上の刑罰というかたちの物理的な力であるか、あるいは世論の精神的強制であるかいなかにかかわらず、およそ社会が強制や統制のかたちで個人と関係するしかたを絶対的に支配する資格のあるものとして一つの極めて単純な原理を主張することにある。」(24ページ)
逐語訳に近いものですが、英語に慣れた人には原文が思い浮かぶような忠実な訳と思います。おそらく、私の世代より上の教養人は、このタイプの訳に慣れているかもしれません。しかも、このような訳を好む向きもあるので、あえて何か付け加えるのには多少の躊躇いがあります。しかし、英文はもっと素直に前から後ろに読んでいってもよいのではないでしょうか。
最初の文章は、非常に明快に本の目的を述べています。「本書(『自由論』のこと)の目的は、一つのきわめて単純な原理を主張することにある」と。
as entitled以下は、その原理を説明しています。ここのasは、前の名詞principleを限定する役割を演じており、関係代名詞(この場合はwhich is)とほぼ同じととってもよいものでしょう。英文法は、昔からある名著『英文法解説』(江川泰一郎著)の改訂三版がいまでも生きており、全体を熟読することをおすすめします(金子書房、1991年)。それゆえ、訳としては、「その原理は、強制や統制という形で社会が個人に関与することを絶対的に支配する権利を与えるものであり、用いられる手段が法律による刑罰という形の物理的力であるか、世論による道義的強制であるかは問わない」となるでしょうか。
[2]はどうでしょうか。岩波文庫の訳はこうなっています。
「その原理とは、人類がその成員のいずれか一人の行動の自由に、個人的にせよ集団的にせよ、干渉することが、むしろ正当な根拠をもつとされる唯一の目的は、自己防衛(self-protection)であるということにある。」(24ページ)
立派な訳と思います。that the sole end以下はやや長いですが、ミルの時代の文章には珍しくはありません。thatは形式主語itに置き換えられると考えることもできます。it is self-protection thatというように。そうだとすると、「その原理とは、自己防衛という唯一の目的のためにのみ、人間は、個人としてであれ集団としてであれ、ほかのメンバーの行動の自由に干渉することが正当化されるというものである」と訳してもよいかもしれません。しかし、この訳に固執するつもりはありません。
次の文章も同じようにthat以下が長めです。岩波文庫の訳はこうなっています。
「また、文明社会のどの成員に対してにせよ、彼の意志に反して権力を行使しても正当とされるための唯一の目的は、他の成員に及ぶ害の防止にあるというにある。」(24ページ)
これも忠実な訳と思います。ここでも、thatを形式主語itに置き換えて訳すこともできますが、そうせずとも意味は十分通じています。参考までに訳してみると、「他者に害が及ぶのを防ぐという唯一の目的のためにのみ、権力が文明社会のメンバーに対して行使されるのを正当化しうるのである」となりますが、この訳も「唯一」のものではありません。
[3]はあまり工夫の余地はないかもしれません。岩波文庫では、次のように訳されています。
「このような干渉を是認するためには、彼に思いとどまらせることが願わしいその行為が、誰か他の人に害悪をもたらすと計測されるものでなければならない。いかなる人の行為でも、そのひとが社会に責を負わねばならぬ唯一の部分は、他人に関係する部分である。単に彼自身だけに関する部分においては、彼の独立は、当然絶対的である。個人は彼自身に対して、すなわち彼自身の肉体と精神とに対しては、その主権者なのである。」(24-25ページ)
To justify thatのthatは、中略した前の文章に出てくる色々な「干渉」を指しています。from which以下をどう工夫するかで意見が分かれるでしょうが、例えば、こんな訳はどうでしょうか。「そのような干渉を正当化するには、彼にその行為を思いとどまらせるのが望ましい場合、その行為が他の誰かに害が及ぶことが予測されなければならない。どんな人の行為でも、社会に責任を負っているのは、他者に関係している部分のみである。自分自身にしか関係のない部分では、彼の自主性は、当然、絶対的である。自分自身に対して、つまり自分の肉体と精神に対しては、その個人が主権者なのである」と。
さて、ミルの『自由論』からほんのちょっとだけ文章を引いただけでも、問題はいろいろ出てきました。私は、繰り返しますが、学生たちに翻訳の手ほどきするつもりはありません。この連載を読んでも、プロの翻訳家にはなれません。しかし、長年、西欧の古典を原典で読む経験を積んでくると、彼らがもう少し自然に外国語を読んで訳せるようにならないものかとつねに考えてきました。asやwhichのような簡単な単語ひとつの訳し方によって訳文は全く変わってきます。
英文を高校までの英文法の知識で逐語訳する――これができるだけでも決して簡単ではありません。しかし、大学生になったら、簡単そうに見えても、英文を前に「調べる」「考える」「訳す」という作業を辛抱強く続けていけば、一年後には前とは全然違った訳し方をするようになっているかもしれません。そのためのお手伝いを、経済学の古典を引きながら、試行錯誤でやってみることにしたいと思います。
[2018年10月16日追記]
本連載に大幅に加筆し、『英語原典で読む経済学史』として刊行いたしました。続きはぜひそちらでお楽しみください。