第3回 「どこか」の地図を物語ること
アメリカ人は世界の地理に無知であるとよく言われるし、そのことを裏付けるエピソードには事欠かない。二〇一三年、中国で蜂に刺されて死者が出たというニュースをCNNチャンネルが報道する際、キャスターの背後にあるスタジオの大画面に映し出された地図は……南米大陸の地図だった。リオデジャネイロにあたるところに、「香港」という名前が冠されている光景は、笑っていいものかどうか躊躇われるほどの迫力に満ちていた。
この情報をSNS上で共有したのは、ペルー生まれのアメリカ人作家ダニエル・アラルコンである。『ロスト・シティ・レディオ』をはじめとする彼の小説は、ペルーの首都リマを書き換え、区画もバス路線も独自に引き直した架空の都市となっている。とはいえ、彼の小説には幻想性への傾倒はなく、架空の土地での内戦の恐怖や市街地の様子まで、人々の生活は非常にリアルに描かれている。
アメリカの外にある、リアルでありながら架空の土地を描く作家としてもう一人、ポール・ユーンがいる。彼の短篇集『かつては岸』は、韓国南部にある済州島をモデルとした「ソラ島」の、朝鮮戦争前後と現代の二つの時代を行き来しつつ進行する。ユーンの語りもまた、架空の地図を提示しつつ、実に繊細な筆致により、土地の光と影、そこに暮らす人々の姿を鮮やかに浮き彫りにしてみせる。
世界の地理に関する無知に対し、実在の土地の「正しい」情報を提示することで対抗するのではなく、あくまで虚構としての土地を克明に描き出すことによって、アメリカではない「どこか」を読者に想像させること。それがアラルコンやユーンの試みと言えるだろうか。
二十一世紀のアメリカ文学には、そうした「どこか」が着実に増えてきている。ブルガリアにある架空の村を描く、ミロスラヴ・ペンコヴの短篇「西洋の東」、テア・オブレヒトの『タイガーズ・ワイフ』で架空の設定に変えられたセルビア、またあるいは……。そうした「どこか」がアメリカ文学に満ち、そして溢れ出すとき、アメリカと世界の対話は本格的に始まるのかもしれない。
小説には地図に似た要素があるだけではなく、地図のほうにも小説と親近性がある。今和泉隆行による『みんなの空想地図』を読み始めれば、バスの路線図を眺める行為は「行く先々での未だ見ぬストーリーを勝手に想像してみること」(九頁)だと述べられている。それはまさに、フィクションを読む人間が行っていることではないだろうか。ちなみに、架空の地図作成者としてのみずからの来歴を語る今和泉のこの本は、三人称で語られていたならば、それ自体として優れた小説になりうるようにも感じられる。
同時に、『かつては岸』が一九五〇年代と二〇〇〇年代という二つの時代を描き出していることは、その間に存在した無数の物語の存在も教えてくれる。空間的な隔たりだけではなく、時間的な隔たりを、想像力によって埋めていけるのかどうか。自分がいなかった過去の世界で、人はどう生き、何を感じていたのか。そこに「ありえた」物語とはどのようなものか。『地図で読む戦争の時代』(今尾恵介)で紹介される地図は、まさにそんな文学的問いを喚起してくるし、実際にそれを小説として実践した優れた例としては、柴崎友香による『わたしがいなかった街で』がある。地図をめぐる感性の動きは、現代の日米でシンクロしているようにも思える。
少し離れたところから地図を眺めることから一歩進み、地図の内部に住まい、その土地で起きるさまざまな出来事を生きること、それが物語の役割なのかもしれない。どの地図も空白だらけであり、作者と読者の想像力の出会いによって埋められるのを待っているのだから。