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藤井光「世界の片隅で、世界文学を読む」

第2回 移動の文学

 移動という行為に対して特別な意味を与えてきた社会が「アメリカ」である。移動とはすなわち、より良い場所、より良い未来に向かう運動であり、その先には真の自由なり民主主義なりといった理想が実現されるはずだ……その「右肩上がり」のアメリカ的思考は、今世紀に入ってもなお健在である。
 そんな「アメリカ」にもう一つの言葉、「文学」を加えてみると、たちまち風景は一変する。何と言っても、アメリカ文学が過去三十年、いやひょっとするとここ百年にわたって描いてきたのは、移動が悲劇に暗転してしまうという物語を通じてのアメリカン・ドリームへの疑念だったのだから。
 それではさらに、「アメリカ文学」に「研究者」という言葉を付け加えてみると……移動への欲求が奇妙なまでに消え失せた風景が生じることになる。僕の見るところ、それは日本の研究者に顕著であって、日本人のアメリカ文学研究者における運転免許の不所持率は非常に高い。あるときなど、学会の打ち上げでテーブルを囲んだ六人が全員運転免許を持っていなかった、ということもあった。免許を持たないからといって、アメリカに対する批評的な距離が保証されるわけでもないのだが、研究界におけるアンチ自動車がどれほどの勢力であるのかは調査に値する。
 こうした文学と研究者の天の邪鬼な姿は、自動車による移動がアメリカ社会にいかに深く根差しているかを示してもいる。ロード・ムービーなりロード・ノベルなり、車があって初めて成立する物語はアメリカの専売特許だと言っていい。
 そこから視点を転じてみれば、自動車以外の移動手段を文学に取り込むという発想は、アメリカ文学の外で偉大なる成果を上げてきた。自転車文学の最高傑作といえば、フラン・オブライエンの『第三の警官』だろう。それに対抗しうるのは、ヴィクトル・ペレーヴィンの『宇宙飛行士オモン・ラー』あたりだろうか。いずれも、自転車と人間との奇妙な一体感や、自転車の持つレトロな存在感が人間をも凌駕する傑作である。
 そして今世紀に入って目覚ましい作品を生み出しつつあるジャンルが、飛行機文学である。キルメン・ウリベの『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』、そしてオルガ・トカルチュクの『逃亡派』がその好例だと言える。
 この二つの小説はどちらも、飛行機を抜きにしては成立しえない。小説の語りは「機内」という現在と、数々の過去のエピソードを絡め合わせるようにして進行する。一見してランダムに集められた過去のさまざまな層を、語りが自在に出入りするそのスタイルは、飛行機文学の大きな特徴であるかもしれない。それぞれの過去のエピソードが、たまたま機内で一緒になった「乗客たち」なのだとすれば、そうした過去を目撃しては次に移っていく語りは、機内を手際良く動き回る「客室乗務員」だとも言える。
 飛行機が今世紀の社会で重要さを増すにつれて、新たな「リアル」の形が現れつつある。「きっとそのうち街のほうが、働く場所やベッドを提供する、空港の付属物と呼ばれるようになるだろう」(五五頁)とトカルチュクが書いているように。だが、それは旧来の現実、記憶やアイデンティティといったものの否定ではない。むしろ、さまざまな土地や記憶の断片が、一つの物語に集まって新たな輝きを獲得するなかで、語り手は現在が過去から自由であるのではなく、「過去は自由である」ことを発見するのかもしれない。ウリベの物語におけるバスクの記憶はそのことを教えてくれる。
 記憶や土地、時間と空間の新たな体験としてのフライト・ノベル。この文学のモードに「アメリカ」が追い付けるかどうかが、今世紀の世界文学の一つの指標となるだろう。

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著者略歴

  1. 藤井光(ふじい・ひかる)

    ◇ふじい・ひかる=翻訳家。同志社大学文学部英文学科准教授。訳書に、D・ジョンソン『煙の樹』、S・プラセンシア『紙の民』、ロン・カリー・ジュニア『神は死んだ』、W・タワー『奪い尽くされ、焼き尽くされ』、T・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』など。(略歴は連載時のものです。)

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