白水社のwebマガジン

MENU

新井潤美「ノブレス・オブリージュ——イギリスの上流階級」

第2回 貴族の称号(中)

文学作品における称号
 イギリスの小説や演劇、詩には実に多くの貴族が登場するが、ここでは十九世紀イギリスの作家で、自分の属する階級の人々を鋭い目で観察し、「風習喜劇」とも言えるような小説を書いた、ジェイン・オースティン(1775〜1817)の例を見てみたい。
 彼女のもっとも有名で人気のある作品は、おそらく1813年に出版された『自負と偏見』だろう。舞台はイングランド南部の村で、今ならば「アッパー・ミドル・クラス」と呼ばれる、オースティン自身が属していた階級の人々がおもな登場人物だ。主人公エリザベス・ベネットの父親は、称号はないが年収二千ポンドの地主であり、「紳士」である。しかし、当然跡取りとなる息子が生まれるだろうという根拠のない楽天主義ゆえに、特に倹約もせず、貯金もしてこなかった。娘が五人生まれた後でも希望を捨てなかったベネット夫人だったが、とうとうあきらめざるを得なくなった頃には、倹約や貯金をするには遅すぎたうえ、夫人はそもそも倹約ができない性質だった(第三巻第八章)。土地と屋敷は限嗣相続の制度によって、ベネット氏に息子がいない場合は最も近い男性の親戚のものとなる。この制度については後の章で取り上げるが、重要なのは、ベネット氏が小規模ながられっきとした地主であり、大地主ダーシー氏とエリザベスの結婚はけっして「身分違い」ではないということである。
 ダーシー氏の母親、故レイディ・アンは伯爵の娘であり、その姉妹レイディ・キャサリンはサー・ルイス・デバーグと結婚している。傲慢なレイディ・キャサリンは、土地も財産も小規模のベネット家を見下してはいるが、同じ社交の世界にいる相手であることは承知している。貴族を中心とする「アッパー・クラス」と、「アッパー・ミドル・クラス」との微妙な関係についてもまた別の章で取り上げるが、ここでは登場人物の称号に目をむけていきたい。
 まず、レイディ・アンとレイディ・キャサリンだが、二人に「レイディ」という称号がついているのは、彼女たちが伯爵の娘だからである。これは前に書いた「儀礼上の称号」であり、男性の場合は「ロード」、女性は「レイディ」である。しかしこれがなかなか複雑で、爵位によっても違う。たとえば娘の場合、公爵、侯爵と伯爵の娘は「レイディ」という称号が名前の前につけられるが、子爵と男爵の娘は「ジ・オノラブル(The Honourable)」という称号になる。息子の場合、公爵、侯爵と伯爵の長男(爵位継承者)とその息子、そして公爵と侯爵の次男以下の息子には「ロード」の称号が与えられるが、伯爵の次男以下、そして子爵と男爵の息子はすべて「ジ・オノラブル」である。
 レイディ・アンは爵位のないダーシー氏の父親と結婚したのだから、本来ならば「ミセス・ダーシー」であるわけだが、結婚しても儀礼上の称号を使うことはできる。レイディ・キャサリンの場合は、もう少し複雑である。彼女の夫はサー・ルイス・デバーグであることが、ベネット家の遠縁でその財産の相続者である牧師のコリンズ氏からベネット氏への手紙で、まず明かされる。

 私は幸いにも、サー・ルイス・デバーグの未亡人であられるザ・ライト・オノラブル・レイディ・キャサリン・デバーグの後援を得る機会に恵まれました。
(第一巻第十三章)

 「サー」は、後に述べる世襲制ではない「ナイト」か、あるいは前に書いた「准男爵」に与えられる称号である。サー・ルイス・デバーグがナイトなのか准男爵なのかは最後まで不明だが、レイディ・キャサリンが夫の家系とダーシーの家系についてそれぞれ「称号はないけれども立派な、栄誉ある、古い家系」と語っていることから(第三巻第十四章)、貴族ではないが世襲制の称号である准男爵ではなく、ナイトなのではないかと研究者は推測している。ナイトであっても准男爵であっても、その妻は本来なら夫の名字の前に「レイディ」がついて、「レイディ・デバーグ」となるはずなのだが、レイディ・キャサリンの場合は、伯爵の娘だという「儀礼上の称号」があるので、結婚後も未亡人になっても「レイディ・キャサリン」と呼ばれるのである。「レイディ」という称号が日本語に訳しにくいせいか、和訳では彼女は「キャサリン夫人」と書かれることがよくあるが、これは正確な訳とは言えないだろう。


レイディ・キャサリン「私は人一倍寂しさを感じるたちなのです」
1895年の版に収録されたC. E. Brockの挿画。
Wikimedia commons
https://en.wikipedia.org/wiki/Lady_Catherine_de_Bourgh#/media/File:Lady_Catherine_de_Bourg.jpg

 さらに、コリンズ氏の手紙ではレイディ・キャサリンには「ザ・ライト・オノラブル(the Right Honourable)とまでつけているが、これは通常は伯爵、子爵、男爵とそれぞれの妻につけられる敬称である(公爵、侯爵夫妻の場合は「ザ・モースト・オノラブル(the Most Honourable)」となる)。伯爵の娘には普通はつけないが、つけても間違いではない。肩書きや財産に弱い俗物のコリンズ氏が、ありったけの称号を並べて貴族の娘に最大級の敬意を払っていることが、ここで示されるのである。
 ジェイン・オースティンは小説を書く際にリアリズムを追求し、ものごとを正確に書くことにこだわった。姪のアンナが書き始めた小説に関するアドバイスを綴った手紙が残っているが、その中に、敬称の使い方を批評するくだりがある。

 ミスター・ポートマンが最初に登場するときに「ジ・オノラブル」と紹介される場面がありますが、ああいう場ではその敬称は使われないはずです。少なくとも私の知る限りでは。
(一八一四年八月一〇日付け、アンナ・オースティン宛書簡)

 ここまでこだわるオースティンなので、彼女の小説の中の称号や敬称の使い方はかなり正確だと見ていいだろう。
 「ナイト」の称号は王室から勲章と共に与えられる称号である。ここでは詳細は避けるが、大きく分けて二種類あり、手紙の宛名などで違いがわかるようになっている。ひとつは王室により設立された「騎士団」(Orders of Chivalry)に属するもの、もうひとつは騎士団への入団を伴わない、「ナイト・バチェラー」(Knight Bachelor)と呼ばれるものである。いずれの場合もナイトは「サー」という称号が与えられる。たとえば日本生まれの作家カズオ・イシグロは2018年にナイトの称号(ナイト・バチェラー)を与えられ、サー・カズオ・イシグロとなった。ナイトは、その人物が国、王、あるいは教会に大きく貢献したと認められた際に与えられる称号で、世襲制ではない。

 レイディ・キャサリンの夫については「ナイト」なのか「准男爵」なのか不明だと書いたが、『自負と偏見』にはまぎれもない「ナイト」も登場する。ベネット家が親しく近所づきあいをするルーカス家の主人、サー・ウィリアム・ルーカスである。サー・ウィリアムがナイトの称号を与えられた経緯を、オースティンは揶揄をこめて書いている。

 サー・ウィリアム・ルーカスはメリートンの町で商業に携わっていたのだが、ある程度の財産を築くことに成功し、市長を務めていた時期に国王に挨拶の言葉を送ったことで、ナイトの称号を与えられる栄誉を得たのである。彼はこの名誉にいささか圧倒されすぎたようだった。自分の商売に、そして小さな町に住んでいることに嫌気がさすようになったのだ。商売からも町からも離れ、家族と共に、メリートンから一マイルくらいの距離の家に落ちついた。その家はその時からルーカス・ロッジと名付けられ、そこで彼は自分の地位について楽しく思いを馳せ、商売に邪魔されることなく、周りの人々に礼儀をつくすことに専念することができた。
(第一巻第五章)

 このように「ナイト」の称号は、特にロンドンなどで商売に成功した人々に与えられることが多かった。世襲制ではないとはいえ、名前に「サー」がつくのは大きな名誉であり、サー・ウィリアムが有頂天になるのは無理もない。もともと地主であるベネット家と、商人出身だが称号をもつサー・ウィリアムの家族が、仲良くなりながらも互いに張り合い、微妙な関係であるのも不思議はないのである。サー・ウィリアムの妻は名字に「レイディ」の敬称がついて、「レイディ・ルーカス」となる。この場合も、日本語の訳で「レイディ」を「夫人」と片付けてしまっては、ルーカス夫妻はさぞかし憤慨するだろう。

【書籍化のお知らせ】
本連載に加筆・修正のうえ、書籍として刊行いたします。
『ノブレス・オブリージュ イギリスの上流階級』新井潤美 著
2021年12月下旬刊

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 新井潤美(あらい・めぐみ)

    東京大学大学院比較文学比較文化専攻博士号取得(学術博士)。東京大学大学院人文社会系研究科教授。主要著訳書:『執事とメイドの裏表―イギリス文化における使用人のイメージ』(白水社)、『階級にとりつかれた人びと 英国ミドルクラスの生活と意見』(中公新書)、『不機嫌なメアリー・ポピンズ イギリス小説と映画から読む「階級」』(平凡社新書)、『パブリック・スクール―イギリス的紳士・淑女のつくられかた』(岩波新書)、ジェイン・オースティン『ジェイン・オースティンの手紙』(編訳・岩波文庫)

関連書籍

フランス関連情報

雑誌「ふらんす」最新号

ふらんす 2024年5月号

ふらんす 2024年5月号

詳しくはこちら 定期購読のご案内

ランキング

閉じる