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『ことばを紡ぐための哲学:東大駒場・現代思想講義』特集

【座談会】「来たるべきことばのために」中島隆博×石井剛×梶谷真司×清水晶子×星野太(3/4)

『ことばを紡ぐための哲学:東大駒場・現代思想講義』(中島隆博・石井剛編著)
座談会「来たるべきことばのために」
中島隆博×石井剛×梶谷真司×清水晶子×星野太

<第1回 <第2回

「よく隠れし者、よく生きたり」

中島 この25年のあいだで、われわれが苦しんできたのは「評価」という問題だと思うんです。わたしも去年まで担当していた役割で、多くの時間を割いたのは評価なんですね。この評価というのは魔物なわけです。この評価が大学に持ち込まれていて、まあ苦しいこと。

星野 最近は、なるべく「隠れる」ことにしています。

中島 隠れる?

星野 キャッチフレーズ的にいうと「隠れて閉じる」という感じでしょうか。ゲリラ戦を行なうというのがここ数年の自分のスタンスで、とくにわたしは美大にいるので、非公式的なゲリラ戦が比較的仕掛けやすい(笑)。最近つねづね感じるのは、シンポジウムからワークショップまで、専門的であるはずの学問的討議の場が(悪い意味で)ひらかれすぎているということです。露出過多ですね。アウトリーチが重要であるのは言うまでもありませんが、それによって専門知を掘り下げるための場が薄められてしまったら本末転倒です。だからこそ、「露出せよ」という強迫観念に抗しつつ、隠れて閉じる。そのかわりに地下でゲリラ戦を、というイメージです。

中島 ゲリラ戦と大学ですか?

星野 大学が通常の意味でひらかれていくのは、もちろん大切なことでしょう。ただ、すべてが透明になることで、失われるものもまたある。合法性のもとでの「不透明性」の確保といったことも、よく考えます。わたしは個人的に「結社」と呼んでいますが、制度的な後ろ盾を持たない、しかし濃密なコミュニケーションが循環するギルド的な場が必要です。

中島 デカルトは中世の格言「よく隠れし者、よく生きたり」、これを座右の銘にしていたといいます。この態度は学者として大事だなと常々思ってきました。いまの大学を覆っているある種の透明性要求は非常に強烈です。これを拒否するのは難しい。なぜかというと、それは今日的な啓蒙の言説と手を結んでいるからです。それに対して、不透明性とか、隠れるというためには、相当いろんな仕掛けが必要だろうと思いますね。

星野 単純にひきこもるのではなく、現れたまま隠れるという戦略もありますね。ペルソナの使い分けという表層的な話ではなく、いかに公共空間のなかに新たな通路を見いだしていけるか、という。

中島 ここには孤独の問題もありますね。われわれがものを考えるときに、どこかでひとりで背負い込むしかないときがある。みんなで楽しく議論をする、それによって思考がひらけたり、思考がインスパイアされるときもあります。でもどこかで、自分がそれこそ隠れて、孤独の底で思考を紡がなきゃいけない場面がどうしても残ります。わたしは、孤独であることが、どこかの時点や、なんらかのかたちでないと苦しいなと思うんですね。

星野 ある意味では、孤独の確保がいちばん難しいかもしれない。

中島 孤独はある種の切断の行為です。切る、切ってはじめてまた結ぶことができる。ただつながってるだけじゃしょうがない。どこかで切ることをやらないと、思考の空間は担保できません。でもこの切り方がすごく難しい。うまくやらないとすぐに独りよがりになったりします。この切断の問題が大事かなと思っています。

清水 フェミニズムの古典の一つに、ヴァージニア・ウルフの『自分だけの部屋』があります。ウルフは「女にはひとりでものを考えられる部屋が必要で、ものを考えるための、時間をとるためのお金が必要だ」と言う。切断というのは抽象的な意味ではなくて、いま自分にかかっている、たとえばこの子ども、この老人、この病人をどこで断ち切るのかという問題でもあります。切断は一面で必要なのですが、同時に女性はしばしば簡単には切断できないケアの場に立ち会わされてもきたわけで、まさにそういう場からしか出てこないような知と、切断や孤独の重要性とを、どう結びつけるか。簡単に切断に踏み切ってしまえば、そういう知はたぶん見えなくなる。けれど、切らなければ、考える時間も、気力ももてない。

中島 パーソナルな話をすると、わたしはいま子育てと介護の両方をやっています。さすがに「介護きついな」と思う時がありますが、それは切断する時間がない時ですね。ずーっと介護をやってるとどうにもうまくいかなくなるんですよ。切断して自分のなかで生活を組み立てなおさないと、介護にも向きあえない感覚がすごくあります。それは、わたしのなかでは、哲学的な論文を書くのと実はあまり変わらない作業なんですね。

批評のエコノミー

中島 『知の技法』は日本的な批評のひとつの成果でもあると思います。ところが、その後、批評はどうなったのか? このことを考えると、そんなに元気があるような感じもしません。批評はどこに行ったのか? 批評的な態度はどこに行ったのか? 知の制度がもっている、ある種の権力性をあばくことは、わたしはすぐれて批評的な行為だったと思います。そうするといま批評っていうのはどうなっているのでしょうか?

清水 率直に言うと、90年代のわたし自身にとって一番クルーシャルだった問題にかんしては、日本語圏の批評はとくになにも言ってくれなかったと思います。それについてなにか言っていたのは、その当時は主に英語圏の批評だった。批評がどうなったんだろうというとき、日本の批評なのか、英語圏でのクリティカルセオリーなのかでちがってくるような気がしています。英語圏でもブームは去っている気もしますけれども。

中島 英語圏ではどうして去ったんですか?

清水 ジェンダーやセクシュアリティにかんしては、具体的な政治課題が優先されるときに、いちいち前提に立ち戻って疑ってかかったりする批評的な態度は事態の進展を遅らせる可能性があるとして嫌われることがある。もうひとつは、批評的な態度は、ある意味で、いまわたしたちが見ているものは実はそうではない、こんなによく見えても実はそうではない、という、何かを「あばく」態度です。逆説的ですが、これは見えているものをある程度納得して受け入れている人にしか、有効さを実感されにくい。露骨にひどい暴力や抑圧に直面している人々にとっては、「あばく」までもなくそこに暴力なり抑圧なりが最初から見えているわけです。批評全体というより、フェミニズムとかクィアの批評にかんしては、90年代の終わりから2000年代にそういう傾向にあった。

星野 自分の実感としても、アメリカの批評理論ということで真っ先に思い出されるイェール学派の批評などは、もうかなり遠いものになってしまったという印象があります。ではなぜそうなってしまったかというと、やはり当時の批評理論というのはかなり独特なエコノミーをもっていたと思うんですね。いまの普通の学生がポール・ド・マンの論文を読めるかというと、おそらく読めない。たぶん読もうとも思わない。文体、分量の双方の意味で、あまりにも効率的なエコノミーに反して書かれているものだから。

中島 長い。読みにくかった。

星野 人文・社会科学系でも、いまのアカデミック・ペーパーは「この論文ではこれこれの問題を明らかにします」とはじめに明記する、そういうエコノミーが一般的になっていますね。いまの学生にとってはそれがスタンダードですから、読んでも何が書いてあるかわからない高度に複雑なテクストは、そもそも読もうとすら思わない。話は変わりますが、最近よく三木清の著作を読んでいて、いろいろと考えさせられることがあります。三木は1930年に治安維持法の関係で法政大学を辞めて、それからは在野の批評家になったわけですが、彼がそれでも食べていけたのは、やはりその時代の出版の活況があったからです。当たり前のことですが、批評の問題はかなりの部分、経済問題でもある。三木は新聞や雑誌に批評を寄せるかたわら、岩波書店の雑誌で編集顧問のような仕事もしていた。時代はとんで、戦後日本における批評の活況を振り返ってみても、『エピステーメー』や『パイデイア』のような特殊な雑誌が成立していた時代の経済状況にしっかりと目を向けるべきです。批評の窮状という問題を語るうえでは、こうした経済の問題を避けて通ることはできないのではないでしょうか。最後にもうひとつだけ付け加えると、いまわたしが個人的に知っている、20代半ばで制度と現場の両方にまたがって活動している優秀な人たちは、誤解をおそれずに言えば、すごく「野蛮」なんです。わたしの世代は、批評的な知が、それこそ駒場的なエートスに象徴されるように、大学のなかに・・・取り込まれた時代でした。しかしわたしよりも下の世代は、はじめから大学の窮状を目撃しながら自己形成しているので、もはやそこに過剰な期待はかけていない。だから、ある意味ではめちゃくちゃなことをする。大学ではなく、もはや現場でやっていくしかないという、そういう野蛮な……

中島 パンセ・ソバージュ再びですね。ある種の「野生の思考」が戻らなきゃしょうがないということは、当然あるのかもしれない。

梶谷 よく上の世代が言ってる「人文学はお金のためにあるわけではない」というのは嘘っぱちだよね。経済的な基盤があってはじめて言えることがある。

清水 でも「お金のためにあるわけではない」というのを切って捨てた結果が、「だからまずはお金をつくらなくちゃならない」となると、たぶん違う話になると思うんです。それこそウルフに戻るんですけど、ウルフが、「女には500ポンドのお金がいる」って言ったときに、彼女はお金をつくるやり方を考えようと主張するわけではなく、単に考えるためにはお金がないといけないと言うわけですよね。実際にはどこからともなくお金が降ってくるわけではないんですけど、それでも理想として必要なのはお金をつくることではなくてお金があることなのかもしれないな、とも思ったりします。

梶谷 だから野蛮というか、ゲリラ的なことをやらないといけないというのは、非難すべきではないと思う。それが次の時代の経済的な基盤の構築に結びつくかもしれない。

>第4回

◇初出=『ことばを紡ぐための哲学:東大駒場・現代思想講義』中島隆博・石井剛編著

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