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[座談会]待鳥聡史×宇野重規「いま、なぜ、コモンズか?」第3回

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新築がお好きですか?

待鳥 砂原さんが本書の第四章で「コモンズとしての住宅は可能だったか」という論考を寄せています。

宇野 『新築がお好きですか?——日本における住宅と政治』(ミネルヴァ書房)を上梓されたばかりですね。

待鳥 政策誘導という側面はあったわけですが、新築持家社会はやはりよくなかったのではないか、という問題意識です。新築の持家って、買ったら三十年は離れられないし、やっぱり一生に一度の買い物だから所有権にこだわるし。例えば、お互いの所有権を徹底的に尊重すると、お隣さんがどんなに奇抜な壁の色になって不快でも、なかなか文句は言いづらい。所有権を前提にしつつ、それの及ばない範囲でも協力する誘因が限定的にしか作用しないので、コモンズ的ではないですよね。中古の家を買って、十年住んで引っ越すのが一般的という方が、所有権とは切り離された協力の誘因が生まれるので、住宅地はコモンズになりやすい。先ほど挙げた、マンションの管理組合の問題も、分譲ということがやっかいなのかもしれません。

宇野 持家という切り口は面白い。よく言われるけど、日本の場合、中古市場がちゃんと成立していないから、新築の家でも価値が下がりやすい。家を買って、数年経って改築して付加価値を付けて売るという、出入り自由な感じはない。これが可能になるためには中古市場が成熟しないといけません。そうでないと、一度買ったら最後まで住むしかなくなる。そして、ローンも抱えてますます動けない。家ってそもそも都市に自由に参入するためのインフラなわけです。でも日本の場合、住宅政策の結果、住むことが運命になってしまう。

待鳥 戦前の日本の大都市は借家中心でした。それが戦後、持家中心に変わる。戦争でインフラは壊れているわけだから最初は新築でスタートして、そこから新築持家社会が生まれてきたわけだけど、これが都市の「農村化」を促す大きなメカニズムだったんじゃないか。そう考えると、ここにも「近代としての戦後日本」の特徴と課題が見えてきます。江頭さんが扱ってる商店街も、砂原さんの新築持家社会も、あるいはマンションも、戦後の問題なわけです。戦後の急速な人口移動と政策誘導に規定されてますし、その根底には日本の社会や経済を近代的なものにするという、明治以来の基本的な志向が作用していました。でも、そうなるとなかなか根深くて、これを変化させるのは相当厳しいという話になるんですかね。

宇野 「コモンズと私的利益は必ずしも相互排他的ではない」なんて抽象的に言うと、理屈っぽく聞こえるけれど、持家の話はリアルです。欧米では、それぞれの家に手を入れ、街並みを綺麗にして、「なんかあの街は素敵だな」となると、その地域の価値が上がって、結果として高い値段で自分の家が売れる。だからみんな自分の身の回りを綺麗にする。そして、それが結果的に地域というコモンズを盛り上げることにつながっていく。でも日本では私的利益をうまく媒介する中古市場という市場メカニズムが働かないから、負の意味で「農村化」する。コモンズは決して市場メカニズムを排除しません。むしろ、コモンズと市場メカニズムはセットみたいなところもあって、健全に市場メカニズムが機能している方がコモンズも機能する。自分にも最終的に利益になるから地域を盛り上げる。反対に市場メカニズムが機能しないと、「あなた、当番なんだからやりなさい」と「農村化」してしまう。市場メカニズムが出入り自由を保証し、だからこそコミットし協力する。どうやったらこういう考え方を自然にできるようになるか。これは中古市場の整備などで政策的な課題にできる。仕組みや制度の問題にできるわけです。

いじめと離脱の自由

宇野 かつての公共性論には、公共性の名の下に私的利益を制限する発想も見られたが、そのような議論にはどこか無理がある。むしろコモンズ論は私的利益も認め、市場メカニズムを認め、その上で、ルールを守ることを重視する。私的利益が前提にあって、その限りで協力してください、そのためにみんなが協力しやすいように制度をつくっていきましょう、という発想の方に可能性があるのではないか。コモンズにはそういう意味で未来がある。公共性を高めようとかコミュニティを大事にしようとかいうより、こうしたコモンズのありかたの方が、日本社会の処方箋としてはいいと思う。

待鳥 本書では取り上げませんでしたけど、大事なテーマだと思ったのが学校です。学校ってコミュニタリアン的論理が強烈じゃないですか。掃除当番から運動会まで、「みんなのためにやりなさい」という話なんですね。運動会ってなんか村祭り的です。

宇野 教育は重要なテーマです。これを落としたのはたしかに痛い。日本のいじめのほとんどは教室内で起こる。クラスメイトの中で一方が被害者になり、もう一方が加害者になる。なぜかと言えば、同じような集団を長時間、一定の空間に押し込めてストレスをかけるからです。それで、みんな苦しくなるわけです。はけ口を求めていじめが始まる。部活みたいに「みんな一緒に」、「みんなのために頑張ろう」というのも大事かもしれない。でもいまはそれが行き過ぎてる。息苦しいし、そこから離脱できない。離脱すると、とんでもないコストがかかる仕組みができていますね。だから学校がいじめの温床になっちゃっている。出入り自由という感覚が極度に乏しい。もう少し離脱の自由が認められないと辛い。

待鳥 小学校の高学年になったら一人の担任が全教科を受け持つのはやめた方がいいんじゃないかと思うんですよ。科目別で混成クラスにするとかね。十歳くらいになったらだんだん「自分」ができてくるから、ひとつのクラスにあれだけ長時間いて、同調を求められるというのは息苦しいでしょ。人生であんな経験をすることはほかにはない。

宇野 ない! ない! 異常な空間です。外に出ればあれが異常だったと分かるんだけど、なかにいると分からない。だから辛くなる。自分が悪いと思っちゃう。

待鳥 戦後日本の官庁や企業は学校と似た空間をつくってきましたね。いわゆる大部屋主義。みんなで集まって執務して、個々のあいだの分業もあまりない。助け合いと言えば助け合い。見張ってると言えば見張ってる。ただ、今は採用形態も雇用形態も多様化して、こうした大部屋主義自体が難しくなってる。海外で生まれた人、育った人、任期を決めて雇われている人、終身雇用の人、派遣の人、そういう多様な人たちが集まる場所で、学校を共通記憶にするような大部屋主義は無理なんですね。

宇野 担任の先生と合わないなんて話はよく聞きますが、べつに先生と生徒のどちらかが悪いわけではないんですね。人間、相性があるので、すべての生徒に合わせられるわけではない。同じ先生が全科目、同じ教室で見るなんて無理に決まっていますよ。だから大部屋主義は相性が悪いと、悲劇です。

待鳥 大部屋主義は無理になっていて、それを押し通して悪い方に出ると、ハラスメントの温床になりますね。だから職場の「飲み会なんで来ないんだ」と、学校の「給食は全部食べなさい」は同じことなわけです。

宇野 そうだよなあ。

待鳥 だって別に嫌なら来なくていいし、どうしても食べられないものはあるわけで、突き詰めると楽しむのは駄目ということになります。飲むのも食べるのも、本来は楽しいものですよね。コモンズとの関係でいえば、そこに話題の出し方とかマナーみたいな緩やかな制約はかかってる。自分だけが勝手にやって楽しいというものではないわけですが、個々人が納得して制約を受け入れるなら、それは楽しさと矛盾せずに、場を共有する全員がさらに楽しくなる。戦後日本が近代社会になっていくときには、こういう話にはならずに、楽しさを圧殺して共同体規制をかけた。コモンズがコミュニティに代替されたのはなぜなのか、やはりもう少し掘り下げた方がいいですね。

宇野 きょうは少し「農村化」で説明しすぎたかもしれないね。文化論に陥るのはよくない。

待鳥 合目的的組織の変質という視角もあるでしょう。農協や生協なんてそう。戦後の協同組合って出発点にはコモンズ的要素が強かったと思うんです。個々人が独立していることを前提に、合意による協調でより大きな利益を目指すというね。でも、組織がいつのまにか合目的的組織ではなくなって、みんなを縛るようになる。協同組合、コモンズ、コミュニティの三題噺とでもいいますか、このあたりは今後考えていく課題にしたいと思っています。

宇野 重要なテーマですね。福井のプロジェクトに関わっているとき、地元の農協が中央に反逆して大騒ぎになったことがありました。農協はもともと地域で働く農民の協同組合なのに、そのことがいつのまにか分からなくなってしまう。巨大な組織に組み込まれ、協同組合の特性が失われてしまう。結果として農協はがんじがらめの日本の組織の典型みたいに言われますが、もともとは違うわけです。

>第4回

◇初出=待鳥聡史、宇野重規編著『社会のなかのコモンズ ——公共性を超えて』

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