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[座談会]待鳥聡史×宇野重規「いま、なぜ、コモンズか?」第1回

待鳥聡史、宇野重規編著『社会のなかのコモンズ ——公共性を超えて』より、待鳥氏、宇野氏による座談会「いま、なぜ、コモンズか?」を全4回で公開します。

待鳥聡史×宇野重規「いま、なぜ、コモンズか?」

近代と反近代のあいだ?

待鳥 本書『社会のなかのコモンズ』は、サントリー文化財団の「コモンズ研究会」の成果です。メンバーの中では、もともとは田所昌幸さんがコモンズに注目しておられて、研究会を組織することになりました。ただ、田所さんが想定していたのは、グローバル・コモンズやサイバー空間でした。国際政治学者らしい関心で、結果的にそうしたテーマを扱った章は鈴木さんだけだったというのは、ちょっと面白くも申し訳ない感じもあります。

宇野 待鳥さんは、そもそもコモンズという概念に関心を持っていたんですか?

待鳥 砂原庸介さんが『大阪——大都市は国家を超えるか』(中公新書、二〇一二年)を書かれましたが、この本が出たときに、従来の大都市をめぐる議論で使われてきた区切り、例えば政治行政的な領域と社会経済的な圏域とか、そういった区切りをもっと可変的に考えないとうまく処理できない問題が多いことに、考えさせられました。コモンズという話があったときに、最初はもちろん手探りでしたが、区切りの可変化という発想との相性が良いように感じました。私自身の進めてきた研究との関係では、やはり政党ですね。二〇一五年に『政党システムと政党組織』(東京大学出版会)という本を上梓しました。この執筆の中で、従来の政治学が前提としてきた政党の実態がなくなりかけていると気付いた。党員の減少や利益配分の困難という話にとどまらない、もっと根本的な問題がある。それをどうやれば解けるのか。この問題に取り組むのにコモンズが手掛かりになるのではないかと考えたわけです。

宇野 コモンズという言葉は、最近いろんなところで耳にするようになりました。個人的にコモンズについて考えるきっかけになったのは、東日本大震災で釜石に入ったことかな。最初の頃から被災地でよく話題になったのは、所有権が復興の妨げになっているということでした。自動車一台撤去するにしても所有者を探さないといけない。でも結局、所有者は見つからず、撤去できない。土地の境界も手がつけられず、どうにもならない。近代的所有権って、ある意味で窮屈なんです。それこそ、人口も増えて経済も成長しているときだったら、境界線を引いて所有権を確立しないとやっていけないでしょう。一方、今みたいに人口が減る中で、社会の負担を公正にシェアすることが問題になる時代に、所有権はときに障害になるのです。一人でも所有権を楯に反対すればどうにもならない。所有権が強すぎる。東日本大震災以後の社会は、あちこちで所有権に制限をかけないとやっていけない事態が起きています。ただ、社会主義的に上から所有権を制限するのも現実的ではありません。

待鳥 所有権、より広く言えば私権ですか。たしかにそうしたものをなくしてしまう、あるいは価値がないように見なしてしまう、やや比喩的に言えば溶かす。そういった発想は取りたくないですね。だから私権を溶かすでもなく、またそれが過剰になって社会に負荷をかけるでもなく、というバランスが大事なんでしょう。

宇野 全国をまわって意外だったのは、実は商店街の人たちって、必ずしも街づくりに協力的ではないんですね。「閉じた店を貸してくれ」と言っても、なかなか貸してくれない。いつか息子や娘が帰って継ぐかもしれないから。だから、街づくりの運動をやっている人たちは、とても苦労されている。そんな話をあちこちで聞きました。商店街は本来、社会の公共財であり、地域の人たちの大切な公共の場でした。それをみんなで盛り上げてきたのが、ここにきてむしろ私的所有の論理が持ち出されてきている。親族でない、誰かほかの人には譲りたくないというのです。昔の商家は、血縁ではない養子に継承させることもよくあった。有能な人に店の経営を委ねていたわけです。それが店を代々続かせることにつながった。商店街だって、血はつながっていなくても、地域の若い学生に入ってもらってカフェなんかをやればいいのに、そうはならない。近代家族的な発想が出てきて、絶対帰ってこない子供を待っている。その論理が何かひっかかりますね。

待鳥 私は近代主義者という自覚があって、基本的に公私二分論を重視していますし、そこでの近代的な個人の自律や自由、その具体的な基盤あるいは帰結としての私権を維持したい。ただ同時に、現代的な課題としては、それらが過剰な負荷を社会にかけないメカニズムをどうつくればいいか、そこも考えねばならないと思っています。所有権や私権を前提とした上でどう御していくか。溶かさずに御す。そこが大事かなと。

宇野 もちろん公私二分論はまず大前提です。公私があいまいな前近代の共同体には戻るべきではありません。

リバタリアン・コミュニタリアン論争

待鳥 ただ現代のコモンズ論の背景には、コミュニティとかコミュニタリアン的なものがあるような気もするんですね。思想的なことについて素人の私から見ると、コモンズ論とコミュニタリアニズム(共同体主義)の近さは気になります。両者の違いは、どのへんにあるんでしょう?

宇野 いや私は、現代コモンズ論は必ずしもコミュニタリアン的ではないと考えています。マンション管理組合なんて典型的だけど、「コミュニティの義務だから、あなた役員をやりなさいよ」というコミュニタリアン的な論理で、日本社会中が息苦しくなっている。

待鳥 ああなるほど。学校のPTAとかもそうですね。逸脱行動に対する制裁のロジックが本当に強い。

宇野 コモンズの発想はむしろリバタリアン的ではないでしょうか。コミュニティを嫌いとは言わないまでも、苦手な人たちの思想とでもいうか。本書で取り上げたレッシグなんかいい例です。レッシグは民主党から大統領選に出ようとしたから、リベラルのイメージがあるけど、メンタリティ的にはアメリカの頑固な自由主義者、リバタリアンです。コミュニタリアン的にみんなで仲良くしようという発想が好きではありません。だからこそある種の「もの」なり「場」を介して、お互いに侵害し合わないようにして、快適に暮らそうと志向する。また、ルールが非常に大事になってくる。ただし、そのルールは決して上から規制するものじゃない。個人と個人が一定の距離を保つために出来てきた自生的ルール。それをみんなで守ろうよ、というものです。

待鳥 コモンズ論が近代社会や公私二分論を前提にしていることは、よく分かりました。ただ、前近代の誘惑というのかな。近代社会はやはりしんどい。アメリカでちょっと暮らすと、昼寝するにも理由がいるような気になるわけです(笑)。自分で決めたこととして、いちいち説明しなければならないのは、面倒でしょうがない。だから全部自分で決めなくていいよ、みたいな人格的依存の誘惑が常に反近代として醸成されてきて、コモンズ論にも流れ込んでいる印象もありますね。みんなで決めたこと、みんなの持ち物にして、私を楽にしてほしい、という。

宇野 現代のコモンズ論でもときどき見かけるけど、「私的所有に分割される前の、みんながすべてを共有した時代はよかった」、「近代資本主義がすべて悪い」、「私的所有が悪い」という、過去にユートピアを見出す論法は違いますよね。近代的な公私二分論、私的所有が大前提で、その上で、さらに次に行かないといけない。そのときにどういう理屈とメカニズムが必要か、ここが知恵の出しどころです。これをやらないと衰退していく社会ではやるべきことがやれなくなってくる。われわれのコモンズ論はここを突きたいわけです。

待鳥 私が研究会を続けていくうちにだんだん理解が深まったことがあって、それは、コモンズという空間は、公共性論ないしコミュニタリアン的な自己犠牲の場でもないし、また前近代的な人格依存の世界でもない、ということですね。今ごろ何言ってるんだ、と叱られそうですが、コモンズではやはり「自分で選ぶ」ことが非常に大事になってくる。そしてある組織に入ったらそのルールを守るわけです。ただ、ここで一歩間違うと「ヤクザもコモンズか」みたいな話になりかねない。本当のところは分からないけど、彼らは自分で選んで組に入っている。入ってからは組の掟でもって自生的な秩序を形成する。でもこれをコモンズと呼べるかは意外に難しい。直観的には呼べないけど、何か追加的な理屈が要りそうな感じですね。

宇野 「自分で選ぶ」というのは非常に重要なキーワードです。コミュニタリアンとの違いということで言うと、「出入り自由」も大事。いつのまにか気付いてみたらメンバーに入れられていた、自分では参加したつもりはないんだけど「あなたはここのメンバーだから」と言われるのは、嫌ですよね。私は私なんだから。かつ一度選んだら、「一度仲間になったのだから、ずっと一緒」と言われると、これはこれでツライ。やっぱり嫌になったら出て行く自由が確保されていないと、共同体化しちゃう。やはりヤクザは抜けられないからコモンズではないんじゃないかな(一同爆笑)

待鳥 それを聞いて安心しました(笑)

宇野 ただし、コモンズって、出入り自由のオープンさがあり、開かれているところがあるけれど、その一方で、好き勝手で無責任でいいかといえば、それは駄目です。ルールをみんなで守っていく責任があります。ルールを守らない人がいたら「あなた、それは駄目だよ」と言う人がいないといけない。そういう意味で、プレッシャーはある。でもそれがあるからこそ初めて守られるものがある。そして耐えられなくなったらいつでも出て行けばいい。コミュニタリアン的論理と似ているところもあるけど、決定的なところで違う。「好きでやっているのだから、ルールを守りなさい」、「ただ嫌になったらいつでも辞めていいよ」というバランス。このバランスが崩れるとコモンズは空洞化します。

待鳥 中間的な論理なんですね。だから厳密に定義しようとすると難しい。こういうやり方をすれば、いつでもどこでも円滑に運営できますというような、コモンズの一般理論は無理なんじゃないか。これがコモンズ論のやっかいなところです。

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◇初出=待鳥聡史、宇野重規編著『社会のなかのコモンズ ——公共性を超えて』

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