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[座談会]待鳥聡史×宇野重規「いま、なぜ、コモンズか?」第4回

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「政党」から考える

宇野 つい先日『未来をはじめる——「人と一緒にいること」の政治学』(東京大学出版会)を刊行しました。女子高での講義を書籍化したものです。面白いのは、彼女たちの多くは比例代表制と多党制が好きだと言うんです。

待鳥 女子高生に限らずみんなそういう感じでしょう。日本には多党制が好きな人多いですよ。

宇野 なぜかと言うと、「政党の数が少ないと自分に合った政党が選べないから、選択肢はたくさんあった方がいい」と。「無理やり政党の数を収斂させるのはよくない」と言うんです。でも、考えてみると、政党って自分とぴったり合う人が集まる集団ではないと思うんです。なかにはいろんな立場の人がいて、利益調整していく。なぜ、政党内でそれを行うかと言うと、いきなり社会全体で結論を出すのは無理なので、いったん政党という単位で議論してもらう。そこである程度、収斂させることで、オプションを絞る。その上で選挙を行い、有権者が政党を選ぶ。だから自分に合った政党ということを強調すれば、政党の数は無限に増えてしまいます。そもそも政党という組織が存在する理由がなくなってしまう。というのも、違う人間が集まって、その違いを乗り越えようと努力することで、権力に近づくのが政党だからです。その意味で、政党はコモンズなわけです。そういう発想があまり日本にはありません。

待鳥 近代の組織政党モデルの影響なんでしょうかね。「自分の考えに近い政党が正しい」、「そういう政党を選ぼう」と、それが正しいこと、望ましいことという説明で、今までやってきました。若者向けのいわゆる有権者教育も、マスメディアや有識者の啓発も、みんなこのモデルです。ただ、このモデルは上意下達のがっちりした階層構造を持ってます。とくに原則については、党内で話し合って考えや方針が変わることを嫌う。党内の分派や雑居性を許さない。むしろ変化することが無原則でダーティーなものとして捉えられる。これが二十世紀の政党のモデルだった。でもこのときの「自分の考え」はあくまで経済的利害を意味していて、だから救われていた面があったわけです。ところが、これがいつの間にかそうではなくなって、経済的利益に限定されないトータルな「自分の考え」になっちゃった。「儲かりまっか」という話が、いつのまにか全人格的な一致になった。全部マッチしないといけない。高校生たちは経済的利害ではなく全人格的な一致を求めてるでしょ。

宇野 そうですね。

待鳥 当たり前ですけど、全人格的一致を追求するのは、非常に息苦しいわけです。こうした事態は、政党が伝統的に果たしてきた経済的利害配分が難しくなると、ますます強まってくる。その結果が、修復困難なほどの分極化であったり、他者を激しく排除するポピュリズム政党の乱立であったりする。一致しないといけない範囲が広がるほど、妥協が難しくなる。これにどこかで歯止めをかけないといけない。もちろん政党を作ったり、政党同士で協力する場合に、ある程度まで考えが近いのは重要かもしれない。でも政党に入ってから考えを近づけようとすることの方がはるかに大切です。だから変わったっていい。極端に言えば、ちゃんと議論して検討する過程が確保されているならば、政党も個人も五年前と言っていることが違ってもいいわけです。これが「熟議」だと思う。だから、熟議デモクラシーは政党の中にしか実装できないんじゃないか。

宇野 政党ってコモンズの議論にぴったりはまりますよね。自民党から民主党に政権交代したとき、民主党が掲げたのは「新しい公共」でした。派閥に象徴される閉じた自民党的体質を打破すると言って、公共性をキーワードにした。そして、ヒラバでみんなで議論したわけだけど、ぐちゃぐちゃになってしまった。みんなでただ議論しても決まるわけではないのです。物事を決めるには、いろんなルール、段階、調整を含めて、非常に洗練されたノウハウがいるのです。結果としてガバナンスの欠如で失敗した。それでは、今の自民党はどうかというと、そうしたダイナミズムが回復したとは思えない。

待鳥 そうかもしれません。かつての自民党の場合にも、やはり戦後日本の組織として、コモンズ的なものをコミュニティ的なもので代替した、あるいは代替したフリをして面倒を避けた面はあったでしょう。そういうのは、いったん壊れると取り戻せないし、公共圏の発想では代替できませんよね。

宇野 どこでも議論しましょうという汎議論主義は、ある意味で物事を決めることから一番離れてる。待鳥 「どこでも」ではなく、「一定の場」であることが大切なんです。だから熟議にはルールとコミットが非常に大事になってくる。政党は公的存在なので、そういう枠組みを整えやすい。

「社会」のなかのコモンズへ

宇野 フェイスブックにはコミュニティ形成的なところはありますね。これに対してツイッターは誰とつながっているか分からない。むしろ拡散力に意味がある。匿名でばらばらの個人があるときは炎上を起こし、あるときはムーヴメントを起こす。ポピュリズム的契機ですかね。どちらもコモンズ的かと言うと、そうでもない。

待鳥 ソーシャル・ネットワークの空間では、合目的的である場面が限られてます。自分で選んで入って、ある目的のためにつながるということがコモンズでは重要な契機なわけです。だから全人格的にコミットするわけでもなく、その場かぎりでもない、ある意味で中間的なコミットメント。そういうのはソーシャルな空間では得られないのではないか、という印象がありますね。

宇野 大陸ヨーロッパで、例えばドイツ語で「社会的(sozial)」と言うとき、社会主義とは言いませんが、社会的公正や社会的連帯という、非常に強い意味がありますね。それに対して、アメリカでソーシャル・ネットワークとかソーシャル・メディアと言う場合、大陸ヨーロッパ的なsozial の重さはない。もっとみんな出入り自由で、多様な個人がたまたまつながることから価値が生み出されていくという意味合いがあります。こうした発想はプラグマティズムに起源があると言えます。日本にも社会という言葉が入ってきたわけだけれど、ヨーロッパ的な意味もアメリカ的な意味もどっちもないね。社会的公正もないし、出入り自由さもない。

待鳥 アメリカのソーシャルを考えるときに大事なのは、空間的な広さでしょう。歴史的に見れば嫌になったらよそに行けば良かったわけです。この感覚は、現在もなお残っているように思いますね。

宇野 同感です。

待鳥 アメリカの都市でコモンズ的なところは東海岸の限れた場所にしかない。空間的に拡散できると、自律と規制を両立させるコモンズは面倒だから、まあ分かれて暮らしましょうということになりますね。現代のゲーティッド・コミュニティ(街区の入口に門を造り、多くは富裕層である住民以外は入れなくした住宅地で、アメリカの郊外に多い)も、内部にコモンズを創り出しているつもりなんだろうけれど、ゲートの外側との遮断、つまり本来的な意味でのコモンズをいったん拒絶した後に生み出されたものなんでしょうね。

宇野 アメリカのソーシャルは、モビリティとセットですよね。

待鳥 移れない社会のソーシャルと移れる社会のソーシャルは大分違う。それにしても「社会」という言葉を僕らはいまだにうまく消化できていない。コモンズにもそういうところがあります。だからコモンズについて考えるということは「社会」について考えることにつながってる。

宇野 なるほど。コモンズを僕らは最初、都市的なものと理解しようとしたけれど、社会的なものに接続していけるわけですね。コモンズって不思議です。ときには公共性論に近づいたり、ときにコミュニタリアン的に響いたりする。しかし、コモンズにはコモンズ特有の意義があり、それを突き詰めると「社会」について再考することに結びつく。だからこそ魅力的なわけです。(了)

二〇一八年十一月六日、白水社編集部

◇初出=待鳥聡史、宇野重規編著『社会のなかのコモンズ ——公共性を超えて』

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