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[座談会]三浦信孝・福井憲彦・三谷博「革命とは何か?」第1回

三浦信孝、福井憲彦編著『フランス革命と明治維新』より、三浦信孝・福井憲彦・三谷博各氏による座談会「革命とは何か?」を全3回で公開します。

[座談会]三浦信孝・福井憲彦・三谷博「革命とは何か?」

三浦 今年は王政復古の大号令に始まる明治維新から百五十年ということで、六月に東京・恵比寿の日仏会館で「明治維新を考える」というシンポジウムを開きました。そして、その書籍化されたものが本書です。シンポジウムでは「比較」という視点を重視しました。具体的にはフランス革命と明治維新との比較です。

福井 自画自賛ではないけれど、世界的に見ても第一級の研究者を結集することができました。日本側は明治維新史研究の世界的権威である三谷博さんと日本政治思想史の渡辺浩さん。フランス側はフランス革命史研究の本家本元、ソルボンヌの革命史研究所からピエール・セルナさんと、日本史に関する広い視野をもっているピエール=フランソワ・スイリさんです。

三浦 「比較」と言っても、フランス革命と明治維新は全くもって非対称的で、比較は難しい。これは全員の共通了解でした。それを前提にどんな議論ができるのか、あるいはできたのか、本書を手に取っていただきたいと思います。ここではより広い視野で、明治維新とフランス革命について考えましょう。


三浦信孝氏 

記念と慰霊のあいだ

三浦 フランス革命二百周年の時(一九八九年)には世界中からフランス革命研究者がソルボンヌに集まり、七月に一週間かけてシンポジウムが開かれました。日本からも柴田三千雄と遅塚忠躬、樋口陽一、西川長夫、中江兆民研究の井田進也、啓蒙思想研究の中川久定の諸先生が参加した。では、明治維新百五十周年に日本で同じような国際学会があるかといったら全くない。「記念(commémoration)」の仕方が全然違う。フランス革命史研究にはジャコバン正統派とフランソワ・フュレらの修正派があるにしても、革命を共和国の出発点として重視する。ナショナル・アイデンティティを再確認するという意味合いもある。一方、日本では、政府が明治改元の詔が発せられた十月二十三日に記念式典を行なうようだが、国民には全く開かれていない。その違いを痛感します。

三谷 日本とフランスの国民的な記念のあり方の違いという点は、言われて初めて気が付きました。

三浦 フランスでは七月十四日が「国民の祝祭日(Fête nationale)」として非常に大事です。いわずもがな、バスティーユ攻略の日です。一方、日本の革命記念日に相当する建国記念日はいつかというと、どの日を選んで百五十年を祝ったらいいか特定の日付がない。アメリカの独立記念日は七月四日。日本の独立は? アメリカの占領が終わって主権を回復した日という考え方も、保守勢力にはある。

福井 サンフランシスコ講和条約が発効した一九五二年四月二十八日ですね。

三谷 日本にはネガティブな記念日というのはあって、それが八月十五日。祝う日ではなく慰霊の日です。これは近代史の違いからきています。大日本帝国ができた維新はもう遠い昔になっていて、日本の近代は一九四五年ではっきり二つに分かれている。

三浦 一九四五年八月十五日で日本は主権が天皇から国民に移ったという、宮沢俊義の「八月革命説」というのもある。日本という国が出来た日というと、紀元前六六〇年に神武天皇が即位したとされる二月十一日が建国記念日になっている。

三谷 神話の世界の話です。

福井 近代国家という意味ではまるで違いますね。

三浦 たとえば駐日フランス大使館が、 来賓を招いて祝う日は七月十四日。一方、 日本の大使館が駐在先の国で一番盛大に日本を祝う日は、天皇誕生日なんです。

三谷 今から五十年前、一九六八年の明治百年の頃はみんな維新を同時代の問題として捉えていた。一方に佐藤栄作首相がいて、もう一方には「戦争はもうこりごりだ」という歴史家がいた。彼らは現代の政治的社会的な課題を解決するために維新を参照した。みんな一九三〇年代の日本を維新に投影していたんですね。でも、僕みたいに戦後生まれの歴史家になると、一九四五年以降の政治体制が自明なわけです。政治について考えるとき、もう維新を参照する必要はない。その分、非常に気楽といったらおかしいけど、突き放した態度で研究はできます。


福井憲彦氏 

革命観の対立

三谷 シンポジウムにおいても本書『フランス革命と明治維新』においても、根本的と言っていい革命観の対立がありました。セルナさんは、僕の維新論には民衆運動が書かれてないと批判する。フランス革命で決定的に打ち出された基本的人権についてあまり触れていないところも気に入らなかったようです。ただ僕から言わせると、明治維新に民衆はあまり関係しなかった。一揆や打ちこわしがあちこちで起きていましたが、それは経済的な闘争であって、民衆は政治、権力争奪に関与してこない。そこは決定的に違う。もうひとつ非常に重要な点は、明治維新においては、死者が非常に少ない。僕の明治維新解釈で一番重要な部分は、統治身分が解体されたこと。そして被差別民がなくされたこと。身分制改革は非常に難しいことなんだけれど、これがちゃんとできたということはとても大きなことです。それだけでも評価すべきです。福澤諭吉がアメリカの独立宣言からパラフレーズして「天は人の上に人を造らず」と言えたのも、そのお陰です。その前提に廃藩による武士の総失業があったのです。

三浦 たしかに普遍的理念をあらゆる革命にあてはめようとする傾向がフランス人にはあると思う。もともとセルナさんはフランス革命と明治維新は比較できないという立場だった。三谷さんは比較するための土台を作りたいと思ってこれまで研究し英語で発信されてきた。

三谷 プラットフォームは幾種類も用意できる。そこで議論すればいいわけです。

三浦 明治維新を世界史の重要な革命の一つに加えることによって、革命というものの考え方を組み替えるという意図が三谷さんにはあるわけですね。

三谷 革命を体制転覆というように丸ごとに把握しては駄目です。一つひとつ変革点をばらして検討しないと。

三浦 革命比較から革命の一般理論をつくるのは、なかなか難しいのではないか。

三谷 日本史の同業者から「おまえの維新理解は冷たいな」と言われたことがあります。僕は医者みたいな態度で分析しているから。そもそも、登場人物に同情していない。理解には努めますが。

三浦 日本の革命史研究者からのフランス革命への問題提起は高橋幸八郎以来あっただろうか。例えば、ヴィシー時代のフランスについてフランスではタブーだった対独協力を暴いたのは、アメリカのロバート・パクストンという研究者で、これは一九七〇年代に「パクストン革命」と言われた。そういう問題提起が日本の研究者にはあるのか。その点で、三谷さんの問いかけはセルナさんに大きなショックを与えたと思う。セルナさんはフランス革命史における正統派の継承者です。フュレ派に対しては拒否感がある。

三谷 セルナさんは僕のことも渡辺浩さんのことも修正派だと言っていました。そんなに間違いではないけどね(笑)。

三浦 正統派はトクヴィルと聞いただけで「お前は修正派か」ということになってしまう。そこは教条的です。

三谷 僕は革命史研究所の前任、ジャン=クレマン・マルタンさんには会ったことがある。東アジアの歴史認識論争の背景を知りたいと、今から六、七年前にパリ第七大学に招かれた。「それならあわせてフランス革命史の専門家を呼んでくれ」と頼んだ。そしたらマルタンさんが来てくれた。マルタンさんはヴァンデの反乱をはじめフランス革命の暴力性の問題を取り上げて仕事をされた方、私の提出した論点に丁寧に答えてくださった。セルナさんの教条的な対応とは全く違いましたね。

三浦 パリの革命二百周年学会を組織したミシェル・ヴォヴェルが先日亡くなりました(十月六日)。革命二百周年の秋には日本のシンポジウムにも来ています。

三谷 私も話を聞きに行ったな。

三浦 二〇〇〇年代初めにも日本に来ていて、僕はコスモポリタンな革命がいかにナショナリスティックな革命に変容していったかという講演を聞きました。エクサンプロヴァンスにお住まいでお家に伺ったこともあります。『ジャコバン――ロベスピエールからシュヴェヌマンまで』という本も書いて、「共産党員が自分ひとりしかいなくなっても、私は死ぬまで共産党員だ」と語っていた。でもすごく優しい人。革命期の心性史研究が有名です。当時の遺書を調べて死生観を探ったりしている。正統派ではあるが、ごりごりではない。

福井 理論で現実を裁断しない人だった。

三浦 柔軟かつ批判的な先生で、そのヴォヴェルの愛弟子がセルナさんです。

三谷 革命史研究所といえば、その創設者ジョルジュ・ルフェーヴルです。僕も『一七八九年――フランス革命序論』(高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳、岩波文庫、一九九八年)は読んでいます。この本は革命を柔軟に扱っている。アリストクラート・ブルジョワ・民衆・農民という四つの革命が複合したものがフランス革命だという把握は鮮やかで啓発的です。それが世代を経るごとに単純化されていないか、気になるところです。というのも、日本の維新史学もそうなんです。新政権はいろんな大名の寄り合い所帯だから薩長だけを讃えるわけにはいかなかったが、いつのまにか薩長中心に書かれるようになった。戦後になって遠山茂樹は長州一辺倒で書いちゃった(『明治維新』岩波書店、一九五一年=二〇〇〇年)。それが今の教科書に受け継がれている。尊王攘夷から尊王倒幕、そして廃藩置県へ。一直線に進んだかのように書かれている。

三浦 三谷さんは長州一辺倒の維新史を書き換えたように思いました。

福井 維新史のマスターナラティヴの問題ですね。その完成は総力戦体制下だった(維新史料編纂事務局『維新史』全五巻、付録一巻、明治書院、一九三九―一九四一年)。しかもそれが批判されないままに戦後に民主派に引き継がれる。これは何なんでしょう。

三谷 不可解ですね。戦後史学は王政復古を排除しようとした。しかし、それを除いたら戦前も戦後もほとんど同じなんです。


三谷博氏

>第2回 >第3回

◇初出=『フランス革命と明治維新』三浦信孝、福井憲彦編著

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