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東京大学教養学部編〈知のフィールドガイド〉特集

「アメリカ文学名場面集」吉国浩哉

「アメリカ文学名場面集」
吉国浩哉

東京大学教養学部 編『知のフィールドガイド 分断された時代を生きる』所収)

アメリカ文学といえば…… ?
 「アメリカ文学」と聞いて、日本ではどんな作家や作品が思い浮かべられるのだろうか。ヘミングウェイだろうか。あるいは『トム・ソーヤーの冒険』だろうか。いずれにせよ、イギリス文学、フランス文学、ドイツ文学ほどには作家名や作品名があがってこないのは確かだろう。現代世界におけるその政治的・経済的影響力とは裏腹に、アメリカ合衆国の文学は案外知られていないのである。
 しかしそれでも、アメリカ合衆国にも「文学」と呼ばれうるものはある。そして、これからその一部を、「名場面集」というかたちで見ていきたいと思う。ただし、これらの「名場面」は私が独断的にセレクトしたものである。アメリカ合衆国が建国されてから250年も経っていないとはいえ、そこで書かれた文学作品は膨大であり、それらすべてを網羅することは不可能だからだ。またそれらすべてに通底するような「アメリカ文学の本質」のような観念もありえない。
 音楽では『ベスト・オブ・チャック・ベリー』のような、いわゆる「ベスト盤」があり、それまで知らなかったアーティストについて簡単に知りたいときには役にたつものである。それと同じように、この「アメリカ文学名場面集」も、これまで日本ではそれほどなじみのなかったアメリカ合衆国の文学について、細かい説明はともかくとして、実際にその一部に触れる機会となることを目指している。それは、いわば、具体的な個々の作品の引用からなるコンピレーション・アルバムである。
 しかし、私が独断的に「名場面集」をセレクトしたとはいえ、結果的には、そこで触れられた作品のなかで一定のパターンのようなものが浮かび上がってくることになる。もちろんそれは、「アメリカ文学の本質」のようなものではまったくなく、むしろ私のアメリカ文学に対する関心のあり方を表すものである。そこに私にとっての・・・・・・「アメリカ文学」が現れていると言うこともできるだろう。
 そのようなパターンを前もってあげておくと、以下の三つである。
 ・人生を棒に振る
 ・ダメ男
 ・突拍子もない行動
 「人生を棒に振る」ことがまず挙げられているが、これは、(私にとっての)「アメリカ文学」がいつも説教くさく人生について語っているというわけではなく、アメリカの文学作品で誰かの人生が描かれると、だいたい棒に振って終わるということを示している*1。そのため、この「名場面集」も、いくつかの例外を除いては、結末で主人公が死んでしまう物語ばかりであり、しかも何か偉大なことを達成して死ぬわけではなく、基本的には無駄死にする物語である。
 けれども、無駄死にだからといって、彼らの人生がそれ自体としても無意味なのではない。そこにはなにかしら注目に値するものがあり、無駄死にであるにもかかわらず、われわれの目を引かずにはいられない何かがそこにはある。これが「名場面集」で伝えたい一つのポイントである。そのために、具体的にいえば人生を棒に振る方法とは一体何なのか、アメリカ文学の主人公たちは、どのように転落していくのか、そのことを詳しく観察していきたいと思う。

突拍子もない行動
 まず指摘しておきたいのは、人生を棒に振ることになるそのきっかけは、主人公の不可解な行為、「突拍子もない行動」であるということである。それは突然の行動で、なぜそんなことをやるのか、理由や原因はまったく不明、そのような行動である。
 フランク・ノリスというアメリカの作家が1899年に発表した小説『マクティーグ』を見てみよう。
 19世紀終わりのサンフランシスコ、マクティーグという名の男が歯科医としてみずからの医院を営んでいた。彼は無口で、ちょっとむさ苦しい感じの大男なのだが、たまたま患者としてやって来た若い女性、トリナと恋に落ち、そして結婚することになる。物語が急展開をみせるのは、2人が平穏な家庭を築くかにみえたこの瞬間からである。
 まず結婚後3週間ばかりして、居眠りをしているマクティーグの姿を見て、トリナはどういうわけだか泣き出してしまう。その場では気持ちを取り直して、なんとかやり過ごすのだが、危機はさらに深刻になって「もう一度」現れてくる。

 しかし、この最初の危機、この瞬間的な叛逆、結局、はりつめた女性の神経がさせた業にすぎなかったのであるが、それは過ぎ去って、ついに「熊さん」〔マクティーグのこと〕に対するトリナの愛情は、知らず知らずのうちに成長していった。彼女は次第に彼を愛しはじめたが、それは彼そのものに対する愛ではなくて、彼女が彼に引き渡してしまったものに対する愛情だった。もう一度、ただ一度だけ、トリナは夫に対して嫌悪の念を感じたことがあったが、それはほんの一瞬のことで、まったく奇妙にも、ある朝食後にマクティーグの濃い口ひげに卵がついていたのを眺めたために起こったのであった。*2

 まさしくこの瞬間から、マクティーグとトリナの夫婦関係の破綻が始まり、そしてそこから2人の人生そのものも崩壊していく。この場面の後まもなくして、マクティーグは無免許であったことが発覚し、歯科医を廃業せざるをえなくなる。それと並行して、トリナのほうも異常なまで金銭に執着する奇癖をみせるようになっていく。
 物語としては、このような不幸な出来事がこの夫婦を次々に襲うことになるが、その一連の転落のきっかけとなったのは、マクティーグの「濃い口ひげ」についていた「卵」なのである。つまり、それ自体にはまったく意味はなくても、この口ひげについた卵を見てしまった瞬間から、トリナのマクティーグに対する嫌悪の感情が生まれてしまうのである。この無意味な口ひげの卵によって、幸福から不幸へとマクティーグとトリナの人生は180度転換し、最終的には人生を棒に振って物語は終わる。
 ここでトリナの態度の変化は、まったくの青天の霹靂(へきれき)として起こっている。つまり、なぜトリナが突然マクティーグを嫌悪し始めるのか、前後の文脈からはその説明はなされていない。そのため、彼女の行動はまったく脈絡を欠いた突発的な、突拍子もない行動としてみえてしまう。
 このトリナのマクティーグに対する嫌悪感にさらに輪をかけて突拍子もない行動にはしるのが、ナサニエル・ホーソーンの短編「ウェークフィールド」(1835年)に登場する同名の主人公である。
 このウェークフィールドという男は、ロンドンで妻と幸せな結婚生活を送っていたが、ある日、1週間以内には戻ると言って旅に出た。ところが、彼はロンドンの街を出るのではなく、自宅のすぐ近所に部屋を借り、それから20年間、毎日、自分の家、そして自分の妻を遠くからただただ眺めて暮らすのである。彼がなぜそんなことをやったのか、ウェークフィールドの物語をわれわれに伝えてくれる語り手も、いろいろと推測するが、結局真相は分からない。
 ウェークフィールドは、突拍子もなく家を出て、それから20年間何もせずに過ごす。不可解なきまぐれ、突拍子もない行為によって、人生のうちの20年を棒に振るのである。
 しかし、そんなウェークフィールドの人生が最終的にはどうなったのか。ホーソーンの物語を実際に見てみよう。

 こうして自分の婚姻の喜びに大きな休止符を打ったのち――もはや彼の死は確実と判定され、家屋敷も整理され、彼の名は人々の記憶から抹消され、彼の妻は、遠い遠い昔に、斜陽の寡婦暮らしの日々にあきらめきった頃になって、彼がある夕方、まるで一日の留守の後みたいに、物静かに家に入ってくると、そのまま死ぬまで最愛の夫として暮らし続けたのである。*3

 ウェークフィールドは、あたかも何も起こらなかったかのように家に戻り、ウェークフィールドの妻も、何も起こらなかったかのように夫を受け入れ、そのまま死ぬまで2人で仲睦まじく暮らしたのである。このホーソーンの短編は、そのように不思議な話である。
 このような突拍子もない行動をとる人物の極致を描いたとも言える作品が、ハーマン・メルヴィルの「書写人バートルビー」(1853年)という短篇小説である。
 この物語の舞台は、19世紀ニューヨークのとある法律事務所である。そして、バートルビーの物語をわれわれに語り聞かせてくれるのは、この事務所を経営する法律家である。彼はある日、バートルビーという顔色の悪い青年を雇った。19世紀の当時は、法律文書を複製するのにコピー機もなかったので、手書きで書き写す必要があったのだが、そのためにバートルビーが雇われたのである。そして、バートルビーはとても優秀な書写人であった。脇目も振らずに、ただ書き写すことだけに集中する、そのような労働者であった。
 しかし、法律事務所には、書類の複製以外にもさまざまな仕事がある。その一つが、写した書類が完全に同じかどうか、読み上げて照合する作業であり、そのような必要性が生じたのが、バートルビーが雇われて3日目のことである。ある書類を早急に仕上げなければならなくなった法律家は、当然応じてくれるものと期待してバートルビーを呼んだ。

〔……〕私は彼に声をかけ、早口で要求を伝えた。この短い文書を私と一緒に点検せよ、と。私の驚きを否、驚愕を想像して欲しい。なんとバートルビーは、衝立の奥から動きもせず、不思議と穏やかな、きっぱりとした口調で「そうしない方が好ましいのです」と答えたのである。*4

 バートルビー自身は、極端なまでに冷静、穏やかに振る舞う人物として描かれている。そして、この「そうしない方が好ましいのです I would prefer not to」という、バートルビーの言葉も、「そうしないことを好む prefer not to」という回りくどい表現と、「できればそうしたい would」という助動詞が使われていることからも分かるように、過剰なまでに丁寧な言い方である。しかしその丁寧な言葉とは裏腹に、バートルビーがここで実際に行っていることは、雇い主の要求を、交渉の余地なく完全に拒絶することである。
 このようにして拒絶された法律家は、バートルビーの言葉が信じられずに、もう一度、バートルビーに書類点検の要求を繰り返す。しかし、返ってくる言葉は、また「そうしない方が好ましいのです」であり、次に興奮して強く命令しても、同じく「そうしない方が好ましいのです」という応答である。そのときはたまたま、きまぐれで反抗したのかと考えて、2、3日たってから再び同じ要求を繰り返しても、帰ってくる言葉はやはり同じ「そうしない方が好ましいのです」なのである。
 そして、ここで注意しなければならないのは、バートルビーは、怠けたいからとか、この法律家のことが嫌いだからなどの理由があって、雇い主の命令に反抗するのでは決してないということである。つまり、彼がなぜ反抗するのかは謎である。というよりも「そうしない方が好ましいのです」という彼の言葉がはたして反抗なのかもどうかもまったくの謎である。この言葉自体が、脈絡を欠いた突拍子もない行動なのである。
 実際、バートルビーは、書類を単純に書き写すことに関しては、誰よりも勤勉であった。しかしその後、どういうわけか書類を書き写すこともやめてしまい、いっさいの仕事をやめてしまう。しかしそれにもかかわらず、バートルビーはこの法律事務所に昼も夜も居座り続けることになる。事務所の持ち主である法律家に出て行けと言われても、「そうしない方が好ましいのです」と相変わらず応えるだけである。
 このままバートルビーは事務所に居座り続けることになるが、そこで彼がすることはただ壁を一日中見つめることである。その意味では、完全に人畜無害な存在なのだが、そうはいってもやはりどこか気味が悪いと法律家は感じ始め、最終的には、バートルビーを追い出すことができないならばと、自分が出て行くことを決断する。バートルビーをおいて、法律事務所を別の場所に移転させたのである。しかしその後もバートルビーは事務所があった建物に居座り続け、結局放浪罪で逮捕されて刑務所に送られ、そこで餓死することになる。
 そしてここで重要なのは、バートルビーは精神を病んでいたのかもしれない哀れな男あるいは不寛容な社会の犠牲者として描かれているのではなく、この語り手(法律家)は、常にバートルビーに対して奇妙な敬意、または畏怖の念を抱き続けているということである。そしてわれわれ読者もまた、バートルビーについて、どこか高貴で、気高いものを感じずにはいられない。
 語り手の法律家が言うには、「そうしない方が好ましいのです」とバートルビーに拒絶されても、「他の誰が相手だったとしても、私はきっと即刻恐ろしい激情に駆られ、それ以上言葉などに頼らず、そいつの首根っこを捕まえて叩き出したことだろう。だがバートルビーにはどこか、不思議と私の怒りを解いてしまうばかりか、何とも奇妙なことに、私の心を打ち、私を狼狽(うろた)えさせるところがあった」。*5
 バートルビーも、突拍子のない行動、理解不可能な行為で人生を棒に振ってしまう。しかしだからといって、彼自身は決してわれわれが嘲笑の対象にできるものではない。彼は物笑いの種ではなく、反対に彼の中には、どこか尊重すべきもの、尊敬に値するもの、人々の注目を引く何かがある。

*1
柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書、2000年)4頁参照。そこでアメリカ文学の入門書として「アメリカ文学に学ぶ 人生を棒に振る方法」というタイトルが検討されているが、本稿の「名場面集」形式も同書に大きく影響を受けている。

*2
フランク・ノリス『死の谷(マクティーグ)』(石田英二、井上宗次訳、岩波文庫、上巻、1957年)225頁。

*3
『ホーソーン短篇小説集』(坂下昇編訳、岩波文庫、1993年)94頁。柴田元幸編訳『アメリカン・マスターピース 古典篇』(スイッチ・パブリッシング、2013年)にも翻訳がある。

*4
『アメリカン・マスターピース 古典篇』(柴田元幸編訳、スイッチ・パブリッシング、2013年)91~92頁。

*5
同書、94頁。


人生から自由な存在

 このように突拍子もない行動によって人生を棒に振るという物語が、アメリカ文学の中には他にも数多くある。たとえば、エドガー・アラン・ポーの「天邪鬼」(1845年)や、ホーソーンの「牧師の黒いベール」(1837年)などが例としてすぐに挙げられるだろう。ポーの作品では、完全犯罪を達成した男が、どういうわけか、「天邪鬼」、気まぐれにとりつかれて、公衆の面前で自分の罪を告白し、そして死刑になってしまう。ホーソーンの短篇は、ある日突然、顔を完全に隠してしまう黒いベールをかぶりだして、そのまま一生死ぬまでそれを取ることがなかったという牧師の物語である。もちろん、彼がなぜそんな行動をとったのか、誰も理解することはできない*6
 突拍子もない行動について、ここまでの議論をまとめよう。
 ●それは予測不可能な行動である(「ひげについた卵」がある人物の嫌悪感を引き起こすということは誰にも予想できない)。
 ●熟慮したり、迷ったりせずに、いきなり行動する。
 ●原因不明、目的がない行動である。なぜ、その行動をとるのかがまったく分からない。とくに自分の利益や幸福とは関係がない。バートルビーのように、結果的には自分が死ぬこともよくある。
 しかし、繰り返すがこのような突拍子もない行動をとる人物たちには、われわれの注目に値する何かがある。つまり、たんなる変わり者では片付けられない何かがある。それはいったい何なのか。
 一つには、彼らが自由な存在であるということである。つまり、われわれ一般人がなんらかの意味で、人生を棒に振らないように、常におびえて毎日の生活を送っているのに対し、バートルビーのような人物たちは、そのような心配や懸念からは自由に生きているようにみえる。いわば、彼らは「人生」なるものから自由なのであり、それを棒に振ってしまうことを恐れていない。だから、壁を見つめているだけのバートルビーが、それでもどこか英雄的に映ってしまう。そして、語り手の法律家も何となくそのことを感じ取っているので、バートルビーを暴力的に追い出すなどの強い態度で彼に臨むことができない。
 もちろん、バートルビーたちのように自由に生きることはそれなりの危険を伴う。ほとんどの場合、惨めな死で終わってしまう。しかし、そういう危険があるからこそ、われわれ読者としては、これらの突拍子もない行動にはしる人物たちにある種の気高さを感じないではいられないのである。

*6
エドガー・アラン・ポオ「天邪鬼」(中野好夫訳『ポオ小説全集4』丸谷才一他訳、創元推理文庫、1974年)、ナサニエル・ホーソーン「牧師の黒のベール」『ホーソーン短篇小説集』(坂下昇訳、岩波文庫、1993年)など。

逃げる自由
 最初に触れた『マクティーグ』に戻ると、これはまた「ダメ男」の物語でもある。それは、働かずに何もしない男、あるいは何もしないので妻に怒られる男である。歯科医マクティーグは、無免許であることがばれてからは、典型的なダメ男になる。つまり、仕事を失った彼は、何もせずに家で酒を飲むだけの生活を送るようになり、そしてそのようにダメになったマクティーグを妻のトリナはことあるごとに罵るのである。バートルビーもある意味ダメ男である。何もせずに法律事務所に居座り続け、壁をじっと見つめて毎日を過ごす。ウェークフィールドも20年間基本的には何もしなかったダメ男である。
 ワシントン・アーヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」という短編もそのようなダメ男の物語である。独立前のアメリカで、ある日山の中で奇妙なオランダ人たちに出会ったリップ・ヴァン・ウィンクルが、一緒にお酒を飲んでそのまま寝込んでしまい、起きてみたら時間が20年経っていて、アメリカも独立国になっていたという浦島太郎のような物語である。このリップが、基本的にはたんなるお酒好きの男で、仕事もあまりできなくて、いつも奥さんに怒られてばかりいるというダメ男なのである*7
 要するに、何もしないダメ男は、いつも妻に怒られてばかりなのだが、そんなダメ男は、最終的には家庭から出ることによって、妻から逃げ出すことになる。そして、アメリカの小説では多くの場合、このようにして妻から逃げ出すときに、別の男と一緒に出て行く。すなわち、男と一緒に女から逃げるという同性愛的な傾向がアメリカ文学にはあるのだ。これは、レスリー・フィードラーという批評家が指摘した、よく知られたアメリカ文学の特徴である*8
 たとえば「リップ・ヴァン・ウィンクル」の場合、リップが山で出会って一緒にお酒を飲んだオランダ人たちはすべて男であった。「バートルビー」の作者、メルヴィルの小説『白鯨』(1851年)もこのパターンで書かれた小説である。つまり、白鯨を倒すことに執念を燃やすエイハブ船長は、実は故郷に帰れば幸せな家庭が待っていた。彼にはまだ若い妻と生まれたばかりの娘がいたのである。しかし、このような幸せな家庭をあとにして、エイハブは白い鯨モービー・ディック追跡の旅に出る。そして彼が乗り込む捕鯨船も完全に男しかいない。
 マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885年)にも、この「男と一緒に女から逃げる」というパターンが当てはまる。家のない浮浪児だったハックは、ミス・ワトソンの家に預けられていたのだが、この女性からハックは逃げ出すのである。そしてその時に、黒人奴隷のジムと一緒に逃げ出す。ジムはもちろん男である。
 このジムを奴隷制のない北部へと連れて行く、というのがハックの基本的な目的なのだが、この2人の関係にも実は同性愛的な要素がある。物語の中で一カ所、ジムが自分の妻と子供の話をする場面がある。彼らは、今はまだ奴隷の身分だが、いつかその所有者、主人から奪い返す、とジムが誓う場面である。

〔……〕ジムは声を上げてしゃべっていた。そして言うには、自由州へ着いてまず第一にすることは、一セントもむだ遣いしないで貯金を始めることだ。たくさん貯まったら、ミス・ワトソン家のそばの農場の持ち物になっている女房を買い戻して、それから夫婦で働いて二人の子供を買い取るだ。もし子供たちの主人が売らねえっていったら、奴隷反対派の人に頼んで盗んできてもらうだ。
 そんな話を聞いて、おらはゾッとした。ジムがこんな口をきくことは、生まれてこのかた一度もなかっただろうに。
*9

 ジムの話にハックは驚愕する。これはもちろん、人種差別という考えにまだ囚われているハックが、奴隷の所有者からその所有物を無理矢理奪い取る、というジムの暴力性に驚くというように読めるし、そう読むのが普通である。しかし、この場面が意味しているのは、それだけではない。この場面は、それまでジムと一緒に2人きりで幸せな旅を続けてきて、これからもそうしたいと思ったハックが、ジムには奥さんも家庭もあることを知って驚いたと読むことができる。つまり、ハックはジムの奥さんと家族に嫉妬しているとも読めるのである。
 このように、女から逃げるということは、多くの場合妻から逃げるということであり、さらにいえば家庭から逃げ出すことでもある。そして、家庭から離れるという意味で、これはまた自由の問題でもある。つまり、過去に起こったこと、とくに家庭で起こったことから自由になるということでもあるのだ。
 この(私の)「アメリカ文学名場面集」では、人生を棒に振る話ばかり出てきたが、それらは同時に、主人公たちの自由の表現でもある。彼らは自由を求めて人生を台無しにしたのである。それがどのような種類の自由かというと、そこには二つのパターンがある。
 ●突拍子もない行動としての自由。
 ●(ダメ男がほかの)男と一緒に女から逃げる自由。それはまた家庭から逃げる、過去から逃げる自由でもある。
 これら一見したところまったく関係のなさそうな二つのパターンが、実は自由の表現としてつながっているのである。
 自由といえば、なにか良いもののようなイメージがあるが、(ハックルベリー・フィンのような例外を除いて)だいたい、アメリカ文学の主人公たちは、自由になることによって、人生を棒に振ることになる。自由は、単純に良いものではなく、危険なものでもある。アメリカ文学の主人公たちは、自由になってそのまま死んでしまうことがほとんどである。もちろん、だからといって無意味な人生というわけではまったくなく、彼らのように自由を求めて当たって砕け散るのを読者として目撃することは、それなりの意味があることなのではないだろうか。

*7
ワシントン・アーヴィング「リップ・ヴァン・ウィンクル」(『スケッチ・ブック』田部重治訳、角川文庫、1953年)。

*8
レスリー・A・フィードラー『アメリカ小説における愛と死』(佐伯彰一、井上謙治、行方昭夫、入江隆則訳、新潮社、1989年)。

*9
マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』(西田実訳、岩波文庫、上巻、1977年、第16章)165~166頁。村岡花子訳の新潮文庫版もある。

プロフィール
吉国浩哉(よしくに・ひろき)
1972年生まれ。東京大学大学院英文科修士課程修了。ニューヨーク州立大学バッファロー校英文科博士課程で博士号取得。専門は19世紀アメリカ小説。現在、東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻准教授。主な論文に”Kant with Bartleby: A Fate of Freedom”, Nineteenth-Century Literature, 71.1 (2016), pp37-63. 訳書にロドルフ・ガシェ『いまだない世界を求めて』(月曜社、2012年)、Kojin Karatani, Nation and Aesthetics: On Kant and Freud, New York: Oxford University Press, 2017.。

これからアメリカ文学を読む人のための読書案内
◇J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳、白水社、2006年)
◇J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳、白水Uブックス、1984年)
◇ポール・オースター『ムーン・パレス』(柴田元幸訳、新潮文庫、1997年)
◇コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』(黒原敏行訳、早川書房、2009年)
◇ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(黒原敏行訳、ハヤカワepi文庫、2011年)
◇ウィリアム・フォークナー『八月の光』(諏訪部浩一訳、岩波文庫、2016年)
◇映画『ブロークバック・マウンテン』(アン・リー監督、2005年、原作はE・アニー・プルーの同名の小説)

 

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