キム・ユダム『ケアする心』書評(村上靖彦)
医療福祉現場でフィールド調査を重ね、ケアを論じてこられた村上靖彦さんに、『ケアする心』(キム・ユダム著、小山内園子訳)の書評をご寄稿いただきました。
ケアをめぐる複雑な力とひずみを描き切る
本書は1983年に韓国で生まれた女性作家キム・ユダムの10篇からなる短編集だ。書名が示す通りさまざまなケアが描かれる。描かれるケアはすべて家族ケアであり、家族ケアにまつわる理不尽さである。
ケアをするにせよ受け取るにせよ、ケアという出来事と無縁な生活をしている人は存在しない。さまざまなケアの場面が描かれるので、読者全員が当事者として本書を読むことになる。あるいは自分が何らかの形でケアの当事者であることに読者は気づかされることになる。本書は気づかないままに誰もが強いられているケア、あるいは自分が受け取っているケアへと、自覚的にアクセスする回路をつくってくれる。
男性が気づくこともなく女性にケアを強いる場面も少なくないため、読みながら「もしかしてこれは僕自身の姿だったのではないか」「家事をしているつもりだし、言い訳をいろいろとしているが僕も同じことをしているのではないか」と自問することになった。
こうして『ケアする心』は、不可視化されてきた不払い労働としての家族ケアに焦点を当て、非常な解像度であぶり出していく。
男性である僕にもっとも刺さる作品だった「安」をここではとりあげたい。
夫のコンは「多様性映画」(ミニシアター)を好む趣味人だった。ところが結婚してみると、夫は家父長制によってケアを免除されており、自覚することなく語り手である「私」を搾取し力を削ぎ身を削ってくる。しかし夫自身が気づくことはない。何よりも夫はそのようなケアを当然のものとして受け取り、週末に実家の台所に立つことまで妻に強いているが、その不条理に気づくことはない。
結婚直後から〔夫の〕コンとよく喧嘩をした。彼の実家に行きたくないと言うと、コンは、私が一人っ子できょうだいもなく寂しく育ったから、家族が集まってごはんを食べる喜びを知らないのだと言った。きょうだいはいなかったが、私は寂しく育ってはいなかった。(34頁)
さらに夫は親が提供した家があるのだから、「公平」のために実家に通って家事をすべきだ、「その程度」のことがなぜ不満なのかと言う。
最初のうちコンは私をなだめようとしていたが、やがて「公平」という単語を持ち出すようになった。親がこんな家を用意してくれたんだから、自分たちがその程度のことをするのは公平なことである、という彼の言葉に、「その程度」にあたる家事労働と感情労働がいったいどれくらいになるのか、想像がつかなくなった。(38頁)
家事労働を担うことがない夫は、妻が不当なケア労働を強いられているのだということに気づかない。このように書かれることによって実は僕自身もそうだったということにあらためて気づくことになる。僕自身男女差別は避けようと努力してきたし、長い間一人暮らしだったこともあり一通りの家事をできているつもりだったが、実際には女性たちにさまざまなことを押しつけて生きてきたということを最近になって学ぶことになった。「安」に登場する夫と僕はなんら変わりがないのだが、繊細な描写によってどのように自分が無神経だったのか、自分では気づけない部分を照らし出してくれる。
「安」の主人公は、夫の実家での家事労働とうっとうしい人間関係への拘束にうんざりするだけではない。母親との関係にもケアのゆがみが反映される。
苦しむ娘をみて母は案じるのだが、「なぜ医学部に行かなかったのか」と昔のことを責めるかたちで案じる。離婚後働いてきた母は、娘を自分の作品としてコントロールしようとしてきたのだった。母娘のあいだの支配関係もまた、家父長的な社会が現代において生んだゆがみだろう。そして働き詰めだった母の代わりに伯母が語り手の「私」を大事に育てたのだった。男性が女性に家ぐるみで不払いのケアを負担させるだけでなく、母娘のあいだでもケアを強いることもあれば自分の思い通りにコントロールしようとすることもある。
ところが、そんな母の言葉を聞いた「私」は、夫の実家を「みんな、いい人たち」だと擁護してしまう。語り手の「私」もまたついつい強いられている状況を肯定してしまうのだ。
かつて「私」は母親に飲み込まれそうになって母の元を出た。しかし母に反抗して選んだ結婚をしてみると、不払いの家事労働を強いられて声を奪われた。どこにいっても家父長制に由来する不条理から逃げることができない。家事労働と感情労働を担うことを暗黙のうちに強制してきた社会から、女性たちは逃げられないのだろうか。
たしかに男性が女性に尻拭いをさせているのにそのことに男性は気づかないのだが、女性と女性のあいだでも不払いのケアが生じていて、そのことが気づかれない。あるいは「私」を大事にし続けてくれたがゆえに「私」が慕う伯母は、「自分一人つらい思いをすれば、みんなが楽しく笑っていられるんだよ」と「私」に諭す。伯母は不払いのケアと感情労働を当然のものとして担い、それを女性に要求するのだ。
『ケアする心』の読みどころは、この不当な力の働きの複雑で繊細な働き方を鮮やかに可視化させたことであろう。僕たちはみなケアなくては生きていけない。同時にケアのなかにはさまざまな不条理な力が働く。本作品であきらかになったことは単に男性が女性を抑圧するという一方通行の構図ではない。たしかにしばしば不当なケアを男性は女性に強いていてそのことに気づきもしないが、女性たちもまた自分が誰かにケアを押し付け、あるいは誰かのためのケアを不当に担ってしまっているということに気づかない。ケアをめぐる不条理な押し付け合いは、個人の意志によるものではなく、知らず知らずのうちに暗黙の了解のもとにそうなってしまっているという社会構造に由来する力の問題なのだ。
女性の社会進出、スマホとメッセンジャーアプリの普及や、コロナ禍といった現代的な条件は、状況を改善することはない。むしろ束縛を強化する。テクノロジーや感染症のパンデミックにおける統制といった条件のもとでのケアという論点も本書の大事なテーマとなっている。もしかするとコロナ禍こそが、ケアをめぐる不条理を可視化する役に立ったのかもしれない。
残る問いは、僕がいままでフィールドとしてきたプロのケアについても同じ不当な力が働くのだろうか、というものだ。たしかに、たとえば重い障害をもつ患者の退院にあたって、病院スタッフが家族によるケアを当てにする場面は今でもあるだろう。日本では2000年の介護保険導入以降、プロの支援者が病や障害をもつ人の在宅生活をサポートする仕組みは整ってきた。これは非常に大事な成果であり、ぜひ守らないといけない。しかし同時にいまだ家族ケアに依存している側面はあろう。その場合、本作品に登場するさまざまな葛藤が再現されることもあろう。
もう一つ本書が描いたディテールのなかに参考になる場面がある。「安」の語り手を大事にしてくれた伯母の葬儀で、「私(ユンミ)」は伯母の息子の妻と会話する。
「うちが結婚するとき、お義母さんが私のことを娘だと思うことにするって、言いはしましたよ。けど、ユンミさんだって、結婚生活をしてたらわかりますよね。嫁を娘のように思うなんて、どれほどありえない話か」
「ええ。でも、伯母さんは他のお姑さんに比べたら、嫁いびりとかしないほうじゃないですか? もともと、人にきついことが言えない人だから」
「必ずしも嫌な言い方をすることだけが嫁いびりじゃないですよね? ユンミさんも結婚してるんだから、嫁の気持ちはわかるでしょ」(50頁)
伯母が「私」を大事にケアしたからといって他の人に暴力を振るわないわけではない。もっと直接的な場面が他の作品にも登場する。
表題作「ケアする心」では、キャリアウーマンのミヨンが苦労して出会った60代の婦人はすばらしいベビーシッターとなってくれる。素晴らしい人が見つかったと安心していたのだが、あるときベビーシッターの家を訪れると「この年寄りが、ボケるんだったらきれいにボケろっ。食べたくないなら食うなってんだ」(144頁)と老いた母親を虐待している場面に出くわす。
病院などの施設でも、力関係の厳しくある組織のなかで、命に関わる緊張感のある実践とともにケアが提供されるのだから、そのひずみが別の場所で表現されても不思議ではない。献身的なケアは、相手のコントロールを含むこともあろうし、あるいは別の場所での虐待(ケアのなかの暴力)をともなうかもしれない。
こうして、読者の誰にとっても切実な場面をどこかで含みながら、
村上靖彦(むらかみ・やすひこ)
1970年、東京生まれ。大阪大学人間科学研究科教授・感染症総合教育研究拠点CiDER 兼任教員。専門は哲学および現象学的な質的研究。著書に『摘便とお花見——看護の語りの現象学』『在宅無限大——訪問看護師が見た生と死』(医学書院)、『子どもたちがつくる町——大阪・西成の子育て支援』(世界思想社)、『ケアとは何か——看護・福祉で大事なこと』(中公新書)、『「ヤングケアラー」とは誰か——家族を“気づかう“子どもたちの孤立』(朝日選書)、
『客観性の落とし穴』(ちくまプリマ―新書)、『すき間の哲学——世界から存在しないことにされた人たちを掬う』(ミネルヴァ書房)、『となりのヤングケアラー——SOSをキャッチするには?』(筑摩書房)、『傷つきやすさと傷つけやすさ——ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』(KADOKAWA)、『鍵をあけはなつ——介護・福祉における自由の実験』(中央法規出版)、『現象学的質的研究入門』(ナカニシヤ出版)など。共著に『アイヌがまなざす——痛みの声を聴くとき』(岩波書店)などがある。



