【特別寄稿】「「戦争の記憶」とどめる建物がまた消えていく――騎兵旅団兵舎が解体へ」小林多美子
■騎兵連隊関連の現存最古の建物 解体へ
千葉県船橋市と習志野市にまたがる一帯はかつて旧日本陸軍の騎兵旅団が置かれ、「軍郷」としてにぎわいました。その「騎兵の街」で、騎兵旅団が使っていた現存最古の木造建物が解体されることになりました。『騎兵旅団と戦争の記憶』を小社から共著で刊行予定の習志野市文化財審議会会長の山岸良二氏と毎日新聞船橋支局の小林多美子記者が、この建物について2回にわたり紹介します。
■「戦争の記憶」とどめる建物がまた消えていく
毎日新聞船橋支局記者 小林多美子
解体を待つ騎兵旅団の建築物
早ければ今春にも
千葉県船橋市三山の東邦大学習志野キャンパスに、旧日本陸軍の騎兵第13連隊、第14連隊が共用していた旧用材庫が現存している。建築年は1900(明治33)年で、騎兵関連の建物では現存最古とみられている。建物は幅約9㍍、奥行き約18㍍の木造平屋建てで、大学では2013年まで武道場として柔道部や空手道部の練習に使われていた。窓枠などを除けば、ほぼ当時のまま残されている。
通気孔には五芒星が象られている
建築年や建物の構造などの詳細は2009年から行われた調査で確認された。この調査には東邦大付属東邦中学校高校の生徒も参加するなど地域との関わりも深く、注目を集めた。だがこの貴重な木造建物は、早ければ2022年春にも解体されてしまう予定だ。同大によると、旧用材庫のある場所に道路を整備するためだという。
私は2021年11月30日付の毎日新聞千葉面で、大学が旧用材庫を解体する方針であることを報じた。地元の関係者らからは「なぜ壊してしまうのか」という惜しむ声を聞いた。だが大学の方針は変わらず、建物の一部などを地元の船橋市に寄贈する方向で、市と調整を始めているようだ。
軍とともに発展した街
キャンパスのある場所の周辺はかつて、船橋市と習志野市の一部に加え、隣接する八千代市にもまたがる広大な一帯が「習志野原」と呼ばれていた。旧陸軍の練兵場(演習場)があり、陸軍騎兵学校なども置かれた。騎兵旅団は現在の東邦大に第13連隊、その東隣の日本大学生産工学部(習志野市泉町)に第14連隊が置かれ、両隊で第一旅団を構成した。さらに東には第二旅団の第15連隊、第16連隊が置かれていた。
周辺は軍に軍用品や食品、雑貨などを納める「御用商人」でにぎわい、現在、東邦大や日大のキャンパスから京成本線の京成大久保駅をつなぐ大久保商店街もルーツは御用商人にある。戦後は騎兵旅団跡地には学校や病院が立地し、習志野原の演習場は一部が陸上自衛隊習志野駐屯地・演習場になった他、引き揚げ者らの農地開拓を経て、主に東京のベッドタウンとして発展した。
私は毎日新聞船橋支局で船橋市や習志野市を担当している。2021年6月から9月にかけ、山岸良二氏と共同で、「習志野原今昔物語」と題した連載を計11回、毎日新聞千葉面に掲載した。習志野原とその周辺の歴史をたどる「昔」と、現在も残る建物や史跡などを紹介する「今」の2部構成だった。
東邦大が旧用材庫を解体する方針であることは偶然のタイミングで知った。連載ではこの旧用材庫を含め紹介できなかった史跡も多く、それらを紹介するために「番外編」として12月中旬に計3回、千葉面に連載した。11月中旬、旧用材庫の取材のため、東邦中高の元教諭でもある山岸氏とともに同大学を訪れた。山岸氏の解説で、旧用材庫やその近くに建つ騎兵連隊の記念碑について取材していると、ふいに予定外に大学の職員が現れた。私だけでなく山岸氏も、初めてそこで建物を解体することを知らされた。その時点ではまだ船橋市教委や地元の関係者らにも伝えていなかった。
解体が正式に決まったのは最近という説明だったが、道路整備の計画は大学の内部では以前より検討され、解体は既定路線のようだった。大学側はその後、船橋市教委に解体の意向を伝え、前述したように、建物の一部を寄贈する意向だ。ただ、私たちがこのタイミングで取材に訪れたのは、繰り返すが「全くの偶然」だ。もし旧用材庫をマスコミが取材するという偶然がなければ、大学側は外部に知らせることなく解体していたこともありえたのでは、という疑念を抱かざるを得ない思いだ。
司馬遼太郎の言葉
旧用材庫のすぐ近くには、騎兵連隊の記念碑などとともに作家の司馬遼太郎氏の文学碑が建つ。司馬氏の小説『坂の上の雲』の主要登場人物である秋山好古は、第一旅団の旅団長だった。碑には司馬氏の言葉が刻まれている。「かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである」。なんて皮肉な情景だろうと、私は文学碑と旧用材庫を交互に見ながら思った。
騎兵旅団跡地に残された旧兵舎は終戦直後は、そのまま学校や病院で利用されたという。戦後の経済発展の中で、旧兵舎から新しいビルに建て替えていくことは「貴重な建物を壊す」行為と認識されることはなかっただろうと思う。旧用材庫が残されたことは単なる偶然に過ぎなかったのかもしれない。だが、だからこそ地域の歴史を伝える数少ない存在として守っていくことはできなかったのか、と考えざるを得ない。
習志野原は、江戸時代は幕府が軍馬を育成する「小金牧」と呼ばれる広大な荒野だった。旧陸軍が来たことによって、街の発展は始まる。戦後の発展の前提として、軍郷としての歴史がある。地域の成り立ちを知る上で、軍との関係は切っても切れない歴史的事実だ。
習志野原の名前を継ぐ習志野市には、地域の歴史を学ぶために不可欠なはずの郷土資料館が存在しない。周辺自治体で、資料館どころか資料室すらないのは同市だけだ。市によると、市のまちづくりの基本である同市長期計画(2000年度制定)の基本構想では「市民の文化に対する愛護の精神を培い、文化財の収蔵、調査研究や展示の場として郷土文化施設等の導入を検討します」と掲げていた。だが2014年度に計画期間は終わり、具体化する様子は見えない。
どの地域にも、その地域にしかない歴史がある。薄れゆく軍郷の記憶を地域にとどめてほしい。
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