[座談会]「渋沢栄一がフランスで得たもの、日本にもたらしたもの」(3/3)鹿島茂・寺本敬子・三浦信孝
「そうとは知らぬサン=シモン主義者」
三浦:フランスでは、エコール・ポリテクニックやエコール・サントラル、またエコール・デ・ミーヌ(国立高等鉱業学校)といった理工系のエリート校にサン=シモン主義が浸透し産業立国を担うわけですが、その後サン=シモン主義がある種当たり前になってきて、もはや誰が「サン=シモン主義」かということも言えなくなっていきますよね。
三浦信孝氏
鹿島:たしかにその通りですね。またフランスの歴史学はマルクス主義の影響が強すぎて、これまで第二帝政もサン=シモン主義も過小評価され十分に研究されてきませんでした。最近、パリ万博の再評価に伴ってようやく注目されるようになってきました。サン=シモンは人間の利潤追及は肯定しつつも、歯止めをかける必要があると考え、自分で金儲けをしつつ同時に倫理的な裁定者ともなる「プレイング・アンパイア」のような存在が必要だと説きます。資本主義はほうっておくとブラックマーケット化しますから。
渋沢は『論語と算盤』を著し、金儲けと倫理を両立させる「道徳経済合一説」を説きますが、本人が知ってか知らぬか、サン=シモン主義の考えと一致します。まさにプレイング・アンパイアを演じました。渋沢栄一という人は、個々の具体的な体験や事実から、きわめて抽象度の高いシステムを見抜くことのできる「帰納的思考」の人です。この点は本当に天才的です。「民」であるフリュリ=エラールと「官」であるヴィレット中佐の、分け隔てないフランクなやりとりを見た時も、近代化のためには「民」、つまり「産業人」の地位を向上させなくてはならないということを悟りました。渋沢が渡仏した第二帝政期は、ナポレオン3 世とそのブレーンたちが信奉するサン=シモン主義が、「官」を否定し、金銭と直接に接する「民」、すなわち産業人を全面的に肯定した例外的な時期だったことも幸運でした。渋沢がこれまでやってきたことを現在の市場万能の自由主義者が見たら、ほとんど社会主義的に映るだろうと思うんですが、だからこそ、渋沢がフランスで学び日本に運んだ資本主義はアジアで唯一、離陸に成功したのだと僕は考えています。
三浦:サン=シモンの思想はマルクスとエンゲルスから「空想的社会主義」と呼ばれましたが、そのユートピアが第二帝政下で実現されたのは歴史の皮肉ですね。最後に、寺本さんから徳川昭武とヴィレット中佐の長きに渡る交流についてご紹介いただけますか。
寺本:昭武宛のフランス語書簡の調査から、昭武は、教育係のヴィレット中佐との間に、明治以降も生涯を通じて文通のやり取りがあったことが分かりました。ヴィレットの書簡は、実に150通あり、その話題は、互いの家族をはじめ、両国の主要な出来事はほとんどすべて話題に上がっています(フランスでは清仏戦争、ドレフュス事件、露仏同盟、日本では帝国憲法発布、帝国議会、日清戦争、日露戦争など)。さらにこれらの書簡は、1902年にヴィレットを訪問した渋沢や1878年・1900年パリ万博に事務官として携わった平山成信など、パリ万博を機縁とした日仏間の人々の交流を証言しています。
1868年末にフランスから帰国した昭武は、「将軍名代」として渡仏したが故に明治期に政治の表舞台に立つことはありませんでした。しかしパリで学んだ知識や経験は、渋沢をはじめとする随行者たちによって、その後の近代日本の形成にいかされたように、昭武も日仏間の人的ネットワークのなかに身を置き、そのひとつの結節点をなす存在でした。1876年フィラデルフィア万博御用掛として渡米し、再びフランスに留学して1881年に帰国、松戸に隠居しますが、1886年に日本で創設された日仏交流組織「仏学会」には、昭武が名誉会員として存在感を発揮しました。仏学会は、会長の辻新次や古市公威、さらに法学者ボワソナードが中心となり、日本におけるフランス語およびフランス法学の発展に寄与しました。仏学会は、1900年パリ万博、1907年の日仏協約を通じて、経済界との関係を深めていき、1909年に日仏協会に改名するのですが、それ以降、渋沢は日仏交流の表舞台に戻ってきます。そして、ご存知のとおり、1924年にその後の日仏の学術交流の場として現在に続く日仏会館の設立の中心人物となるのです。
2019年12月29日、NOEMA images STUDIO にて
鹿島茂(かしま・しげる)▶仏文学者。著書『馬車が買いたい!』『「レ・ミゼラブル」百六景』『渋沢栄一』
寺本敬子(てらもと・のりこ)▶跡見学園女子大学准教授。著書『パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生』
三浦信孝(みうら・のぶたか)▶中央大学名誉教授・日仏会館顧問。編著『明治維新とフランス革命』『近代日本と仏蘭西』
-----------------------------------------------------------
【渋沢栄一略年譜】
1840(天保11年) 0歳 2月13日、血洗島(現在の埼玉県深谷市)に生まれる
1847(弘化4年) 7歳 従兄、尾高惇忠から漢籍を学ぶ
1858(安政5年) 18歳 従妹ちよ(尾高惇忠の妹)と結婚
1863(文久3年) 23歳 高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔
1864(元治元年) 24歳 一橋慶喜に仕える
1866(慶応2年) 26歳 徳川慶喜、征夷大将軍となり、栄一は幕臣となる
1867(慶応3年) 27歳 徳川昭武に随行し、フランスへ出立。パリ万博に参加
1868(明治元年) 28歳 明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会
1869(明治2年) 29歳 静岡藩に「商法会所」設立。明治政府に仕え、民部省租税正となる
1870(明治3年) 30歳 官営富岡製糸場設置主任となる
1871(明治4年) 31歳 紙幣頭となる。『立会略則』発刊
1872(明治5年) 32歳 大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願
1873(明治6年) 33歳 大蔵省辞職。第一国立銀行開業・総監役。抄紙会社(王子製紙会社)創立
1875(明治8年) 35歳 第一国立銀行頭取となる
1877(明治10年) 37歳 王子西ヶ原に別荘を建てはじめる
1879(明治12年) 39歳 グラント将軍(元第18 代米国大統領)歓迎会(東京接待委員長)
1880(明治13年) 40歳 博愛社(日本赤十字社)創立
1882(明治15年) 42歳 ちよ夫人死去
1883(明治16年) 43歳 伊藤かねと再婚
1884(明治17年) 44歳 日本鉄道会社理事委員
1885(明治18年) 45歳 日本郵船会社創立。東京養育院院長。東京瓦斯会社創立
1886(明治19年) 46歳 「竜門社」創立。東京電灯会社設立
1887(明治20年) 47歳 日本煉瓦製造会社創立・発起人。帝国ホテル創立・発起人総代
1888(明治21年) 48歳 札幌麦酒会社(サッポロビール)創立。東京女学館開校・会計監督
1889(明治22年) 49歳 東京石川島造船所創立・委員
1890(明治23年) 50歳 貴族院議員に任ぜられる
1900(明治33年) 60歳 日本興業銀行設立委員。男爵を授けられる
1901(明治34年) 61歳 日本女子大学校開校・会計監督。東京・飛鳥山邸を本邸とする
1902(明治35年) 62歳 兼子夫人同伴で欧米視察。ルーズベルト大統領と会見
1906(明治39年) 66歳 東京電力会社創立・取締役。京阪電気鉄道会社創立・創立委員長
1907(明治40年) 67歳 帝国劇場会社創立・創立委員長
1909(明治42年) 69歳 多くの企業・団体の役員を辞任。渡米実業団を組織し団長として渡米
1911(明治44年) 71歳 勲一等に叙し瑞宝章を授与される
1912(大正元年) 72歳 ニューヨーク日本協会協賛会創立・名誉委員長。帰一協会成立
1913(大正2年) 73歳 日本結核予防協会創立・副会頭。日本実業協会創立・会長
1915(大正4年) 75歳 パナマ運河開通博覧会のため渡米。ウイルソン大統領と会見
1916(大正5年) 76歳 第一銀行の頭取などを辞め、実業界を引退
1917(大正6年) 77歳 日米協会創立・名誉副会長
1918(大正7年) 78歳 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(竜門社)刊行
1920(大正9年) 80歳 国際連盟協会創立・会長。子爵を授けられる
1921(大正10年) 81歳 排日問題善後策を講ずるため渡米。ハーディング大統領と会見
1924(大正13年) 84歳 日仏会館開館・理事長。東京女学館・館長
1926(大正15年) 86歳 日本太平洋問題調査会創立・評議員会長。日本放送協会創立・顧問
1928(昭和3年) 88歳 日本航空輸送会社創立・創立委員長。日本女子高等商業学校発起人
1931(昭和6年) 91歳 11月11日永眠
(参考:渋沢史料館「渋沢栄一年譜」)