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[座談会]「渋沢栄一がフランスで得たもの、日本にもたらしたもの」(1/3)鹿島茂・寺本敬子・三浦信孝

近代日本経済の礎を築いた実業家、渋沢栄一(1840-1931)の生誕180年を機に企画された座談会を再録いたします(「ふらんす」2020年3月号初出)。

新一万円札とNHK大河ドラマ

三浦信孝:約500にものぼる株式会社や銀行などを設立し、「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一は、4年後の2024年に新しい一万円札の肖像となることが決まっています。また、来年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』も彼を主人公にした物語だそうです。いま、にわかに渋沢栄一が注目を集めていますが、この歴史的人物の原点ともいうべきものに「フランス体験」がありました。

 渋沢は1867年(慶應三年)、27歳の時、徳川最後の将軍慶喜の弟昭武を代表とする一行の随員として、パリ万国博覧会に出席。その後も約1年半にわたりフランスおよびヨーロッパ諸国に滞在しています。そこで今回「渋沢栄一がフランスで得たもの、日本にもたらしたもの」と題して、彼の生涯においてとくにフランスとの関わりに焦点をあて、浩瀚な評伝『渋沢栄一』の著者である鹿島茂さんと、『パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生』の著者の寺本敬子さんにいろいろお話をうかがいたいと思います。

 僕は長年、日仏会館の常務理事を務めてきましたが、日本とフランスの学術・文化交流機関である日仏会館は、1924年に当時駐日フランス大使だった詩人・劇作家のポール・クローデルと実業家・渋沢栄一の協力によって創立されました。一万円札が福沢諭吉から渋沢栄一に変わる2024年は、日仏会館設立100周年の年にもあたります。会館設立80周年を翌年に控えた2003年には、その記念行事として連続講座「近代日本の建設とフランス」を開講し、日仏交流史にその名を刻んだ日本人5名を選び、それぞれ最適と思われる講師の方にお話いただきました。そのトップバッターが経済界を代表する渋沢栄一(1840-1931)で、当時、雑誌『諸君!』で渋沢伝を連載中だった鹿島さんに講師になっていただきました。その時、なんのメモもなしに、こまかい年号や人名・地名に至るまで淀みなく講演された鹿島さんの姿に驚嘆したことを記憶しています。渋沢に続く他の4名は、思想の中江兆民(1847-1901)、政治の西園寺公望(1849-1940)、美術の黒田清輝(1866-1924)、文学の永井荷風(1879-1959)といった顔ぶれで、それぞれ井田進也さん、鳥海靖さん、三浦篤さん、そして加藤周一さんに講師を務めていただきました。

 この連続講演は、これに先立つ文化講座「両大戦間のパリの日本人」(大杉栄、九鬼周造、藤田嗣治、金子光晴、横光利一の5名)と併せ、『近代日本と仏蘭西 10人のフランス体験』として一冊にまとめられています。日仏交流史において、その黎明期に活躍した渋沢栄一がいかに重要な位置を占めているか、この本にも象徴的に現れているかと思います。ちなみに1840年生まれの渋沢は今年生誕180年。英学の祖、福沢諭吉の5つ下、政治家では伊藤博文の1つ上、また仏学の祖、中江兆民の7歳上に当たります。

尊王攘夷派から幕臣へ

三浦:まずは評伝を書かれた鹿島さんに、渋沢栄一がパリ万博に行くことになった経緯を簡単にうかがいたいと思いますが、そもそも渋沢栄一の評伝を書こうと思ったきっかけはなんだったんですか?

鹿島茂:いまから30年近く前になりますが、渋沢栄一の思想をサン=シモン主義との関連で分析した論考を書いたことがきっかけで、渋沢伝を書いてみないかという依頼を受けたんです。それで1995年から2004年にかけて、途中媒体を変えながら連載を10年、単行本になるのにさらに7年、結果企画から足かけ20年近くかけたことになり、渋沢栄一はライフワークのひとつになりました。日仏会館でのあの記念講座は、評伝の連載も終盤に差しかかっていた頃でした。


鹿島茂氏

 渋沢がパリ万博に赴いたのは1867年、フランスは第二帝政期、ナポレオン3世の時代です。ではなぜ彼が幕府の訪仏使節に加わったのか。渋沢は今の埼玉県深谷市の出身で、大変豊かな農家・商家の跡取りでしたが、父親の影響もあり学問にも積極的で、水戸学にはまり尊王攘夷運動に目覚めます。倒幕派だったんです。それが、過激な計画に足を染めてしまったことにより、縁あって水戸藩である一橋家の家臣になります。最初は心ならず一橋家の家臣となったのですが、やがて慶喜のもとでめきめきと頭角を表す。渋沢は、いずれ幕府は崩壊し、薩摩・長州・土佐藩などが中心となって新しい日本の政権を担うことになると考え、一橋家の財政を立て直したり、戦闘部隊を組織したり、一人で改革に乗り出します。その手腕から慶喜にもたいへん気に入られました。

 ところが、14代将軍家茂が急死し、一橋慶喜が15代将軍となることに。皮肉にも、反幕派だったのに倒幕勢力と戦わなければなければならないというジレンマに陥ります。本人もこの頃を人生最大の危機だと感じていたようです。そんな折、降って湧いたように万国博覧会の話が舞い込みます。当時の駐日フランス公使レオン・ロッシュから、将軍の名代として弟の民部大輔(昭武)を万博に派遣してほしいと慶喜に申し入れがありました。慶喜はいずれ昭武に将軍を継がせるつもりでしたから、将来の指導者にさせるべく万博後もそのまま数年は留学させることを考えます。そこで、実務に長けた渋沢に「庶務・会計」の任を命じました。ただ、ここにはもう一つ狙いがあり、ガチガチの攘夷派であった水戸の藩士たちが渡仏中にトラブルを起こさぬよう、慶喜は使節団の調整役として渋沢を昭武の秘書として抜擢したんです。かつては攘夷なんて言っていた渋沢もこの頃にはそんなことはもう無理だとわかっていましたから、フランスに行き、新しい世界を見られることを素直に喜んだようですね。1867年の2月、昭武を代表とする一行は横浜からフランスの郵船アルフェー号に乗り、途中香港で大型郵船アンペラトリス号に乗り換え、まだ工事中だったスエズを汽車で横切って地中海に出て、1か月半をかけてマルセイユに到着しました。渋沢は船中『航西日記』を付けていてそれが大変興味深いんですが、長い船旅で他の日本人は食欲がなくなるなか、自分だけはうまいうまいといって肉を食べていたらしいです。バターやコーヒーも口にあったようですし。マルセイユに上陸した時の記念写真ではまだ髷を結っていますが、パリに着いてしばらくすると断髪してしまう。適応力が非常に高い人物だったことを示すエピソードが数々あります。

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