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谷口功一「哲学者の朝の祈りはノンフィクションを読むことである」

第1回 面白うて、やがて神聖なる喜劇

■ 畠山理仁『黙殺――報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い』集英社文庫、2019年

 むかし読んだ作家・大西巨人の随筆で、選挙に立候補することにまつわる印象深い一節があったのをよく覚えている。大西と大企業の組合系議員になった同級生Nとの会話の中で、市議になることについて「女房は、おれ以上に反対でね」、「市議になるなんて、みっともない」、「娘たち二人の将来の縁談にも差し支える」といった話が出た上で、大西は次のように述懐するのである。――「私は、“国家ないし地方自治体の議員に関するそんな見方・考え方は、あやまりである”と悟性的(理念的)には思ったものの、感性的(現実的)にはNに大いに共感した」と(「巨匠」『大西巨人文選4 遼遠』)。
 代表作『神聖喜劇』の中で合法的軍隊内闘争を徹底した「論理」の筆致で描ききった硬骨漢の左翼・大西にして、立候補に関する思考の論理はここで立ち止まっているのかという強い印象を私は持ったのだった。
 われわれ自身もまた、自分のまわりで選挙に立候補すると言い出す家族や友人・知人がいたら、どんな反応をするかを考えてみればよい。「驚き」の感情のあとに即座に続くのは、よくて「困惑」なはずだろう。下手をすればまともな社会人の軌道からは逸脱した変人扱いされるのがオチである。立候補者への人びとからの問いかけは常に「なぜ、立候補するの?」なのだ。
 その後、大西が「感性的」に抱いた思いは広く社会に共有され続けて今日にいたり、直近の2019年春に行われた第19回統一地方選挙では、実に都道府県議選の26.9%、町村議選の21.8%の議席が「無投票当選」となったのだった。議員のなり手(立候補者)が、われわれの社会では払底しつつある。
 本書『黙殺』は、このような深刻な立候補者不足の現状の中、誰から頼まれたわけでもないのに勇んで選挙に撃って出る、いわゆる泡沫候補たちを20年の歳月をかけて丹念に追い続けた選挙ノンフィクションである。主流マスコミからは「独自の戦い」を展開する者たちとして申し訳程度の添え物のように紙面の片隅に記される彼らを、著者の畠山は愛情をこめて「無頼系独立候補」と呼び、彼らがどのような思いをもって選挙を戦っているのかを描き出す。
 本書の中には数え切れないほどの候補者たちが登場し、彼ら自身の人生そのものとも繋がる形で展開されてゆく立候補や選挙戦が、時として抱腹絶倒、はたまた感動を誘う筆致で描き出されてゆくが、なかでも強い印象を残すのは、マック赤坂とその息子をめぐる涙ぐまざるを得ない選挙エピソードで、これを読めばマック赤坂に対する見方は、一変することになるだろう。
 また、全裸写真を用いた選挙ポスターや政見放送で放送禁止用語を連発して物議を醸した後藤輝樹が、なぜ選挙に出続けるのかの理由を語るくだりは、思わず読み手の背筋をして粛然と伸ばさせるものがある。後藤には人びとが政治に関心を持たないのは何故なのかという「怒り」があり、「こんなやつ(後藤本人のこと)が出るより、おれが出てやろうと有権者に思って欲しかった」と言うのである。ちなみに後藤が立候補する際の供託金を含む費用は、彼自身がこつこつ貯金して貯めたりしたものだ。
 スマイル体操で口角をあげて微笑みながら踊り狂うマック赤坂の孤独な戦いの裏側を目撃して涙ぐみ、あらゆる方言での性器の名称を憑き物がついたように政権放送で絶叫連呼する後藤の真情に触れ粛然と我が身をただされる。それが本書なのである。取材対象である独立候補たちへの筆致には、筆者の細やかな愛情が感じられ、突出して優れたノンフィクションには必須の条件のひとつである、取材対象への愛が横溢する一冊である。
 46年間いちども勤め人をしたことのない著者の畠山は、筋金入りのフリーランスである。記者クラブなどにはいっさい入ったことのない畠山の取材は「茨の道」以外では形容しがたい困難を極めており(詳しくは同著者による『記者会見ゲリラ戦記』を参照されたい)、同い年の私は、畠山のこれまでの苦難を読み聞き知って、とても他人ごととは思えない感慨を持った。
 文庫版では三浦英之による感動的に素晴らしい「解説」の中で、誰から頼まれたわけでもないのに独立候補たちへの取材に孤軍奮闘する畠山の姿が次のように描かれている。――「彼もまた自らの信念を貫きながら、この生きにくい世の中を少しでも変えようと命を鉋のように削ってきた「無頼系独立候補」ではなかったか。被写体のモデルの瞳に時折、接写するカメラマンの姿が写り込んでいるように、この『黙殺』には確かに、筆者である畠山氏の姿が映り込んでいる」と。まったくもって満腔の同意しかない。
 記者会見や取材の場では、いつも「お前、誰だ?」と聞かれる所属肩書きのない畠山は「日本国民です!」と答えるそうで(何たるパワーワード)、時として、それまでふんぞり返って応対していた取材相手の政治家や公務員が虚を突かれ「あっ!(有権者様だ……)」という表情になるという話には、思わず噴き出してしまうのではあるが。
 ただ、この畠山の「日本国民です!」というエピソードは、単なる面白話ではなく、立候補、選挙、そして政治そのものを考える上で、きわめて重大な論点を端なくも露呈させている。日本国憲法では、われわれ日本国民は「主権」を持つことが、その大原理(国民主権)として定立されており、われわれ一人一人はまごうことなき「主権者」なのである。
 われわれが行使すべき主権には、毎度の選挙で投票を行う選挙権だけでなく、実は投票の対象になる「被選挙権」、つまり立候補する権利も含まれているはずなのだ。
 本書は、常軌を逸した存在として冷ややかにして慇懃なる無視を投げ掛けられ続けてきた独立候補たちが果敢に主権を行使する人間群像を描き出した、面白うて、やがて粛然たる「神聖喜劇」なのだ。
 そこでわれわれに突きつけられる問いは、ただ一つ。「なぜ、立候補しないのですか?」という、とてつもなく重く深い問いかけなのである。

書誌情報へのリンクなども含む本稿の「拾遺」は以下のURLから。
http://taniguchi.hatenablog.com/entry/2020/01/24/185708

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著者略歴

  1. 谷口功一(たにぐち・こういち)

    1973年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。現在、首都大学東京法学部教授。著書に『ショッピングモールの法哲学』(白水社)、『日本の夜の公共圏』(編著、白水社)、『逞しきリベラリストとその批判者たち』(共編、ナカニシヤ出版)、訳書にシェーン『〈起業〉という幻想』、ドレズナー『ゾンビ襲来』(以上、共訳、白水社)他。

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