白水社のwebマガジン

MENU

「「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平

第一回 忠魂と平和

 「北鎮」とは北の鎮め、つまり北方の守りという意味だ。北海道は北方防衛の前線基地であった。
 この地が北の守りであるとする考えは、江戸時代に醸成され、新政府が蝦夷地を北海道とあらため、開拓使、その後、屯田兵をおいた理由もそこにあった。
 屯田兵はのちに近代軍たる帝国陸軍となり、北鎮の役割をになった。それは、1945年の敗戦までつづいた。戦後、その任務は自衛隊によって引きつがれた。
 これから話をする陸軍第七師団歩兵第二十五聯隊も屯田兵を母体とし、札幌の東郊、月寒の地に生まれた。明治の半ば、1896年(明治29年)のことだ。その後、聯隊はこの地を衛戍地とした。二十五聯隊が解隊されるのは1945年8月17日のことである。樺太(サハリン)の真岡(ホルムスク)で聯隊旗は焼かれた。なお、月寒は「つきさっぷ」と呼ぶ。後に「つきさむ」とあらためられる。前者はアイヌ語に由来する。
 この連載は、月寒にあった歩兵聯隊と、その上部組織である第七師団の誕生から崩壊までの歴史を追いながら北鎮としての近代北海道を考えるものである。ではなぜ今、「北鎮」の歴史を世に問わねばならないのか。近代日本にとって軍とはいかなるものであったのか、その歴史と、とりわけ、それをささえた精神に関心を持つからである。
 軍に興味がある――と言うと要らぬ誤解を与えるかもしれない。が、以下の言葉に真っ向から反対する人は少ないのではないか。「軍事は政治の不可欠な要素である。軍事を無視し、軽視した政治論は、必ずどこかに大きな欠落を抱えざるを得ない」(尾原宏之『軍事と公論』慶應義塾大学出版会、2003年)。明治初年の元老院での軍事についての議論を分析した書籍の冒頭の言葉だ。
 軍事は政治の不可欠な要素――、そのことは多くの人が了解している。紀元前500年に孫子は、「兵は国の大事なり」と述べている。しかし、戦後、その問題に真正面から向き合うことにはばかられる空気があった。そして、かつて軍によせた人々の思いも忘れられてしまった。ただ、この問題をきちんと論ずるには、かなりの根気と紙幅を必要とする。本論でも触れるがここでは、北鎮という言葉を冠した連載をはじめようと思いたった理由を、ややスケッチ風に書きとどめておくこととする。

五芒星をかかげる小学校

 私が「北鎮」という言葉に接したきっけかけは斎藤史(ふみ)だった。斎藤史は明治(42 年、1909年)から平成(14年、2002年)を生きた歌人だ。1940年(昭和15年)に上梓した歌集『魚歌』は、時代が戦争へとかたむいていく昭和10年代にあって、多くの人の心をとらえた。
 『戦艦大和ノ最期』の作者・吉田満は、大和乗艦前、友人への手紙のなかで「或るものを感じうなづくものがあった」と斎藤史の歌を六首ひいている(志垣民郎宛(昭和19年5月9日)「書簡抄」『吉田満著作集』下、文藝春秋、1986年)。最後の一首は以下だ。

 いふほどもなきいのちなれども生(き)堪へて誠実(まこと)なりしと肯はれたき

 手紙は海軍の電測学校でつづられたものである。吉田は前年に学徒兵として召集され、海軍の基礎教育をうける武山海兵団をへて、電測学校にうつっていた。希望していた経理への道は閉ざされていた。経理にゆけば主計に配属され、陸上勤務もありうる。しかし、敵艦を捕捉する電測兵士は艦船勤務の可能性が高い。その手紙にも「恥づかしくない死に方をしたいとのみ思ふ」としるしていた。
 死は目睫にあった。二十年そこらの生(いふほどもなきいのち)が「誠実なりしと肯はれ」るためには、のこされた日々を如何に生きればよいのか。吉田満は、斎藤史の歌に死生の際の操守を見つけようとした。
 吉田よりも三歳年上で、吉田同様に海軍に召集された村上一郎も『魚歌』について文章をのこしている。近衛文麿が組閣し、翼賛体制を確立、時代がファシズムにかたむいていくなかで、村上は斎藤の歌に出会った。『魚歌』によって「閉塞の世になお己れ内発するものを維持し」えたと回想している。さらに、自らも歌作をつづけ戦後の世をひらくことができたとする。「私はわるい時代にそだったと思っていない。自分のすべてを人のせいにはしない。このこころを『魚歌』はおしえてくれた」と言う(村上一郎「斎藤史『魚歌』との出会い」『歌のこころ』冬樹社、1976年)。
 戦中派が困難な時代にあって自らの徳操をまもるよすがとした歌人、斎藤史に興味をいだいた理由はそのようなものだった。

 斎藤史が通っていた小学校が旭川の「北鎮小学校」だった。史の父・斎藤瀏は陸軍幼年学校、士官学校をへた軍人で、彼は当時、旭川第七師団の大隊長をつとめていた(斎藤瀏と史父子については以下を参照、工藤美代子『昭和維新の朝』日本経済出版社、2008年)。
 北鎮小学校は偕行社の附属小学校だ。偕行社とは陸軍将校の親睦団体である。つまり同校は、旭川第七師団の将校の子弟が通う小学校だったのである。
 斎藤史は一年生(1914年(大正3年))から六年生(1920年(大正9年))まで北鎮小で学んだ。同級生に栗原安秀がいた。坂井直は一級下だった。栗原も坂井も、1936年(昭和11年)2月26日におこったクーデターにくわわり、その後処刑されている。斎藤瀏は青年将校たちを支援し、その罪で陸軍の衛戍刑務所に収監された。史にとって昭和11年2月26日の雪の朝の記憶は、自身を覆うこととなり、その後の歌作の大きな主題となった。史を代表する一首に以下がある。

 暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた

 暴力がうつくしいとする鮮烈な修辞、それが「わが子守うた」という私事と対照化されている。わたし達が生きている時代と全く異なる何かが、昭和の前半期にあったことを思い起こさせる歌だ。
 後年のことだが以下のような歌もつくっている。

 死の側より、照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも

 斎藤史の歌には、北鎮小学校で席をならべた栗原や坂井といった彼岸(死の側)から、現在の生とそして戦後を照射したものが少なくない。

 本題はこれからだ。
 「北鎮小学校」はまったく同じ名前で今もある。現在は旭川市立北鎮小学校である。同校の沿革には、かつて旧七師団の将校の子弟の通う学校だったので、北の守りをかためるという意味から「北鎮」と名づけたと由来がかかれている(北鎮小学校ウェブサイト)。第七師団は「北鎮部隊」と称されていた。
 その校章を見ると、五角形の星の五つの鋭角の片方に陰影をあたえ、平面ながら立体感があるように意匠されている。つまりその校章は、帝国陸軍の五芒星を模したものなのである。ただ、五芒星と異なる点は、星の中央に丸印が付されていることだ。
 星は北極星、丸は太陽をあらわすという。この校章は、1901年(明治34年)に同校が、第七師団の私設教育所として生まれた当初にできたものだという(関口高史『誰が一木支隊を全滅させたのか』芙蓉書房出版、2018年)。
 ここで私は、現在の旭川市立北鎮小学校が過去の「軍国主義」の名称や校章を継承していることに異をとなえているわけではない。その逆に、そのことを称揚しているわけでもない。ただ、旭川市が「北鎮」の名を引きつぎ、そのことを市民がうけいれていることに、興味をいだくのである。
 偕行社附属の小学校として、北鎮とならぶものに、広島の済美(せいび)があった。ご存知の通り広島はかつて第五師団がおかれていた軍都だ。日清戦争の折、明治天皇は広島城につくられた広島大本営で指揮をとり、その折、帝国議会もひらかれている。兵士は、広島の宇品港から出征していった。
 済美小学校は、広島の中心地・八丁堀にあり、原爆で在校の生徒と教師の多数が死に、その後、廃校となっている。その跡地にはキリスト教青年会(YMCA)が建てられ、一角には慰霊碑がある。ただしその説明書きには、偕行社の文字はない。
 それは集団の記憶の問題なのだろう。広島(第五師団)の済美では、軍と偕行社の痕跡が消されている。しかし旭川(第七師団)では、軍と密接に関係した北鎮の名前がのこっている。広島においては原子爆弾という大きな記憶がはさみこまれ、第五師団の歴史の想起は、忌避されるものになったのであろう。

平和公園の忠霊塔

 話を本連載の「主人公」の第二十五聯隊にもどす。
 北海道の第七師団には歩兵聯隊が四つあった。二十五聯隊以外は、旭川に駐屯していたが、二十五聯隊のみ、月寒におかれていたのである。ことは少し複雑で、日清戦争の折に編成された臨時第七師団の兵営は月寒にあり、その後、二十五聯隊以外の二十六、二十七、二十八聯隊は旭川に移駐したのだ。ここでは、歩兵二十五聯隊と月寒についてごく簡単にふれ、執筆意図を補足するにとどめる。まず月寒の位置をしるす。 

 札幌には地下鉄が三線ある。三番目にできた地下鉄・東豊線の東の終点が福住だ。月寒の中心街・月寒中央はその一つ手前の駅となる。札幌の中心部・大通駅から五つ目である。
 地下鉄月寒中央駅のまわりにはマンションがたちならぶ。となり駅の福住までつづいている。福住には、現在、日本ハムファイターズがホームグラウンドとする札幌ドームがある。コンサドーレ札幌の試合も、嵐のコンサートもここでおこなわれる。月寒も、福住も札幌市内のごく普通の住宅地だ。
 地下鉄月寒中央駅から、西南に少し歩いたところに「平和」という名のついた公園がある。平和公園には遊具がしつらえられており、ボール遊びができるグラウンドがひろがる。どこにでもある普通の公園だ。
 父と子がサッカーをするその先に、五芒星をかかげる建築物がみえる。5、6メートルほどの高さの五角形、石造りの塔である。建物のまわりには、「安全第一」と書かれた鉄柵がほどこされている。遊んだりのぼったりすると危険です、とする子供達への注意書きが立つ。


 石造りの建物の正面には「忠魂納骨塔」とかかれている。背後にまわると、黒い鉄の扉にカギがかかっていた。塔の背後には以下の文がきざまれている。

 惟フニ我ガ聯隊ハ創設以来既ニ三十有四年ノ星霜ヲ経タリ此ノ間精忠雄節ノ将兵ニシテ身ヲ以テ国難ニ赴キ戦傷病没セシモノ其ノ芳骨今ヤ實ニ一千余体ノ多キニ上ル 是レ皆生キテハ国家ノ干城死シテハ護国ノ神霊トシテ軍旗ノ光彩卜共ニ永ク後人ノ敬仰スルトコロナリ是ヲ以テ其ノ偉績ヲ偲ビ其ノ神霊ヲ慰メンガ為ニ忠魂納骨塔ノ建設ヲ企テ広ク官庶ニ計ルニ賛ヲ得ルコト十数萬ニ達シ国民銃後ノ赤誠溢レテ茲ニ其ノ実現ヲ見ルニ至レリ
 嗚呼忠勇ナル我ガ先輩将兵ノ義烈ハ是レ即チ軍人精神ノ亀鑑ナリ其ノ勲績敬慕スルノ士ハ須ラク塔前ニ額キテ先人ノ偉功ヲ壮トシ礼ヲ以テ忠励ノ誠ヲ誓フベシ
(読みやすさを考慮して旧字は改めた)

 碑文の最後には「昭和九年二月三日/歩兵第二十五聯隊長永見俊徳」ときざまれている。昭和9年(1934年)2月とは、関東軍が奉天郊外の柳条湖で、南満洲鉄道を爆破した二年半後のことである。これを中国軍がおこなったこととし、関東軍は満洲全域に兵をすすめた。そして、翌年「満洲国」ができるも、国際連盟は調査団を派遣し、満洲国を傀儡政権と認定、対して日本は連盟を脱退したのが1933年(昭和8年)、この忠魂納骨塔が建てられた前年のことである。
 時代は次の大きな戦いへとむかっていた。納骨塔建立の目的は、「生キテハ国家ノ干城 死シテハ護国ノ神霊」となった将兵を、敬仰することにあった。二十五聯隊はここ月寒の地から、日露戦役からはじまる対外戦に出征していった。その「忠魂」の慰霊のために、この納骨塔は建てられたのである。
 塔の表面は一見きれいだが、すでに八十年の年月をへた建築物である。かなり老朽化しているようにも見える。それは「安全第一」のフェンスと、子供たちへの注意書きが雄弁にかたっている。
 忠魂納骨塔の由来は、その背面にあるカタカナ旧字体の碑文だけで、現代文で書かれたものは何もない。納骨塔がここにあることを示す、「月寒忠霊塔」という碑(それは戦後の1963年に建立されたもの)は公園の外におかれており、あたかも「忠魂」「忠霊」の記憶は、「平和」の外に追い出されているようにも見える。
 平和公園には円形の回転式ジャングルジムやすべり台などの遊具がある。それらの遊具そのものも、昨今みられなくなった古いものだが、そこに五芒星をいただく納骨塔があることが、なんとも不思議な風景に感じられた。後付の知識だが、ここは以前、陸軍墓地だった。戦後、占領軍に接収され、墓は移転され、平和公園と名をかえ、忠魂納骨塔のみのこったのである。
 戦後、戦争に関わりの深い場所の多くに「平和」の文字が冠せられた。旭川駅から第七師団へいたるかつての「師団通」も戦後、「平和通」にあらためられている。
 そうであればなおのこと、「忠魂」と「平和」という言葉の混在に出会うと、なにか、私たちの戦前と戦後の歴史の非連続性、それは山本七平や加藤典洋がいうところの「ねじれ」といってよいのかと思うが、そこに体現された屈折した心性を感じてしまうのである。
 平和公園の忠魂納骨塔はこれからどうなるのか。行政(札幌市)が修復することはないのか。朽ちるにまかせておくわけにもいかないだろう。だが撤去するにしても、ここにねむる「一千余体ノ芳骨」をどうするのか(これも後で知ったことだが、ここに納められている遺骨と位牌は四千にのぼる)。
 もとより私は戦死した将卒の「塔前ニ額キテ先人ノ偉功ヲ壮トシ礼ヲ以テ忠励ノ誠ヲ」誓うことが、戦後を生きるわれわれ日本人にとって、いささかの注釈もなく必要である、と考えているものではない。ただ、かつて「身ヲ以テ国難ニ赴キ戦傷病没」した将兵がいたということ。そして、彼らが過去に「生キテハ国家ノ干城死シテハ護国ノ神霊」とされ、尊崇されていたという事実は忘れてはならず、その問題を、戦後の「平和」と接続させて考える必要があるのではないかと思っているにすぎない。それは、先の斎藤史の歌にあった、現在を生きるものの生を、「死の側」から照らしてみる態度につながるものではないか。
 むろんその際の「死の側」には、敵側の将校や兵士、さらに日本軍が殺した民間人の死をふくみこんだものとなろう。その問題を考える前提として、忠魂納骨塔の将兵の死をふりかえっておく必要があると思われたのだ。
 平和公園の納骨塔を眼にしてから、月寒と歩兵聯隊の歴史に興味をいだくようになった。自分が二十年近く住んでいた札幌の街に、このような場所があったことを寡聞にして知らなかった。
 この街とその周辺の歴史を調べていくと、北方の守りとしての北海道の軍事的役割、日露戦争以降、対外戦へとなだれこむ一歩兵聯隊のありよう、さらに、歩兵聯隊とそれをささえる街との関係など、日本の近代を考える上で、軽視できないいくつかの側面がうかびあがってくるのではないかと思えた。戦後この街には樺太や千島から引きあげてきた人々が住んだ。聯隊の歴史は戦後に引きつがれている。
 いまの月寒には、旧軍の痕跡は多くはない。兵士の空腹を満たすために売られていたアンパンが名物としてのこっているぐらいだ。
 歩兵聯隊の街としての月寒の記憶も、この忠魂納骨塔と同様に、忘れさられていくことだろう。歩兵二十五聯隊と衛戍地・月寒の歴史を調べ、書きとどめておこうと思った理由は以上の通りである。

[2021年8月4日追記]
本連載に加筆・修正のうえ、書籍として刊行いたします。
『第七師団と戦争の時代:帝国日本の北の記憶』渡辺浩平 著
2021年8月中旬刊

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 渡辺浩平(わたなべ・こうへい)

    1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授、現在、特任教授。専門はメディア論。主な著書に『第七師団と戦争の時代 帝国日本の北の記憶』『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)他。

関連書籍

フランス関連情報

雑誌「ふらんす」最新号

ふらんす 2024年4月号

ふらんす 2024年4月号

詳しくはこちら 定期購読のご案内

白水社の新刊

中級フランス語 あらわす文法[新装版]

中級フランス語 あらわす文法[新装版]

詳しくはこちら

ランキング

閉じる