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ヨン・フォッセ ノーベル文学賞受賞記念講演「沈黙の言語」

PHOTO ©Sumie Kawai

沈黙の言語

ヨン・フォッセ

 私が中学生だった頃、何の前触れもなくそれは起こったのです。
 先生が、私に朗読をするようにと言いました。不意に、私は、襲って来た突然の恐怖に打ちのめされました。まるで自分が恐怖の中に消滅し、私自身が恐怖そのものになってしまったように。私は立ち上がり、教室から逃げ出しました。
 私は、先生が教室から私を追いかけて来ていることも、生徒たちの大きな目にも気づいていました。
 その後、私はこの奇妙な行動を、トイレに行きたかったからだと言い訳しようとしました。それを聞いていたみんなの顔に、そんなの信じないよというのが見て取れました。そして、おそらくみんなは、私のことを気が狂ったと思ったでしょう、そうです、私が狂気へ向かっているのだと。

 朗読することへのこの恐怖は、それからも続きました。時が経つにつれ、私は、朗読しないことを許してほしいと勇気を持って先生たちに頼みました。私が怖れていたとき、信じてくださり、名指しを止めてくださった先生もいましたが、私がふざけてやっているのだろうと思った先生もいました。

 私は、この経験から、人について大切なことを学びました。
 他の多くのことも学びました。
 そうです、今日ここに立ち、聴衆のみなさんの前で声に出して朗読することができるのも、おそらくそのおかげです。
 私は、何を学んだのか。
 ある意味では、それは、恐怖が私から私自身の言葉を奪い去ってしまい、私は、いわばその言葉を取り戻さなければならなかったということです。そしてもしそれをやるなら、他人の言葉ではなく、自分自身のもので。
 私は、自分の文章、短い詩、短いストーリーを書き始めました。
 そして気づいたのです。そうすることにより一種の安心感、恐れの反対のものを得たと。
 ある意味、私だけの場所を自分のなかに見つけたのです。そしてその場所から自分だけのものを書くことができたのです。

 その約50年後の今でも、私は座って、書いています。今もこの内なる秘密の場所──存在しているという以外、正直言って私には何もわからないこの場所から書いています。
 ノルウェー人の詩人オラフ・ハウゲは、一篇の詩を書いています。そのなかで彼は書くという行為を、森で葉っぱの小屋を作って、その中にもぐり込み、ろうそくに火を灯し、暗い秋の夕べにそこに座り、安心している子供であることになぞらえています。
 これは、書くという行為を私も同じように体験していることを表す、ぴったりのイメージだと思います。今も、50年前も変わらずに。

 そして私はもっと学びました、少なくとも私にとって、話し言葉と書かれた言葉、または口語と文語の間に大きな違いがあると。
 話し言葉は、往々にして何かが「こうあるべき」とか「あああるべき」だというメッセージの独白的伝達であり、または、説得や信条を伴うメッセージの修辞学的伝達です。
 文語は、まったく違います──情報を伝えることではなく、伝達というよりも意味それ自体であり、独自の存在意義を持っているのです。 

 そしてその意味で、良い執筆と種々の説教とでは、その説教が宗教的なものであれ、または政治的なものであれ、何であるとしても、明らかに対照的なものです。

 朗読する恐れを通し、私は、多かれ少なかれ物書きの人生である孤独のなかに入って行きました──それ以来、私はそこに留まっているのです。

 私はこれまで、散文と戯曲とを数多く書いてきました。
 そしてもちろん、戯曲を特徴づけるのは書かれたスピーチであるということで、対話であれ、会話であれ、それらはたいてい、話そうとする試みであれ、モノローグであるとしても、常にそれは想像上のユニヴァースであり、情報を伝えはしないが、それ自身の命を持ち、存在する何かの一部なのです。

 そして散文についていうならば、ミハイル・バフチンの議論は正しく、表現形式、語るという行為そのものには、二つの声が内蔵されているのです。
 簡単に言うならば、話す人や書く人の声と、語られている人の声。この二つの声はどちらがどちらなのか識別不可能な状態で、往々にして互いのなかに滑り込んでいます。
 単に、二重に書かれた声になるのです──それはもちろん書かれたユニヴァースの一部であり、その中にロジックも内蔵されて。
 私が書いた作品は、いわば、どれもが想像上のユニヴァースであって独自の世界を持っています。ひとつひとつの戯曲、小説にとっての新しい世界です。

 しかし良い詩というものは──私も多くの詩を書いていますが──またそれ自体がユニヴァースであり、主にそれ自体とのみ関わるものです。そして詩を読む人は、詩というユニヴァースへ入り込むことができます──そうです、それは、コミュニケーションというよりも一種のコミュニオン[聖体拝領]のようなものです。
 事実、おそらくこれは、私の著作すべてに当てはまることでしょう。

 一つ確実なことは、私は、いわゆる自分自身を表現するために書いているのではなく、それよりも自分自身から逃げるために書いてきたということです。
 私が劇作家になったこと──そうです、このことについて私は何が言えるのか。
 私は、小説や詩を書いてきましたが、演劇のために書きたいと思ったことはありませんでした。しかし、やがて私もそれを書くようになりました。なぜなら、当時お金のない作家だった私は──新しいノルウェー演劇を奨励する公的助成計画の一部として──それ相当の報酬で戯曲のオープニングシーンを書くオファーを受け、そしてその戯曲全篇を書くことになったからです。私の最初の、そして今でも最も頻繁に演じられている戯曲、『だれか、来る』です。

 初めての戯曲執筆は、作家として自分の人生で最も大きな驚きでした。なぜなら、私は、散文や詩で──普通の話し言葉で──ふだん言葉では言い表せないものを書くことを試みていたからです。そうです。私は、言葉では言い表せないものを表現しようとしていたのです。このことが、ノーベル賞を授与される理由でもあります。
 ジャック・デリダの有名な言葉を少し変えて言うなら──人生で最も大切なことは、話されることはなく、書かれることのみということです。
 だからこそ、私は“沈黙のスピーチ”に言葉を与えようと試みています。
 そして私は、戯曲を書くとき、沈黙のスピーチ、沈黙の人々を用いてきました。それは散文や詩とはまったく異なったやり方です。やらなければならなかったのは、「間」という言葉を書くことでした、沈黙の言葉はそこにありました。私の戯曲において、「間」という単語は、疑いなく最も重要な言葉であり、また最も多く使われている言葉です──長い間、短い間、または単なる間。
 これらの「間」には、多くのことがあり、または、何もない。言葉にできない何か、言葉にされたくない何かであり、最も素晴らしいのは、言葉にしないことで何かを言い得ることです。
 いまも、「間」を通して最も語られるものは沈黙だと、私はほぼ確信しています。

 私の散文で、すべての反復は、おそらく戯曲で「間」が果たすのと似た機能を持っています。また、私の考え方としては──戯曲には沈黙のスピーチがある一方、小説には書かれた言語の裏に沈黙の言語があり、そしてもし私が良い文学を書こうとするならば、この沈黙の言語が表現されなければなりません。例えば『七部作』において、シンプルな具体例をいくつかあげるなら、この沈黙の言語こそが、最初のアスレともう一人のアスレは同一人物である可能性を明かし、そして約1200ページにわたる長い小説全体は、おそらく「いま抽出された一人(のアスレ)」を単に書き表したものに過ぎないであろうことを示唆します。

 しかし沈黙のメッセージ、または沈黙の言語は、主に一作品全体から語られます。小説であれ、戯曲であれ、または演劇プロダクションであれ、重要なのは、一つ一つの部分ではなく、全体性です。そして、その全体性はそれぞれの細部のなかにも存在しなければなりません──たぶん、ある意味で近くからも遠くからも語りかける魂(スピリット)、すなわち全体性の魂について、私はあえて話しているのかもしれません。
 そしてあなたが、注意深く耳を傾けるなら、その時なにを聴いているのでしょうか。
 あなたは、沈黙を聴いているのです。
 そして、今まで言われているように、神の声を聴くことができるのは、沈黙のなかにおいてのみなのです。

 たぶん。

 さて地上に戻り、私は、演劇のための執筆が私に与えてくれた他の何かについて話したいと思います。書くことは、孤独な仕事だと私は言いました。そして、孤独は良いことです。ここでオラフ・ハウゲのもう一つの詩を引用すれば──他の人々のところへ戻る道が開かれている限りにおいて。
 そして私が書いたものが舞台で演じられるのを初めて見て、私の心を捉えたのは、そうです、それは孤独とは正反対のことでした。そうです、それはアートをシェアすることによってアートを生み出すという仲間同志の関係です──それは、私に大きな幸せと安心感を与えてくれました。
 この洞察はそれ以来、私にとって大きな役割を果たしてきました。私は、ただ平和な魂で粘り強く続けるだけでなく、私の戯曲の悪しき舞台化からさえも、ある種の幸せを感じるようになったと思っています。

 演劇は、実に、聴くという大きな行為です──演出家は、セリフを、役者たちがセリフをどう聴き、互いをどう聴き、演出家をどう聴くか、そして観客がパフォーマンスの全体をどう聴くかを、聴かねばなりませんし、少なくとも聴くべきです。

 そして書くという行為は、私にとって、聴くことです──書くとき、私は何も準備せず、何の計画も立てず、聴くことだけで書き進みます。
 ですから、もし書く行為にたとえを使うならば、それは、「聴くこと」になるでしょう。
 このように、書くことは、言うまでもなく、音楽を思い起こさせます。ある時期、10代だった頃、音楽にのみ関わっていた状態から、いわば書くことへと直接向かったのです。事実、私は自分で音楽を演奏することも音楽を聴くことも完全に止めてしまいました。そして、書くことを始めました。私は、音楽を演奏するときに経験した何かを、書くことのなかで生み出そうとしたのです。これは、私が当時やったことであり──今もやっていることです。

 ほかにも何か、少し変かもしれませんが、私が書いていると、ある時点で必ず、そのテキストはもうすでに書かれていて、どこか別の場所に存在していて、私の内側にはないので、そのテキストが消え去る前に書き留める必要があるという感覚を覚えるのです。ある時は何も変更することなくそうすることもできるのですが、またある時はそのテキストを探さねばならず、書き直したり割愛したり編集したりして、すでに書かれているテキストを慎重に引き出そうとしています。
 そして、演劇のためには書くことを望んでいなかった私が、結局、ほぼ15年もの間それだけをすることになったのです。そして私の書いた戯曲は演じられることにさえなり、そうです、時が経つにつれ、多くの国々でたくさん演じられています。
 私は、まだそれが信じられないのです。
 人生とは、本当に信じがたいものです。
 ちょうど今ここに立ってノーベル文学賞を受賞するにあたり、書くということは何なのかについて何かしら分別ある言葉を言おうとしていることが信じられないように。
 そして、私がこの賞を受賞したことは、私の理解する限りでは、私の戯曲と散文の両方に関係しています。

 長年ほぼ戯曲だけを書いてきていると、突然もう充分だ、そう、充分以上だと感じ、私は、戯曲を書くのを止めることにしました。
 しかし、書くことは習慣となり、それ無くしては生きて行けないものになっていたのです──たぶんマルグリット・デュラスが言うように、一種の病と呼びうるものかも。そこで私は、すべて始まりへと戻ることを、そして劇作家としてデビューする前のほぼ10年間にやっていた方法で、散文や他の執筆に取り組むことを決心したのです。

 それが、ここ10年から15年かけてやってきたことです。あらためて真剣に散文を書き始めたとき、それを今もやれるかどうか確信が持てませんでした。まず『三部作』(Trilogy)を書き──それで北欧理事会文学賞を受賞したとき、私には散文作家としても何か提供できるものがあるのだという確証を得ました。

 それから『七部作』を書きました。
 そしてこの小説を書いている過程で、私は、作家として最も幸せないくつかの瞬間を経験しました。例えば、一人のアスレがもう一人のアスレを雪のなかに倒れているのを発見して命を救う瞬間。または、エンディングで、主人公の最初のアスレが、彼の親友でたった一人の友人のオスレイクと一緒に、古い釣り船に乗って、オスレイクの妹とクリスマスを祝うために、彼の最後の旅立ちをする時。
 私は、長篇小説を書くプランはなかったのですが、小説はほぼ自ら進行して行き、長い小説になりました。そして私は、スムーズな流れで多くの部分を書き進め、すべてがすぐに正しい形になりました。
 そして、それは、私がいわゆる幸せと呼ばれるものの最も近くにいる瞬間だと思うのです。
 『七部作』全篇は、そのなかに、私がいままで書いた他の作品の、別の光の下で見た記憶が多く含まれています。この小説全篇のなかでただの一つも句点(フルストップ)がないのは、発明ではありません。私はただそのように、この小説を、句点(フルストップ)を求めない一つの流れ、一つの動きのように書いただけです。

 私は、かつてインタヴューで、書くことは一種の祈りだと言いました。それが活字になったのを見て、私は、恥ずかしさを感じました。ただ後に、フランツ・カフカも同じことを言っていたのを読み、いささか慰められましたが。たぶんそうなのでしょうか──結局のところ?

 私の初期の本は、かなり辛い批評を受けました、しかし私は、批評を聞かないこと、ただ自分だけを信頼して、そう、書くことに執心するべきだと決心しました。その決断がなかったら、そう、デビュー作『赤、黒』が40年前に刊行された後で、書くことを止めてしまっていたでしょう。
 その後の批評は、ほとんど好意的で、賞をいただくようにもなりました。そして思ったのです──もし悪評を聞かないのであれば、成功にも左右されず、ただ書くことを曲げず、手放さず、自分が創作したものをしっかりと摑んでゆくという同じロジックで続けることが重要なのだと。
 私はこれこそがいままでやり続けてきたことであると思いますし、ノーベル賞を受賞した後も同じように続けてゆくであろうことを本心から信じているのです。

 ノーベル文学賞の受賞が発表されたとき、たくさんのメールや祝辞をいただいて、そしてもちろん私はとても嬉しかったです。ほとんどの挨拶状はシンプルで明るいものでしたが、喜びのあまり叫び声を上げたと書いてくれた人たちもいれば、感動で涙を流したという人たちもいました。本当に、私は感激しました。
 私の作品には、自殺が多く出てきます。自分で思った以上に。私は、自殺の正当化に加担しているのではないかと恐れてきました。ですから、何よりも私が感激したのは、私の著作に命を救われたと率直に書いてくれた人たちの声です。
 ある意味、私は常に、書くことは命を救うことができることだと知っていました。おそらく書くことは私の命さえ救ってくれました。そして私が書くことで、他の人々の命を救う助けになるのであれば、私にとってこれ以上の幸せはありません。

 私にノーベル文学賞を授与してくださったスウェーデン・アカデミーに感謝します。
 そして神にも感謝します。

(翻訳:河合純枝)

© THE NOBEL FOUNDATION 2023

 

 

 

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