ヨン・フォッセのノーベル文学賞受賞から見えるノルウェー言語事情(ノルウェー夢ネット 青木順子)
トップ画像:ノーベル賞受賞を受けて早速、オスロのDeichman Bjørvika図書館ではヨン・フォッセの特集展示が設置されている。(撮影:新垣美奈)
2023年のノーベル文学賞はノルウェーの劇作家・作家のヨン・フォッセ(Jon Fosse、1959-)が選ばれた。ノルウェーでは4人目のノーベル文学賞受賞者だが、ニーノシュク(nynorsk)の書き手としては初の快挙である。ニーノシュクとは、ノルウェーの書き言葉のバリエーションのひとつである。このエッセイでは、フォッセが選択しているニーノシュクについて詳しく解説をしようと思う。
●ノルウェーの公用語
ノルウェーは人口わずか550万人の小国だが、公用語が2つある。「ノルウェー」をNorgeと書くのがブークモール(bokmål)、Noregと書くのがニーノシュク(nynorsk)だ。なぜこのように似ている公用語が2つ誕生したかーーそれはノルウェーの歴史と関係がある。
●ノルウェー語の複雑な歴史
ノルウェー語は北方ゲルマン語族に属し、デンマーク語・スウェーデン語と相似点が多い。だがそのノルウェー語の歴史はデンマーク語やスウェーデン語に比べて複雑だ。
ノルウェーは14世紀から19世紀までデンマークから「連合」という名で支配下に置かれていた。長期にわたるデンマークの支配は、言葉の世界にも多大な影響を及ぼした。官僚たちが用いる政治・行政の書類や教会で用いられる聖書はデンマーク語だったのである。このように公の「書き言葉」はデンマーク語が支配的だったが、一般庶民、つまり国民の大半は自らの方言を使用し、階級格差とともに言語格差も生じていた。
1814年、ようやくデンマークーノルウェー連合が消滅するが、今度はスウェーデンの連合関係に組み込まれてしまう。スウェーデンとの粘り強い交渉の末、1905年、ノルウェーは悲願の独立を叶えた。ただデンマークとの連合解消後に愛国的な運動が様々な分野で広がり、「ノルウェー語の書き言葉を作りたい」という国語運動も盛り上がりを見せた。こうした大きな運動につきものだが、国語運動は一つにまとまることができず、分裂してしまった。
1つ目のグループはデンマーク語にノルウェー語的な要素(スペル、発音、文法、語彙)を徐々に加えて、ノルウェー語化しようという穏健な運動で、「リクスモール」(riksmål)と自らの言葉を呼んだ。
2つ目のグループは、古ノルド語(norrønt)の影響が強く残っている方言こそが正しいノルウェー語と考えた。西ノルウェーの小さな村出身のイーヴァル・オーセン(Ivar Aasen, 1813-1896)が方言を採集、研究し、体系化した書き言葉を「ランスモール」(landsmål)と呼んだ。ランスモールは、デンマーク語やさらにドイツ語の影響を排除し、より古ノルド語の「純血主義」を目指しているのが特徴である。
「リクスモール派」と「ランスモール派」は互いに自らの正当性を主張して譲らず、相手を攻撃する言語闘争は激しさを増していった。1929年、リクスモールはブークモール(bokmål)、ランスモールはニーノシュク(nynorsk)へと名称が変わったが、法律上はともに「平等」と謳われている。
ノルウェー語学習者から見れば、不便かつややこしい公用語事情である。ノルウェー人も思いは同じで、2つのノルウェー語を統一しようという運動は何度も試みられてきた。正書法改訂のたびに、互いの言葉に近づける試みがなされてきたが、毎回、双方の支持グループから反発の声があがり、極端なケースでは子どもの教科書を燃やす親たちのアクションにまで悪化した。ノルウェー政府は「統一」を断念し、ブークモールかニーノシュクか、さらに単語のスペルも選択の自由を広げて、それを選ぶのは書き手の裁量に委ねられている。
書き言葉では「ブークモール」か「ニーノシュク」、話し言葉は無数の方言が存在する。このような「選択の多さ」がノルウェー語の大きな特徴と言えよう。
●現代のノルウェー語の現状
前述したように法律上は平等なブークモールとニーノシュク。だが実際の使用人口には隔たりが見られ、ブークモール9割:ニーノシュク1割である。人口の多い自治体は学校でブークモールを採用し、ニーノシュクを選択しているのはオーセンの生まれ故郷、北西ノルウェーの小さな自治体の学校が目立つ。
メディアや出版物といった分野でもブークモールに接する機会が圧倒的に多く、外国人のためのノルウェー語教材はすべてブークモールで書かれている。翻訳物でもニーノシュクは売れないという新聞記事を読んだ記憶がある。
ただしノルウェー国営放送(NRK)では25%のニーノシュク使用が義務付けられており、例えばブークモールに近い話し言葉を用いる国王のインタビューがニーノシュクの字幕になるといった現象が起きる。実際の話し言葉とは異なるニーノシュクの字幕になってしまうと違和感を覚えてしまう。
●ニーノシュクを守る人々
このように書き連ねればニーノシュクはかなりの劣勢に映るだろう。
しかし、マイナーゆえにニーノシュクを守ろうとする人々は熱い。
オスロにはニーノシュク専用の劇場“Det norske teatret”「ノルウェー劇場」、ニーノシュクの出版社Samlaget 「共同体」が存在する(ヨン・フォッセの著作を扱っている)。ニーノシュク誕生のエリアの地方紙Sunnmørposten「スンムールポステン」はニーノシュクの記事が多い新聞だ。もっと小さなニーノシュクの地方紙も存在する。またSpråkrådet「ノルウェー国語審議会」の現在の代表オーセ・ヴェートス(Åse Wetås)はニーノシュク使用者であり、ともすればブークモール一辺倒になりがちな現状を打破すべくニーノシュクで書かれた論文が活発に発表されている。
●ノルウェー留学中の体験から
私自身、ニーノシュクをこよなく愛し、存続させようとする人々との出会いがあった。というのも最初の留学先がイーヴァル・オーセンの生まれ故郷の隣町、ヴォルダ(Volda)のカレッジだったからである(Høgskulen i Volda)。大学の建物には“Ivar Aasens hus”「イーヴァル・オーセンハウス」と書かれていたり、先生が着ているTシャツは“Nynorskfestival”「ニーノシュク・フェスティバル」とプリントされており、軽くショックを受けた。というのも日本でノルウェー語を学んだ語学学校では「ニーノシュク」の気配すら感じなかったからである。
留学当初、ヴォルダの人々が私に「カ?」とよく話しかけてきたが意味が分からなかった。ことあるごとに「カ?」「カ?」「カ?」。そんな単語は学んだ記憶がない。
ブークモールでは「何」を意味するHva「ヴァ」が、ニーノシュクではKva「クヴァ」であり、ヴォルダの方言ではKa「カ」となるのがわかったのは、しばらく経ってからだった。カレッジでの講義はブークモールのテキストが利用されていたが、先生の話す言葉はニーノシュクに近い方言だった。先生でも政治家でも王室メンバーでも自らの方言を話す権利は保障されている。この多様かつ確固たる地位を得た方言を話すノルウェー人に何度も泣かされる羽目になるのは、ノルウェー人の通訳を始めた日本帰国後の話だ。
ヴォルダで学んだ後、オスロ大学(Universitetet i Oslo)にも留学したが、ノルウェー語の講義でニーノシュクを学んだ。ここで「私はノルウェー出身です」という一文を2つの言葉で比較してみよう。
ブークモール:Jeg er fra Norge.
ニーノシュク:Eg er frå Noreg.
似ているが、微妙な違いが存在する。ひとことでいうと、ややこしい。
ニーノシュクからブークモール、ブークモールからニーノシュクへの翻訳が試験に出題されたが、大いに苦戦。ブークモールの自治体の子どもは高校でニーノシュクの授業と試験が義務となっているが、その廃止を求める声は決して小さくないのも納得した。そもそも同じノルウェー語で翻訳するっておかしくないか?試験勉強をしながら、ノルウェー語の成り立ちを呪ったことは一度や二度ではない。
ヨン・フォッセの出世作『だれか、来る』(1996)は、2つのノルウェー語で表記すると以下のようになる。
ニーノシュク“Nokon kjem til å komme”(オリジナルタイトル)
ブークモール“Noen kommer til å komme”
比較してみるといかがだろうか?
「ブークモール派のためにニーノシュクからブークモールへの翻訳出版はあるか?」という質問を受けたことがあるが、答えはNei「いいえ」。ブークモール派のノルウェー人にとって読みにくくてもニーノシュクは理解できるし、さらにノルウェーの出版市場は日本と比較するととても小さい。
●ニーノシュクと作家たち
大いに苦労させられたニーノシュク。それでも無視できないのがニーノシュクだ。なぜならノルウェーにはニーノシュクで創作をした偉大な作家たちがいるからである。オスロ大学の講義では、アーネ・ガルボルグ(Arne Garborg、1851-1924)とタリアイ・ヴェーソス(Terjei Vesaas、1897-1970)の作品を読んだが、二人ともニーノシュクの作家だ。さらにNRKが放送した特集番組「ノルウェーで最も優れた詩」で選ばれたのは、オーラヴ・ホーコンスン・ハウゲ(Olav H.Hauge、1908-1994)の“Det er den draumen”「これは夢」というニーノシュクの詩だ。
ブークモール派でも「文学や詩はニーノシュクの方が美しいかもしれない」と時に口にするのは、これら素晴らしい作家たちの紡ぎ出す美しい世界があるからだろう。昨年、タリアイ・ヴェーソスの『氷の城』(朝田千恵・アンネ・ランデ・ペータス訳、国書刊行会)がニーノシュクから翻訳されたので、興味のある方はお手に取ることをお勧めする。
●ヨン・フォッセとニーノシュク
2023年10月5日。ノルウェー語のレッスンを終えてスマホを見るとノルウェーのメディアがヨン・フォッセのノーベル文学賞受賞を伝えていた。驚いた!というのが偽らざる心境である。もちろん何年もノーベル文学賞の候補になっているのは知っていたが、村上春樹と同様、何度も有力視されるがゆえに受賞できないのかと思っていた。
ヨン・フォッセはNRKの受賞決定直後のインタビューの中で「ニーノシュクにとっても(受賞は)嬉しい」と答えていたのが印象的だった(NRK、2023/10/5)。ノルウェーのメディアは続々とフォッセの受賞を伝える報道を発信していくが、「ニーノシュク作家として初の受賞」というようにヨン・フォッセとニーノシュクのつながりを強調する論調が目立つ。ちなみにNRKのニュースサイトからヨン・フォッセの受賞インタビューを見ることができるが、ニーノシュクに近い方言を使用しており、ブークモールの字幕がなければ理解できなかっただろう。
ヨン・フォッセは西ノルウェーのハウゲスン(Haugesund)生まれ。クヴァム(Kvam)というコミューネに属するストランデバルム(Strandebarm)という人口1500人強の小さな村で育つ。むろん、ニーノシュクの自治体だ。このストランデバルムは「方言フェスティバル」(Dialektfesival)を開催しているが、フェスティバルのテーマの1つである「言葉とアイデンティティ」に自覚的なエリアなのだろう。
ヨン・フォッセ受賞を伝える地元紙「ホルダラン民報」(Haudaland Folkeblad)の記事を読むと、クヴァム言語協会(Kvam Mållag)なるものが存在することを知った。同協会は「われわれ協会にとってもニーノシュク使用者にとっても喜ばしい」とコメントしている。ノルウェーのルブナ・ジャフリ文化大臣(Rubna Jaffery)も「ニーノシュクとニーノシュク文学にとって歴史的な日」とニーノシュクへの言及が目立っている。もしヨン・フォッセがブークモールの書き手であれば、そこに注目する論調は皆無だったと想像する。それは「当たり前」だからだ。
今まで、ニーノシュクが苦手でフォッセの本を手に取らなかったノルウェー人は確実に存在する(私も避けていた一人である)。だが、ノーベル文学賞受賞をきっかけにヨン・フォッセの本はもっと読まれ、戯曲の上演回数も増えることは確実だろう。そして遠い日本でもこのようにノルウェーの言語事情やニーノシュクについて紹介する機会に恵まれた。
今後、日本でもヨン・フォッセの作品が、できればニーノシュクから翻訳されることに期待したい。
(撮影:新垣美奈)
プロフィール)
青木順子(あおき・じゅんこ)
ノルウェー国立ヴォルダカレッジ、オスロ大学に留学。帰国後、ノルウェーの情報提供を目的としたコミュニティー・サイト「ノルウェー夢ネット」を開設。講演講師、通訳翻訳、ならびにブログやSNSを通じノルウェーの情報発信を行っている。著書に『ノルウェー語のしくみ〈新版〉』『ニューエクスプレスプラスノルウェー語』(ともに白水社)など。訳書に『パパと怒り鬼―話してごらん、だれかに』(G.ダーレ&S.ニーフース、共訳、ひさかたチャイルド)、『わたしの糸』(トーリル・コーヴェ、西村書店)など。