【特別寄稿】四方田犬彦「〈五月〉から50年後のパリ」
舗石(パヴェ)を投げる姿が描かれたポスター。
《La beauté est dans la rue.(美は街なかにある)》は68年の有名なスローガンのひとつ。
今年はパリで〈五月〉が起きて50年目である。
CGT(労働者総同盟)とPCF(フランス共産党)の呼びかけで、長い間禁止されていたメーデーのデモ隊およそ10万人が、レピュブリック広場からバスティーユ広場まで行進したのが、1968年5月1日。3日にはカルチェラタンで学生と機動隊が衝突。騒ぎは急速に過激化し、連日のようにデモと乱闘。学生に連帯してゼネストがどんどん拡大。学生はソルボンヌどころかオデオン座まで占拠。工場のストライキはフランス各地へ波及。ゼネストにより全土が麻痺し、農民のデモが各地で勃発。ところがここでドゴールが猛然と反撃に出る。彼は事態収拾のため、あえてラジオ放送で国民に訴えかける。レジスタンスの時と同じ戦略だ。6月に入ると学生の大学占拠が次々と解かれ、国民議会二次投票でドゴール派が圧勝。かくして学生は敗北し、それどころかプラハにソ連軍が侵攻し……。
いったいこの一連の出来ごとは何だったのか。フランスではいまだに歴史的な評価が一定していない。もちろん単なる大学生の異議申し立てだけではない。かといって労働争議だけでもない。唯一指摘できることは、それが前代未聞の祝祭的解放感に満ちた時期だったことだ。誰もが好きなことを喋り、好きなことを街角の壁に描きつけることができた。禁止することを禁止せよと誰かが一言叫ぶと、たちまち誰もが賛同した。きわめて短い期間ではあったが、ユートピア的な熱狂がパリの街角という街角を駆け廻った。フランス革命があり、二月革命があり、パリ・コミューンがあり、そしてとうとう〈五月〉が来た。異議申し立てとはフランス人のお家芸なのである。だとすれば〈五月〉から半世紀が経過した今、フランス人はそれをどう考えているのだろうか。
カルチェラタンを歩いていて東京と違うなあと思うのは、書店のショウウィンドウに68年5月に関する新刊がズラリと並べられていることだ。
まず当時のポスターや写真を集めた本。5月に立ち会った人たちの回想録。街角の落書きという落書きを拾い集め、一つひとつに註釈(?)を施した本。厳粛な社会学者の研究書。漫画。『子供が自転車から眺めた5月』という、愉しそうな絵本。モーリス・ブランショ『68年5月は観念において革命である』という、真っ赤な表紙の新書版まで並んでいる。版元はガリマール。えっ? そんな本、聞いたこともなかったぞと慌てて書店に入り、ショウウィンドウから本を出して見せてもらったら、彼がこの時期に人に書き送ったり、共同で署名をしたすべての文書を集めたものだった。今年の編集である。やるなあ、ブランショ!
あちらこちらで共同討議が開かれている。つい先日も、パレスチナのユネスコ代表エリ・サンバール(ゴダールの仲良し)が、社会政治学者でキューバの専門家であるジャネット・アベルと公開対談をした。アベルはカストロとも仲のよい筋金入りのトロツキストで、1968年には日本に滞在し、反代々木系全学連と行動をともにしたりしていた。
展覧会はどうだろうか。ボザールでは『闘争の映像』と題し、大きな特別展が開かれている。会場に入ってみると、もうのっけから、68年の街角に貼られたポスターを高い壁の端から端までびっしりと貼られ、その奥には〈五月〉に促され、霊感を受けた現代絵画がズラリと陳列されている。毛沢東主義を喧伝する絵画もあれば、アメリカの黒人闘争を断固支持するといった主張の絵画もある。ブルジョワどもよ、今年の夏は今までの夏とは違うってことを覚悟しておけよと、乱暴に言葉を殴り書きしただけのポスターもある。かと思うと、レヴィ=ストロースの別荘で、フーコーとバルト、ラカンが夕暮れどきに寛いでいるところに、アルチュセールが到来し、ガラス扉を開けて中に入ったものか躊躇しているといった、意味ありげな巨大な油絵もある。そういえば〈五月〉とは、学生が造反したばかりか、大学のなかでこれまでご法度だった構造主義が爆発的人気を得た時期でもあった。『グラマトロジーについて』も『アンチ・エディプス』も、この直後に刊行されている。この油絵はいかにも当時の知的流行、構造主義の四天王(五大力だっけ?)を皮肉っているのだ。
ポンピドゥーセンターでは68年のポスターの展示をやっている。〈五月〉が契機となって、これまで政治アジビラとポスター20万枚にわたって集め続けたアラン・ジェゴンなる人物が、ヴィデオ画面を通して語っている。かと思うと、別室で子供たちにポスターの造り方を教えていたりする。これは抵抗文化の継承だ。「1968」という文字の下に大きく黒字で「2018」と記した新作ポスターが壁に見本として貼られていた。
シネマテックではその当時、アジビラ映画を撮り続けたクリス・マルケルの大回顧展が開催され、ドキュメンタリー大作『空気の底は赤い』が上映されている。デパートやブティックも黙っていない。5月の陽光の下、若い女性たちだけのデモを撮った写真をショウウィンドウに飾り、なんやかんやと流行を煽り立てている。
そういえば、面白いことがあった。学生によってオデオン座が占拠されて50周年の5月7日に、アントワーヌ・ド・ベック司会で大記念大会が開催された。今ではそれなりの社会的地位に就いた元当事者たちが当時を回顧し、マイクをもって何かを語ろうとした瞬間、招待されていなかった68年世代の面々が、俺たちにも一言いわせろといわんばかりに、中に入ろうとした。司会者はそれを無視して進行を続け、ズラリと並んだ機動隊が乱入者たちにガス弾を向け、一斉排除をすることに成功した。やれやれ、事態は半世紀たってもいささかも変化していないのだ。
それにしてもフランス人はどうしてかくも68年のことを話題にするのか。ひとつには先にもちょっと書いたように、権力に抗して異議を申し立てるという態度が、フランス人の歴史的アイデンティティを形成してきたという事情がある。だが同時に忘れてはならないのは、彼らが現下の政治に対して抱いている、強い危機意識だ。現在のマクロン政権は富裕層への税制優遇政策をとり、大学がひとたび学生に占拠されるや機動隊を導入し、強制排除を決行することにいささかの戸惑いも見せていない。国鉄民営化を頑強に推し進めようとしていることも、その政策の一環だ。少なからぬフランス人がマクロンに対し、強い危機意識を感じている。その彼らがユートピア的な情熱の投影先を、半世紀前のパリに求めたところで、どうして不思議なことがあるだろう?
では日本はどうなのか? アベがマクロンより立派な政治家であるという者は、まずいないだろう。だというのに日本において68年問題とは、どうしてパリほどに盛り上がらないのだろうか。半世紀前には政治と文化の領域において、パリに負けるとも劣らないほど過激に実験がなされたというのに、それをめぐる現在の圧倒的な沈黙は、何に由来しているのか?
国立古文書館では、いきなり冒頭に当時の機動隊CRSのヘルメットや制服、棒などが展示されていた。さすがに文書館だけあって、当時の要人の手紙や手帖、メモ、書簡などが、実に大量に陳列されている。ここでは壁に不思議なポスターの複製を見かけた。パリはひとりぼっちじゃない。東京も、ヴェネツィアも、プラハも、バークレーもあるぞという文面である。へえーっ、そんな風に考えていたのか。そう思ったけれど、日本の学生だってお茶の水の路上にバリケードを築き上げると、ただちにそれを「神田カルチェラタン」と呼んだではないか。パリと東京は、お互いにお互いをよく知らないままに、相手の存在をそれなりに意識していたのだ。ではパリで現在起きている大規模な回顧と展示が、どうして東京ではなされていないのか。5月のパリはわたしを興奮させたが、同時に憂鬱にもさせたのだった。
(よもた・いぬひこ/映画史・比較文学。著書『映画史への招待』『ルイス・ブニュエル』、編著『1968』全3巻)