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[座談会]「僕らはこんな本を読んできた」野崎歓・澤田直・鈴木雅生

『ふらんす』2019年11月号の特集「ブンガクと愛」より、座談会を再録いたします。

バナー写真:鈴木信太郎記念館友の会発足メンバー顔合わせ会より。信太郎氏の次男、鈴木道彦氏を囲んで。

始まりはボードレール

野崎歓:われわれ三名はみな、フランス文学研究者で翻訳家でもあるわけですが、それぞれ専門とする時代やジャンルも異なります。今回、三人で座談会をするにあたり、研究者というよりは文学愛好家として気さくに語り合おうということで、「私を作った3冊」そして「私が作った3冊」を事前に挙げてみました。3冊に絞るというのは非常に難しいお題だったんですが、なんと三人ともボードレールを挙げている!

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「私を作った3冊」/「私が作った3冊」

野崎歓さん
「私を作った3冊」
 ・堀口大學『月下の一群』(新潮文庫)
 ・ボードレール『悪の華』鈴木信太郎訳(岩波文庫)
 ・安藤元雄『フランス詩の散歩道』(白水社)
「私が作った3冊」
 ・『フランス小説の扉』(白水社)
 ・『異邦の香り ネルヴァル「東方紀行」論』(講談社)
 ・『フランス文学と愛』(講談社現代新書)

澤田直さん
「私を作った3冊」
 ・ジュール・ベルヌ『十五少年漂流記』(小学館少年少女世界名作文学全集)
 ・ボードレール『悪の華』(Classique Garnier)
 ・モンテーニュ『随想録〔エセー〕』関根秀雄訳(新潮社)
「私が作った3冊」
 ・タハール・ベン・ジェルーン『気狂いモハ、賢人モハ』(現代企画室)
 ・『〈呼びかけ〉の経験:サルトルのモラル論』(人文書院)
 ・フィリップ・フォレスト『さりながら』(白水社)

鈴木雅生さん
「私を作った3冊」
 ・「怪盗ルパン全集」シリーズ(ポプラ社)
 ・『ボードレール全集』福永武彦訳(人文書院)
 ・ル・クレジオ『ロンドその他の三面記事』佐藤領時、豊崎光一訳(白水社)
「私が作った3冊」
 ・ル・クレジオ『地上の見知らぬ少年』(河出書房新社)
 ・『フランス文化辞典』(丸善出版)
 ・サン=テグジュペリ『戦う操縦士』(光文社古典新訳文庫)
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澤田直:フランス文学への入り口は色々あると思いますが、やはりフランス象徴詩の存在が大きい。ヴァレリー、マラルメ、ランボー、偉大な詩人が居並びますが、フランス語で最初に読んだのがボードレールの『悪の華』でした。

野崎:フランス語で?

澤田:もちろん最初は翻訳で読んだのですが、翻訳を横において、自分で訳しながら読んでみたくなったんです。

野崎:それはいくつくらいの時ですか?

澤田:浪人時代かな? 受験勉強そっちのけで『悪の華』を一生懸命読んでいました。歯が立つわけないんだけど、小説と比べれば短いので、自分に課せば1日一篇読んでいける。いくつかの訳本を比べて、全然違うなあなんて思いながら、「なるほどフランス語だとこんな感じなのか」と読み進めました。散文詩『パリの憂鬱』も大好きでしたね。

野崎:いきなりフランス語で、というところは参りました(笑)。鈴木さんはいかがですか? 福永訳を挙げているのは、特別の思い入れがあるからですか?

鈴木雅生:僕はもともとフランス文学をやろうと思っていたわけではなく、日本文学を中心に読んでいました。一時期、福永武彦にはまったことがあるのですが、そのなかでボードレールがずいぶん引用されるので、それまで堀口大學訳では何度か挫折していたこともあり、福永訳を読んでみようかなと。すると、読んだ時に言葉がすっと入ってきたんです。また福永訳の『ボードレール全集』は、『悪の華』の初版と、何篇かの詩の削除を命じられた裁判後に編まれた第二版の両方が収められているのが特徴です。100篇で一つの宇宙が形成されていた初版の構成が崩れた後、ボードレールが詩集をどのように構成し直したのかがわかるようになっていて、詩作という営みの奥深さに衝撃を受けました。それで、詩や詩人というものに興味を持つようになったんです。

野崎:それは随分専門的な読み方ですね。僕はとにかくミーハーでフランス文学オタクの高校生だったんですが、堀口大學のフランス詩のアンソロジー『月下の一群』が最初でした。あの本は、いろんなものをつまみ食いする楽しみに溢れている。ヴァレリーだとか、アポリネールだとか、コクトーだとか、固有名詞がばっと広がってそれで夢中になりました。その次に、初めて一人の詩人の詩集としてまとめて読んだのが鈴木信太郎訳の岩波文庫の『悪の華』でした。天鶩絨(ビロード)、鹹(しおから)い、とか感動的なまでに漢字が難しくて、ボードレールってすごく難しい漢字を使う人だなと(笑)。でも同時に得体の知れない迫力に打たれたんです。そのあと、福永訳の入った『ボードレール全集』を必死にお小遣いを貯めて買いました。鈴木信太郎訳では続いて、ヴィヨン詩集との出会いがありました。先ほど、鈴木さんが福永訳によって、詩集がどういう構造をもって、どのように形成されているのかに興味を持ったとおっしゃっていましたが、僕は翻訳とはこういうものなのか、というところに興味を持ったんです。信太郎訳のヴィヨンの一節「さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処(いずこ)」なんて、「さはれさはれ」って一体なんなんだ、と。大学の仏文科に入って、それがmais(しかし)という一語でしかなかったと知った時の衝撃! だから、澤田さんとは対照的に、僕にとってフランス文学は、最初から翻訳文学だったんですね。と同時に、フランス文学が日本語を学ぶ場でもあった。

澤田:野崎さんにとってはフランス文学が翻訳への導きでもあったんですね。


ボードレール『悪の華』が収録されている2冊
鈴木信太郎訳(左)と福永武彦訳(右)

モンテーニュとル・クレジオ

野崎:鈴木さんは、最初は日本文学をやりたいと思っていたなかで、どういうふうにフランス文学に関心が移っていったんですか?

鈴木:最初はフランス詩に対する興味でした。『悪の華』の福永訳では、韻文を日本語でも再現しようとかなりアクロバティックなことをしているのですが、それによって、フランス詩というのはこういう規則のもとに書かれているんだなとなんとなくわかり、そこに面白みを感じるようになりました。ボードレールをはじめ、ヴェルレーヌやランボーといった象徴詩の世界観にも惹かれました。ですから大学で専門課程に進む頃には、フランスの詩を研究しようと思うようになりました。

野崎:僕は大学に入って、フランス語の手ほどきを受けた一人が安藤元雄先生でした。安藤先生の『フランス詩の散歩道』は一般向けであると同時に、フランス近現代詩の歴史を深く教えてくれるし、詩とはどう読むべきかまで指南してくれるような素晴らしい一冊です。その著者である安藤先生に教えてもらえるというのでひじょうに楽しみでした。第一回目の授業で、「私は雨の日が嫌いなので雨の日は休講にします。誕生日も気が滅入るので誕生日も授業はしません」とおっしゃって、さすがに詩人は違う、その自由さがいいなあと感じ入りました(笑)。澤田さんの「私を作った3冊」にはモンテーニュがありますね。


野崎歓氏

澤田:高校生の頃、関根秀雄訳の二巻本の『随想録〔エセー〕』を読んで、自分について語りながら思想を紡ぐスタイルに魅了されました。哲学と文学をつなぐ書き方がそこに体現されている、と思ったのはずっと後ですが。当時、カントなどにも関心がありましたが、体系的な仕方でなく思考ができることが驚きでしたし、どこから読んでもいいというのもよかった。ただ、大部なので、なかなか読み終わらない。しかも順番に読んでいないのでなおさらどこを読んで、どこは読んでないのかわからなくなる(笑)。『エセー』は各章のタイトルと中身がまったく一致しないこともあって、その不思議さもまた、面白いなと思いました。

野崎:若くしてモンテーニュに立ち向かうなんて立派ですね。僕は辛抱が足りなくてとても読み通せなかった。読み通せたのは最近ですよ。モンテーニュはいいな、というのがしみじみとわかってきました。

鈴木:僕は日本文学への関心から、福永武彦や大江健三郎、あるいはロシア文学などを読んでいくなかで、人間の内面に深く降りて行くような内向的なものを多く読んでいたように思います。それが、大学の授業でル・クレジオの『ロンド』を読んだ時に、人間が世界に向かって開かれているということを強く感じました。こういう作品があることを知って、急に風通しがよくなったように感じました。それでたちまちこの作家にのめり込むようになった。ル・クレジオの初期のものを読むと非常に内向きだったりもする。同じ作家がなぜこんなに変わったのかなというところにも大きな興味を抱きました。その頃、僕自身、自意識に苦しんでいた頃だったので、自意識に捕らえられて、もがいているなかで、ル・クレジオの『ロンド』で解放された感じがしました。

実存主義の作家─サルトルとカミュ

野崎:おっしゃるとおり若い頃は自我からの解放を求めますよね。澤田さんや僕らの世代には実存主義というのが非常に大きかった。カミュはフランス本土とは違う太陽が燦々と降り注ぎ、脈打つ感覚。一方、救いなんてものはないんだ、というサルトルの実存的な覚悟みたいなものにもものすごく鼓舞されました。澤田さんはまさにサルトルが研究テーマですね。

澤田:サルトルを選んだのは、共感した、影響を受けた、のではなくて、『実存主義とは何か』を読んで強烈な違和感を覚えて、論破したいと思ったのがきっかけです。滑稽な話ですが、サルトルの議論がまちがっていることを証明したかった。でも論破するには主著である『存在と無』を読まなくてはならない。そこで、卒論のテーマに選んで、原書で読んでみると、明晰だし、具体例もおもしろい。でも大部ですから時間がかかり、提出日間際にようやく読了。論破するどころか、卒論は「読みました」という報告程度で終わってしまいました。それが、長いサルトルとの付き合いの最初です。


澤田直氏

野崎:その論破しようという使命感のようなものはどこから来たんですか?

澤田:「人間は自由な存在である。だから責任がある」というのがアンガージュマン思想の骨子ですが、そんなこと言われても、赤ん坊とかはどうなるの、という素朴な疑問を持ちました。一般向けの講演なので、かなり話を単純化しているためにあらが見えて、雑なことを言っているように映ったわけです。その点、カミュの『シーシュポスの神話』の方が最初から共感しました。演劇の話やドン=ファンの話など、どの例示もストレートだし、なるほどな、と素直に腑に落ちる。

野崎:澤田さんははやばやと、手強い読者だったんですね。僕は軟弱だからサルトルの『水いらず』で男女の機微を学んだ気がしたし、『一指導者の幼年時代』はホモセクシャリティについて読んだ初めての体験で、僕にとっては極めて教育的効果がありました。カミュについては、僕自身海辺で育ったので、海が文学であそこまで重要なものとして描かれることに痺れました。この二人によって、僕のフランス文学好きは決定的になりました。その後、研究テーマには時代を遡って19世紀を選びましたが、サルトルやカミュが同時代の問題に文学で応えたように、現代の人間について何が一番大事かという意識は失いたくないなという気持ちはずっとあります。

鈴木:僕はお二人より一世代下になり、フランス文学の神通力が失われつつありました。そういった意味では、自分でも「遅れてきた青年」という気がします。

「私が作った3冊」

野崎:鈴木さんはル・クレジオの他にサン=テグジュペリも訳されていますが、訳していて何か共通するものは感じますか?

鈴木:サン=テグジュペリが飛行士として大地を俯瞰で見ているように、ル・クレジオも個々の人間を社会の枠組みのなかで捉えるよりも、「世界」という大きな視点で捉えようとしている点は共通するかもしれませんね。また、二人とも子どものなかに、われわれの硬直した見方を刷新する存在を見ています。こういった点も似ている気がします。


鈴木雅生氏

野崎:たしかにフランス文化は大人中心主義だから、二人の描く子どもには、ほっとするような魅力を感じますよね。澤田さんが訳したフィリップ・フォレストも子どもが大きなテーマですね。

澤田:一つのテーマを文学のなかでいかに変奏・発展させていくのか、という点でフォレストは非常に意識的だし、面白い作家だと思います。自身の子どもを喪うという個人的な体験から始まりながら、それに留まらず、さまざまな作家たちとネットワーク的につながっていく独自の方法論は特筆に値します。ただ、そんなふうに考えたのは後になってからで、最初はフランスの書店でSarinagara というタイトルの本を見て、日本を題材にした流行りもののひとつかと思い、「フォレスト、おまえもか!」という怒りの気持ちから手に取ったんです。とはいえ、比較文学の研究者・批評家としての彼の仕事も知っていたので、何か仕掛けがあるかもしれないという期待もあって読んでみたら素晴らしかった。ですから、彼の第一小説『永遠の子ども』を読んだのもずっと後になってからでした。

野崎:澤田さんは、「なんだこれは!」と最初怒るところが特色ですね(笑)。

澤田:生意気だから、あこがれより、反抗心が先に立つのかもしれません。

野崎:そこが僕と決定的に違うところですね。やっぱり思想をやる人には「純粋理性批判」的なところが必要なんだな。僕なんかは、いつもあれいいな、これいいなとあこがれてばかりです。実は、フォレストにはそうした「あこがれの資質」があるところが好きなんです。『さりながら』にはとくにそれが出ていますよね。どこか不器用さも漂わせながらあこがれの対象に接近していくところが感動的です。われわれがフランス文学に夢中になったころには、いなかったタイプの作家だと思いますね。フランス文学を講じる若い頃は、とにかく重要作家それぞれに取りつくようにして読んでいましたが、だんだんと歴史の豊かさというか、文学史の面白さにも気づいてきました。その流れのなかでのフランス文学の特性というのか、どうしたってなくならない一種の異質感にも気がつきました。『フランス文学と愛』というちょっと大それたタイトルの本を書いた時も、あこがれはあこがれとしてあるんだけれど、一方で、こういうアムールは絶対に自分のものにはできないというような、異質感も大事にしなければと考えたんです。その埋まらない距離が刺激的でもあるわけですが。

鈴木:大学の1年生にフランス文学史の授業をすると、みんな「フランス文学って不倫の話ばかりですね」という反応が返ってきます。とくに名作と言われるものはそうですよね。また、大体ハッピーエンドで終わらない。

野崎:昨今のいたいけな10代の少年少女に勧めてよいのかな、とは思いますよね。

澤田:「フランス文学」という学科や専修に入ってきても、フランス文学どころか、小説を読んだこともないという学生が大半です。だから、まずは読んでもらうところから始めないと。導入に最適なのはモーパッサンですね。構成が絶妙だし、背景となる歴史も小説の成り立ちも説明しやすい。それからヴォルテール。『カンディード』なんかはみんな面白がってくれる。そのあと、おずおずとバルザックの短編などに入る。毎回作品のレジュメや感想を書かせて添削する。しばらくすると、いろんな読み方があるし、正解もないし、他人と違う読み方をしてもいいんだ、ということに気づいてくれます。

野崎:そういう経験があると、あとはもう自分で読んでいけるようになるのでは。

鈴木:先日、豊島区立鈴木信太郎記念館と僕の勤務する学習院大学の共同企画で、連続講座「フランス文学とフランス文化に親しむ」が始まりました。初回を僕が担当したんですが、30人の定員のところ、倍以上の応募があって、関心の強さに驚きました。講師もリレー式で、文学、演劇、哲学、詩、映画など様々な分野の講義が聞けます。僕の講座では、ひとつの作品を掘り下げるのではなく、19世紀における鉄道の登場が文化に与えた影響を、文学、絵画、映画を横断する形で紹介しました。みなさん熱心に聴講してくださって、フランス文学・フランス文化への潜在的な関心の高さを感じました。現代はどうしても情報が断片的になりがちなので、全体を見渡せるような視点を提示する必要があるなと実感しました。


豊島区南大塚地域文化創造館で開かれた、連続講座「フランス文学とフランス文化に親しむ」

野崎:見通しを与えられると変わってくるというのはありますよね。

澤田:来年は同じく豊島区にある立教大学の講師陣が講座を担当します。こういう形で大学の外にも輪を広げていけたら嬉しいですね。鈴木信太郎記念館がそういう起点になることを期待しています。フランス文学に関心のある人は、ぜひ一度は足を運んでほしいと思います。

>鈴木信太郎記念館友の会のご案内

(2019年9月23日、武蔵小金井オー・ボール・ド・ロー Au bord de l’eau にて)

◇初出=『ふらんす』2019年11月号

野崎歓(のざき・かん):放送大学教授。東京大学名誉教授。著書『異邦の香り』『水の匂いがするようだ』、訳書ネルヴァル『火の娘たち』

澤田直(さわだ・なお):立教大学教授。著書『〈呼びかけ〉の経験』、訳書フォレスト『さりながら』、サルトル『言葉』

鈴木雅生(すずき・まさお):学習院大学教授。訳書ル・クレジオ『地上の見知らぬ少年』、サン=テグジュペリ『戦う操縦士』

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