特集「ユルスナール没後30年」
*雑誌『ふらんす』2018年1月号から、特集の一部をご紹介します。
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『ハドリアヌス帝の回想』『東方綺譚』などで知られる、ベルギー生まれ北フランス育ちの作家マルグリット・ユルスナール Marguerite Yourcenar(1903-1987)。
第二次世界大戦を機にアメリカに渡り、1987年12月17日、カナダにほど近いメイン州の孤島でその生涯を閉じました。
没後30年、改めて彼女の足跡をたどります。
>ユルスナール没後30年記念出版
マルグリット・ユルスナール 著/岩崎力 訳
『アレクシス あるいは空しい戦いについて/とどめの一撃』
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©R.Doisneau
「感謝の言葉しか浮かんでこない」
堀江敏幸
ユルスナール没後30年。そう聞いて、小さくはない感慨に襲われている。すでに何度か書いたことだが、やはりどうしてもこの作家とのつきあいのはじめから語り直さなければ、本稿も先に進むことができない。
学部生時代、すでに世評の高かった多田智満子訳の『ハドリアヌス帝の回想』、岩崎力訳の『黒の過程』、『アレクシスあるいは空しい戦いについて』(以下、『アレクシス』と略記)を読んでその世界に引き込まれた私は、邦訳のあるものをとりあえずすべて読んだうえで卒業論文でユルスナールを扱おうと決心し、最も波長が合いそうだった『アレクシス』に的をしぼって研究計画書を提出した。1985年、3年生の秋のことである。
1929年に刊行されたこの小説は、リルケの『マルテの手記』の影が濃厚で、その3年前に出たモーリス・ベッツの仏訳と両者をならべて論じれば、若く美しい妻のもとを去ろうとしている同性愛者の音楽家の《声》と、それをあがなうピアノの旋律が聞こえてくるのではないか、そしてその声は、ハドリアヌスを描くユルスナールが口にした《声の肖像》の事例として、他の作品を理解するための一助となってくれるのではないか。そんなふうに考えたのだった。
指導教官のE先生は、当時新進気鋭の批評家として、ユルスナールとはおよそ縁のなさそうな仕事をされていたのだが、私の説明を聞くと、小説のなかの人物の声ではなくて、あなたの声を出せばよいのです、好きにお書きなさいと励ましてくださった。それを機に、関連資料を集めながら、未訳の作品をゆっくり読み進めていった。マチュー・ガレーとの対談集『目を見開いて』(1980)を貴重な案内書として、戯曲、エッセイを一望しつつ、やはり最も大きな感銘と困惑をおぼえたのは、17世紀のチェコの作家、コメニウスの作品に総題を借りた〈世界の迷路〉の2冊、『追悼のしおり』(1974)と『北の古文書』(1977)だった。
幕開けとなる『追悼のしおり』の冒頭は、以後の展開にふさわしい響きを備えている。「私が私と呼ぶ存在は、一九〇三年六月八日月曜日の朝八時ごろ、ブリュッセルで生まれた」(岩崎力訳)。ここにも、ひとつの声がある。ユルスナールがハドリアヌスを描く際に述べていた《声の肖像》という視点は、終末を迎えつつある人物を内側から生きようとしたときに立ち上がるものだった。ハドリアヌスは自身の最期を見越してアントニウスに生涯を語りはじめ、『黒の過程』のゼノンはつねに追われる身として永遠の過程に終止符を打つべく行動し、明確な意志のもとで死に身をゆだねた。アレクシスは、妻のもとに戻れないと悟った瞬間から、別れという再生に向けて手紙を書きはじめた。終わりを離れて観察するのではなく、それを引き受けた者にとって、現在は「在るもの」ではなく、「在ると信じているもの」に変容する。[…]
(続きは『ふらんす』2018年1月号をご覧下さい)
(ほりえ・としゆき/作家・早稲田大学教授。著書『郊外へ』『書かれる手』『その姿の消し方』、訳書ユルスナール『なにが? 永遠が』)
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「声の肖像をみつめて タブッキと須賀敦子」
和田忠彦
作家の暮らした土地や旅した場所を、作品に描かれた舞台を訪れて、その作家と作品の生きた時間や記憶をたどりながらわが身に刻んでゆくうちに、みずからの時間や記憶が滲むようにして融け合い生き直される──須賀敦子が『ユルスナールの靴』に綴った8篇は、フランドル出身の作家と須賀それぞれの生が交錯しては離れる奇妙な交感の記録である。奇妙な、というのは、郷愁と違和のどちらが欠けても成立しない、ユルスナールをみる須賀のまなざしがはらむ揺れる感情に由来する。2年半をかけて書き継ぎ、1996年1冊にまとめるとき、須賀が添えた「あとがきのように」と題された(謝辞をのぞけば)2ページに満たない文章のなかに、その揺れる感情の正体はあっさり明かされている。
強靱な知性にささえられ、抑えに抑えた古典的な香気を放つユルスナールの文体と、それを縫って深い地下水のように流れる生への情念を織り込んだ、繊細で、ときに幻想の世界に迷い遊ぶ彼女の作風に、数年来、私は魅せられてきた。
作風への感嘆が、さらに、彼女の生きた軌跡へと私をさそった。人は、じぶんに似たものに心をひかれ、その反面、確実な距離によってじぶんとは隔てられているものにも深い憧れをかきたてられる。作家ユルスナールにたいして私が抱いたのは、たしかに後者により近いものであった[…]。 (「あとがきのように」)
そして「確実な距離によってじぶんとは隔てられている」がゆえに惹かれ、その「生きた軌跡」とみずからのそれとを交錯させることがじつは、「ながいこといろいろな思いでつきあってきたヨーロッパとヨーロッパ人についての[…]、私なりのひとつの報告書でもある」と踏みこんだ告白があとにつづく。この告白には、40年余の歳月がみずからに刻んだ記憶と時間に、異質な文体、異質な作風をもつユルスナールの生涯と作品をたどりみつめなおすことで、あらたな輪郭を、あらたな貌(かたち)をあたえたいという須賀の願いがこめられている。
こうして須賀はユルスナールへの旅を重ねてゆく。ジョジアヌ・サヴィニョーによる評伝のなかで幼いマルグリットの写真に目を留めた須賀は、「どこかちぐはぐ」な「白いひらひらのリボンがついた靴」をはいていた3歳の少女が長じて84年の生涯を終えるまで、きっと「ぴったりと足に合った靴をはいた」にちがいないと想像する。それは、「完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら[…]これまで生きてきた」わが身に引き比べてのことだ。「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」と信じている須賀にとって、偶然見つけた写真の主が、おそらく生涯最後と思われる写真でも、革のやわらかそうな、きっと手縫いの編み上靴を履いているすがたがまばゆくみえたのだろう。[…]
(続きは『ふらんす』2018年1月号をご覧下さい)
(わだ・ただひこ/東京外国語大学名誉教授。伊現代文学。著書『タブッキをめぐる九つの断章』『遠まわりして聴く』)
*『ふらんす』2018年1月号には、堀江敏幸さん、和田忠彦さんのエッセイの全文の他、森真太郎さんによる「『源氏物語』から『アレクシス』へ」、村中由美子さんによる「新たなるユルスナール 書簡集が明かす渡米初期」も掲載しています。ぜひあわせてご覧下さい。
>ユルスナール没後30年記念出版
マルグリット・ユルスナール 著/岩崎力 訳
『アレクシス あるいは空しい戦いについて/とどめの一撃』