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【特別寄稿】「大和から見た桜」渡辺浩平

 吉田満は毎春、靖国神社でおこなわれていた戦艦大和の慰霊祭に参加していたという。慰霊祭は4月上旬の日曜日の朝にひらかれていた(吉田満「靖国と愛国心」『西片町教会月報』1974年7月号)。吉田は自身が靖国に足をはこんでいることを周囲に告げていなかったが、教会の月報では、慰霊祭に参加していることをあかし、「この行動を、私自身恥ずかしいことと思ったことはありません」と書いている。
 その月報が「靖国問題特集号」であり、靖国に対する自らの態度を明らかにしておきたいと思ったからだろう。折しも、靖国の国家護持が国会で審議され、日本キリスト教団は反対の意思表示をしていた。吉田は教団所属の西片町教会の会員であった。彼も教団と同意見であったが、しかし、吉田の考えは、反対する側にも、疑念をにじませ、靖国法案反対の基礎には「真の愛国心」がなければならないとするものだった。ここではその問題にはこれ以上踏みこまない。ただ私は、この靖国のくだりを読んだ時、吉田が、桜が咲く境内で、かつて大和から見た桜を思いだしたのではないか、そのような想像をふくらませてしまったのだ。

内地ノ桜ヨ、サヨウナラ

 昭和20年3月29日、呉から出港した大和は周防灘へ向かい、そこで沖縄特攻への命令を待つ。出撃前日の4月5日、訓練休憩中に桜に気づいた。『戦艦大和ノ最期』では以下のようにえがかれている。

 「桜、桜」ト叫ブ声 見レバ三番見張員ナリ/見張用ノ定置双眼鏡ヲ陸岸ニ向ケ、目ヲ当テシママ手ヲ上ゲタリ/早咲キノ花ナラン/先ヲ争ッテ双眼鏡ニ取附キ、コマカヤナル花弁ノ、ヒト片(ひら)ヒト片ヲ眼底ニ灼キツケントス/霞ム「グラス」ノ視野一杯ニ絶エ間ナク揺レ、ワレヲ誘ウ如キ花影ノ輝キ/桜、内地ノ桜ヨ、サヨウナラ(吉田満『戦艦大和ノ最期』21頁、講談社(文庫)、1994年)

 大和は三田尻沖に仮泊していたので、桜はおそらく防府あたりのものではないか。同日午後に出撃命令がおり、翌日に九州東岸をくだる。その日の夕刻、別府の温泉の湯煙の合間にも満開の桜が望見できた。「これが内地の見納め」となり、「先立って死んでいった戦友にも申し訳が立つ」と、生存者の一人宮本鷹雄(中佐)は回想している(吉田満、原勝洋『ドキュメント戦艦大和』86~87頁、文藝春秋(文庫)、2005年)。
 戦艦大和は翌日4月7日の14時23分、九州の南西沖で米軍の魚雷と爆撃をうけて沈没、大和には3323人が乗艦し、生存者はわずか276人。3000人あまりが藻屑ときえた。それが『戦艦大和ノ最期』の掉尾となる「徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米/今ナオ埋没スル三千ノ骸/彼ラ終焉ノ胸中如何」の意味するところである。
 補足すれば、大和には巡洋艦1隻と8隻の駆逐艦がつきしたがっており、うち5隻が沈没、981名が戦死している。大和の沖縄特攻、いわゆる天一号作戦では、4000名を超える乗組員が東シナ海に没しているのである。

軍の記憶と『この世界の片隅に』

 先日、私が所属する北海道大学の東アジアメディア研究センターで、「旧軍の記憶」というシンポジウムをひらいた。広島県呉市にある大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)の学芸員二人と、広島大学の教員、さらに、私どもセンターの人間がくわわり、それぞれ報告し、議論をおこなったのだ。大和ミュージアムのお二人には、同館の歴史と展示、来館者の構成や反応、さらに、昨年春から今年はじめまで開催した戦艦長門の企画展について報告をいただいた。
 大和ミュージアムは毎年90万の見学者をあつめており、修学旅行など団体客も少なくないという。接客はボランティアをふくめて全員であたる。展示内容、展示の仕方についても議論をかさねる。旧軍に関わる展示はデリケートな問題をふくんでいる。地方自治体運営の「科学館」であり、「歴史」をうたう以上、慎重な対応が必要なのだろう。そのような努力あって、多くの集客が可能になると理解できた。
 広島大の教員からは『この世界の片隅に』(こうの史代)から起こった呉の「聖地巡礼」現象について報告があった。広島で生まれた主人公・浦野すずの嫁ぎ先が呉だ。映画のヒット以来、観光客がふえ、舞台となったスポットの地図をつくり、誘客につとめている。
 シンポジウムの目的はもともと旭日旗にあった。韓国でおこなわれたサッカーの国際試合で、日本のサポーターが旭日旗をかかげ、アジアの連盟は処分をくだした。昨年には、済州島でひらかれた国際観船式で、韓国政府が、自国の国旗と太極旗しか認めないとし、事実上、自衛艦旗(旭日旗)の掲揚を禁止、日本政府は自衛艦の派遣をみおくるという事案が起こっていた。
 鎮守府からの軍港の記憶が色こくのこり、戦後は海上自衛隊が駐屯、土産品にまで旭日旗が意匠される呉の街と、韓国の対日観には大きな開きがある。そのことを考えるとっかかりとして、「旧軍の記憶」を討論する場をもうけたのである。
 私の報告では、北海道にかつてあった第七師団を事例に、陸軍軍旗(旭日旗)の歴史と戦後の自衛隊旗との連続性と非連続性について整理をおこなった。
 用意した時間が短かったので、十分な議論ができなかったが、ただ、日本人とて、海軍と陸軍では、その記憶に大きな隔たりがあり、また、『この世界の片隅に』が韓国で映画賞をとったように、日本人の戦争の記憶が、一方的に韓国の人々から指弾されるとはかぎらないというのが私の感想だった。
 軍の歴史、さらに焦点をしぼると、戦争における将校や兵士の死に、わたしたちはどのように向き合えばよいのだろうか。現在を生きる日本人の間でも意見がわかれ、さらに、一個人の中でも容易に割りきることができない問題をふくんでいる。
 特に昭和にはいってからの戦争は、後発の帝国主義国家による侵略戦争という批判をまぬがれないものだ。被害をうけた人々の立場にたてば、軍は侵略者、時に殺人者となる。しかし、戦争を国民国家発展の一過程として考えれば、兵もまた将も国(帝国日本)のために命を落としたのである。わたしたちは戦前の資産を継承し生きている。それゆえに、戦争の被害者のみならず、将卒にたいしてもなんらかの応答がなければならないはずだ。われわれが生きる戦後的価値は前者の認識の上にはじまっているが、その視点にたてば後者は受け入れがたいものとなる。その矛盾をどのように考えればよいのか。
 さらに、そのような戦争の記憶が、直に体験した人々の肉体からはなれて、メディアの記憶となると、その認識の開きはますますひろがっていくように見える。その問題を考える一素材として、吉田満の死者への態度を見ておきたいと思う。

われわれは、ただ沈黙するほかはない

 吉田は昭和54年(1979年)4月14日に京都の仁和寺でひらかれた慰霊祭に参加した。慰霊祭は京阪神在住の海軍四期の予備学生がよびかけたもので、毎春、桜の咲く季節におこなわれていたという。仁和寺の御室桜は遅咲きで4月半ばが見ごろだ。吉田にとって京都の集まりははじめてのこと。供養のあとに吉田の講演がくまれていた。後にその感想を「観桜会」というタイトルで『季刊藝術』(1979年夏季号)に寄稿している(吉田満「観桜会」『吉田満著作集』下、文藝春秋、1986年)。
 参加予定者は150人という大きな会だが、夫人が多かったこと、女性に比べて男たちは初老となり、自分たちの世代がすでに「老朽船」となったと述べている。吉田によれば、戦争に翻弄された大正生まれは短命だという。その言の通り、吉田もその年の9月に54歳という若さで他界している。
 その席で吉田は、京都に縁があり、大和とともに没した三人の学徒兵について語った。関西在住の海軍四期には、学生時代から彼ら三人とつきあいのあった人々が少なくなかったからだ。
 一人目は京都大学農学部出身の西尾辰雄、美青年だった。大和の艦橋で吉田と肩をならべて立直し、足に銃弾をうけ出血多量で即死した。二人目は、舞鶴出身で東京大学経済学部へすすんだ松本素道。松本は沈没の10分前、急速に傾斜しはじめた時、吉田とラッタルで言葉をかわした。松本は「もう俺達も時間の問題だな」と諦観をたたえた表情でつぶやいた。三人目は森一郎。三高から東京大学へすすみ、東大の学徒代表として答辞を読んだ。酒が強く、気風がよかった。森は沈没するまで声をからして兵を激励した。『戦艦大和ノ最期』で吉田は、自分が死んだ後に許婚者が結婚してくれることを望むが、それを彼女に告げる術がなく、煩悶する森の姿を書きのこしている。
 吉田が三名の学徒兵をどのように語ったのか、そこから何をつたえようとしたのかはわからない。「観桜会」では、「彼らを知りつくした友人にむかって話すのは、語り手としては本望と思うべきなのであろう」と書きつつも、「これまでなかったことだが(中略)今日は心苦してたまらない」とつけくわえている。なぜ心苦しいのか。最後の段落を読むと、吉田の心模様がいくらか理解できる。

 戦争に生き残ったものが、今のこの安気な時代に飽食して、盛りの花を愛でて、短い法要をすませた安堵感に身を任せて、死者への挽歌をうたうべきではない。どのような言葉を駆使しようと、どのような表情を装おうと、彼らの死の光景、死を迎えた時の心情、その生と死の意味について、得々と語ることは許されない。西尾。松本。森。格別に親しかった仲間にむかって彼らの想い出を語ろうとした時、三人の男は、死者としてではなく、眼の前に生きている人間のように、生き生きと蘇った。蘇った死者は、賞讃も慰藉も必要としない。われわれは、ただ沈黙するほかはない(吉田満「観桜会」『吉田満著作集』下、719頁、文藝春秋、1986年)

 この「観桜会」という文章は、構成がととのっていないように私には読める。文の中途で、講演を前にして、気持ちが重かったことを語りはじめたあたりから、切迫したトーンにかわっていくのである。前年の暮れの職場(日本銀行)でのパーティーで、吉田がふらつく場面を眼にしたと彼を知る人が語っていた。すでに病魔がその身にひそんでいたのだろう。不調ゆえに、文に手をくわえることができなかったのかもしれない。その年の7月の青森行で体調をくずし、帰京後入院する。だが、そのような状態であるからこそ、この最後の段落は、彼の心の声にも聞こえるのだ。
 戦艦大和の艦上から見た桜には「ワレヲ誘ウ如キ花影ノ輝キ」があった。しかし、「観桜会」には、桜の美しさをたたえる言葉はない。仁和寺の桜は「日が暮れかかって、花は重たいような、なまめかしいほどの夜の風情を、大地に向かって漂わせはじめていた」。その間を、「われわれはしばしば足をとめながら歩いた」と書いている。桜に心ひかれたことを語るのは「足をとめながら」という表現だけだ。
 34年前、大和の艦上から、別れを告げた桜に思いがないはずはない。「先ヲ争ッテ双眼鏡ニ取附キ、コマカヤナル花弁ノ、ヒト片ヒト片ヲ眼底ニ灼キツケント」したのである。その場には三人の誰かがいたのかもしれない。であればなおのこと、桜に心をよせてはならないのだ。安気な時代を生きるものが、軽々しく死者への挽歌を口ずさむべきではない。それが戦中派・吉田満が、死んだ戦友を慰霊する態度であり、節度であった。


桟橋は軍港で使用されていたもの、右に自衛艦が見える


海軍工廠跡、呉は戦後造船業で発展した

渡辺浩平(わたなべ・こうへい)
1958年生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。1986年から97年にかけて博報堂に勤務。この間、北京と上海に駐在。その後、愛知大学現代中国学部講師を経て、現在、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院教授。専門はメディア論。主な著書に『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』(白水社)、『中国ビジネスと情報のわな』(文春新書)、『変わる中国 変わるメディア』(講談社現代新書)他。

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