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『ジャズのことばかり考えてきた』刊行記念トークイベント レポート

『ジャズのことばかり考えてきた』刊行記念トークイベント
児山紀芳(ジャズ評論家)× 田村直子(NHK-FM「ジャズ・トゥナイト」ディレクター)
2018年7月15日 ディスクユニオン Jazz TOKYOにて

 


著書『ジャズのことばかり考えてきた』を手に笑顔の児山紀芳さん

 

ヘレン・メリルとビリー・ホリデイの幻のデュエット

田村:今日は『ジャズのことばかり考えてきた』が、ますます読みたくなるトークをということで、先生にインタビューしながら、お話を進めさせていただきたいと思います。
まずですね、2007年の4月に「ジャズ・トゥナイト」という番組が始まってすぐに、番組に先生が非常に仲良くしてらっしゃるジャズミュージシャンをゲストにお迎えしました。わたしもその提案が先生からあった時に驚いたんですが、一回目のゲストがヘレン・メリルさんでした。まずはその時のエピソードを思い出してもらいながら、お話をうかがっていきたいと思います。児山先生、ヘレン・メリルさんを第一回のゲストにお招きされた理由はどんな理由からでしたか。

児山:あの時点では、ヘレン・メリルさんはまだ現役で、しょっちゅう日本とアメリカを行き来されていまして、わたくしがNHK-FM放送の「ジャズ・トゥナイト」のレギュラーとして2時間の番組を担当するようになった、最初の放送の時に、たまたま4月の第一週の放送なんですけど、ヘレンとしょっちゅう当時はメールでやりとりをしていましたので、4月の時点で日本に来ているという話を彼女の方から聞いていたので、それじゃあ番組が始まるので出てくれないかと、メールを送りましたら、もちろんOKだということで実現しました。
ヘレン・メリルといえば、日本でもっとも親しまれているヴォーカリストでもあるし、彼女のクリフォード・ブラウンとの共演盤であるとか、若いころのヘレンの活躍ぶりなどについて、知られざるエピソードを、番組でファンの人に聞いてもらったら楽しいなというアイデアでヘレンに声をかけたところ、もちろんOKということで、実現するに至ったんですね。

田村:来ていただいた時にほんとうに貴重なお話をたくさん聞かせていただいて。スタジオに入って来られた瞬間に、本当に先生とは長く親しくお付き合いされていたんだな、という信頼関係がわかり、こう、急にスタジオがアットホームな雰囲気にがらっと変わりまして、わたしも印象に残っているんです。
その時にお話しいただいた中で、もっとも印象的だったのが、ヘレン・メリルさんがビリー・ホリデイと一緒に歌われたという記録があるということで、その音源を持ってきていただいたんですね。番組のリスナーの方たちと一緒に聞きましょうということで、お持ちいただいたんですけど。それが非常にレアな音源でした。

児山:そうでしたね。あれは前触れなしに。そういう話は予定外だったんですけど、彼女の若いころの話が聞きたいと思っていて、番組でそういう話を聞いていたところ、マイルス・デイヴィスにすごくかわいがられたとか、ビリー・ホリデイにもかわいがられて、レナード・フェザーというジャズ評論家のパーティの席で、ビリー・ホリデイと一緒に歌った時の貴重なテープもあるので、番組で聴かせてもいいですよといって、聴かせてくれたのがすごいサプライズだったんですよね。その時のテープ、今日は持ってきていますから。聞きたいと思う人、ビリー・ホリデイとヘレンが一緒に歌っている、「You go to my head」という曲、聞きたいと思う人、手を上げて?

(会場爆笑、全員挙手)

田村:(笑い)では早速ですが、その貴重な音源を聞かせていただければと思います。レナード・フェザーのお家で行われた、本当にプライベートパーティでの、貴重なシーンですね。ピアノの伴奏がついているんですけど、おそらく、レナード・フェザーが弾いていたんじゃないか、とヘレンさんはおっしゃっていました。

♪You go to my head

児山:ヘレンがこういうの持ってきてくれたというのは、うれしかったですね。まさか、こんな場面が聴けると思わなかったので。当時の若いヘレンが、ジャズの大御所たちにとてもかわいがられていて、というその一端がわかったと思います。ヘレンのその時の話で、他にもいろいろ話をしてくれました。当時は白人と黒人の差別というのはまだかなり厳然たるものがあったんだけども、マイルスとか、ビリー・ホリデイとか、ジャズ界の大御所たちの中に混ざって、肌の白いヘレンが加わって、心から受け入れられていたんだということが、このパーティの様子からもよくわかりました。それから、ヘレンについて、みなさんもよくご存じのようにクリフォード・ブラウンとのデビューアルバムの中でアルバムの第一曲目に歌っているんですが、「Don’t Explain」というビリー・ホリデイとゆかりの深い曲を歌っているんですね。アルバムの最初にその曲を歌っているというのも、ビリー・ホリデイとのシンパシーというか、そういうことが背景にあったんではなかったかなという気がしました。それからそのクリフォード・ブラウンとの有名なアルバム、プロデュースしたのはなんとクインシー・ジョーンズなんですね。当時クインシー・ジョーンズはまだ若干22歳かそのくらいで、ヘレンはもう24歳くらいだったんですけど、クリフォード・ブラウンがひとつくらい上の年齢で、クインシーとクリフォード・ブラウンというのは、オーケストラでいっしょにヨーロッパに渡って、戻ってきた時からクインシーとクリフォード・ブラウンとは仲の良い間柄だったので、このセッション、彼女のデビューセッションのときにフィーチャーされるという、経緯があったんですね。

 

ギル・エヴァンスの伝説的な遅筆を目の当たりに

田村:そうですね。本当にいろいろな貴重なお話をしている中で、こういった音源をかけながらトークしていただいたんですけど、時折、ヘレンさんは当時を思い出して、涙ぐんでお話をされているようなシーンもありました。ヘレンさんに限らずですけども、いろいろなゲストの方が、先生との長い親交の中で本当に番組の中では貴重な話を聞かせてくださっています。
あと、ヘレンさんとのエピソードで言いますと、先生がプロデュースされました、ヘレンさんとギル・エヴァンスとのコラボレーションの、まさに『コラボレーション』というタイトルのアルバムがありまして、これについてもお話をいただいたんですけど、ちょっと、知られざるエピソードを聞かせていただきたいので、先生、思い出していただけますか。

児山:レコードの製作という面ではまあ初期のものだったんです。ヘレンとは親しい関係でもありましたので、なんとかヘレンのアルバム、彼女のキャリアの上で際立った存在になるようなアルバムをつくることができないかなと考えて、ふと思いついたのが、彼女がデビューした直後にギル・エヴァンスのオーケストラと吹込んだアルバムがあって、そうだ、もう一回、ギルが亡くなる前に、ヘレン・メリルとの共演アルバムをつくることはできないだろうか、というので。
ギル・エヴァンスのアパートに、まあ押しかけるというか……まあ、押しかけたんですね(笑い)。それで、ヘレン・メリルのレコーディングをしたいんだけど、なんとかもう一度ヘレンのアルバムのためにアレンジをしていただけないかという、話をしたんです。その時は比較的、難しくなくて、簡単にOKしてくれたんですね。
で、いざ実際にレコーディングの段階に入りますと、これがなるほど、有名なギル・エヴァンスのアーティストとしての難しいところなんだなというのを嫌というほど、味あわせられました。あの、スタジオにもうミュージシャンが全部板付きになって集まっている。それで、ギル・エヴァンスはダビングというスタイルではなくて、しかもヘレン・メリルもオーケストラと一緒に歌わないと嫌というスタンスなので、実際にステージでやっているのと同じ状態で録音を録るという、そういうスタイルなんです。それでみんな待ってるんですけど、ギル・エヴァンスは床に寝っ転がるようにして、譜面を広げて、まだ書いてる……というのが延々続くんですよ。それでもって、向こうのニューヨークのそういうギル・エヴァンスが選ぶようなミュージシャンたちというのは、もう分刻みでお金がかかってきてしまうミュージシャンばかりだし、スタジオも決して安くはないし、進まないと本当にどきどきものなんですね。
まあ、でもなんとか無事録音にこぎつけたんですけど、結果的に予定よりもかなり時間をオーバーして、予算はもうとっくになくなって、わたくしがニューヨークから日本に戻れるか戻れないかというくらいの窮状に陥りました。ヘレンと終った時は抱き合って、「終わったね!」と喜びあったんですが、心の中では、どうなるんだろうという、そういう感じはあったんです。
ですから終った翌日、ギルから電話がかかってきて、もう一回スタジオに来てくれと。ちょっと録り直したいところがあるんで、と言われた時はどきっとしました。で、行ってみるとスタジオの中に、ギルと、ソプラノサックスの、スティーブ・レイシーがいて……。予定になかった話なんですよ、そうなんだけど、「今日はあの「サマータイム」の頭のところに、スティーブ・レイシーにソプラノサックスでイントロダクションをつけてもらうので呼んだ」と。で、もうどんどん進行していっちゃうわけですよ。前日までに録り終わった「サマータイム」のトラックに対して、スティーブ・レイシーがそれを聞きながら……。その場面は、やっぱり聴いてもらったほうがいいかな?

田村:そうですね(笑い)

児山:話をするだけのつもりだったんですけど。ちょっと「サマータイム」の頭のスティーブ・レイシーが出てくるところだけ、ほんのすこし聴いてもらいましょう!

♪Summer Time

田村:こんな感じで素敵な曲に、結果的には完成した!

児山:まあやっぱりいま聞いてみると、このイントロダクションがあるとないとでは、全然雰囲気は違うので、もちろんすばらしいアイデアだったんですけど。わたしはもうお金は払える立場ではないので、ギルが終ったあと、帰り際に靴を脱いで、靴の中に200ドル入れてあったのを取り出して、スティーブ・レイシーにギャラとして払って、自腹でやってくれました。
あの、この話には余談がありまして、当時わたくしはモダン・ジャズ・カルテットのジョン・ルイスと非常に親しい間柄で彼のレコーディングなんかもかなり手伝ったんですけども、電話でギル・エヴァンスとのレコーディングですごく辛い思いをしたと話しました。そうしたら「そういう時はおれに電話をしてくれればよかったのに、そうしたら、手伝えたんだけど」、と言ってくれたのが、実はものすごくうれしかったですね。ミュージシャンとなにかをやるという時にはすべてお金がかかるというふうに考えていたんですけど、ミュージシャンも芸術家として、なにか、自分が役に立つことがあるときは友達であれば手伝うよという意思表示をしてくれたというのが、その時すごく感銘を受けたんですね。
ヘレンにまつわる思い出はそのくらいにして…。

田村:ちなみにギル・エヴァンスはこの6か月後に亡くなられたというエピソードも、ヘレンさんからしていただきました。本当に貴重なお話と貴重な録音で、ギル・エヴァンスの完璧主義なところもたくさんつまった、素晴らしい傑作だと思います。
「ジャズ・トゥナイト」は先生のひとりしゃべりで、CDやレコードをかけながら進行されるんですけど、あまりプライベートな話はされないんですね。でもわたしとしてはもう少し聞かせていただきたいなと思っています。非常に貴重なお話なので。

 

アート・ペッパーからの恩返し

田村:この本の中にはそういった番組内ではうかがえないようなエピソードなんかもたくさんつまっていて、非常に興味深く読ませていただいたんですが、その中で特に印象的だったのが、アート・ペッパーとのエピソードです。ちょっと本の種明かしにもなってしまうんですけど、お話いただけますでしょうか。

児山:アート・ペッパーというアルトサックス奏者はわたしのジャズを聴き始めた当初からの、大好きなミュージシャンの一人で、スイングジャーナルの編集長になって、アメリカへの取材が実現することになった時に、もっとも初期のアメリカ取材のときだったんですけど、ロサンゼルスに立ち寄った際に、コンテンポラリー・レコードの社長のレスター・ケーニッヒという人を訪問しました。アート・ペッパーの「ミーツ・ザ・リズムセクション」とかすばらしいアルバムをいっぱいプロデュースしたレスター・ケーニッヒなので、どんな人なのか、インタビューをしたんですね。
彼は親切で、行きたいところがあればどこでも連れて行くよと言ってくれましたので、滞在中にできれば、もう何年も演奏活動をしていないアート・ペッパーがいまどうしているのか知りたい、ペッパーに会いたいんだというふうに話をしましたら、じゃあちょっと待てと言って、いろんなところに電話をかけてくれたんですけど、もし会いたいんであれば、許可が下りたので、いっしょに行ってもいいよと言ってくれました。
当時、アート・ペッパーは「シナノン」という、世界的に有名な麻薬療養患者の更生施設に入っていて、まあ、社会とは断絶された環境の中なんですけど、日本からわざわざジャズミュージシャンのアート・ペッパーに会いたいという人が来てくれているんだったら、これは許可しないと、ということで入れてくれることになったんですね。
レスターに連れて行ってもらって、ペッパーに会うことができました。その時、ペッパーは「この中で生活していれば外部との接触がないので、自分としては非常に平和な日々が送れるんだ」といったんですね。当時、施設の中のさる女性、のちにわかるんですが、ローリー・ペッパーと結婚していて、この中でずっと生涯を終えるつもりだというような話をインタビューでしたんですね。
ですから、私としては、日本に戻るともう二度と彼と接触することもできないだろうし、彼の生の演奏を聴く機会ももうない、と思って、帰り際に、「あなたの演奏を聞きたい人が日本にいっぱいいるんだけども、でももうここから出ないということであれば、わたしが代表してあなたの演奏を聞いて、あなたは元気だという話を誌面を通じて、日本のスイングジャーナルの読者に知らせたい」、というような話をしましたら、彼は快く、じゃあ裏の海岸へ行って吹くよと言って、海岸まで連れて行ってくれました。
大きな建物の裏がもう、太平洋なんですけど、子どもたちが遊んだりしているところで、しばらく吹いてくれたんですね。で、それがペッパーとの別れだったんですけど、帰国して数か月後に、アート・ペッパー復帰というニュースが……。

田村:そのニュースが発表されて、元気に音楽活動に再帰された。ご本人もあきらめられていた音楽活動だったんですけど、わたしが思ったのが、先生がこうして熱心に日本から訪れられて、もう一度アート・ペッパーの音を聴かせてほしい、オーディエンスがいるんだよということを伝えられて、たぶん彼も相当な勇気を先生から受け取られた、それで再帰を果たしたんじゃないかと思うんです。そういったエピソードがこの本に書かれていますので、ぜひお読みいただければと(笑い)。

児山:ありがとうございます。田村さんは、わたしの分身でございます(笑い)。

田村:そのエピソードの中で、ペッパーは先生との交流が続くんですけど、実はペッパーは、「マンボ・コヤマ」という曲を作曲されました。

児山:「マンボ・コヤマ」という曲をペッパーがレコーディングしたという話はペッパーからは一度も聴いたことがないんです。奥さんから聞いたんです。1977年にペッパーは、予定外のゲストとして、カル・ジェイダーのグループとともに日本に来たんですね。その時はペッパーがメインのアトラクションではなかったので、ほんのちょっとのステージしかやらなかったんですけど、その翌年から亡くなる82年まで、毎年のようにペッパーは日本に来ました。
彼が78年に日本に来た時に、ローリー・ペッパー、奥さんから、日本に来る前に、ペッパーがミスター児山に贈って、「マンボ・コヤマ」という曲を録音したよと話してくれたんですね。その時いらい、ペッパーは日本でのコンサートでも「マンボ・コヤマ」を演奏していたし、82年に亡くなる直前のワシントンD.C.のケネディ・センターでの公演でも、「マンボ・コヤマ」を演奏していて、合計9回、録音をしているんですね。そのほかに、ジョン・チカイのような、ペッパーと関係のないミュージシャンが、アート・ペッパーの「マンボ・コヤマ」を聴いてカバーするレコーディングも現在残っています。
嬉しかったのは、ペッパーが世話になった人とか、あるいは勇気をもらった人に対して、トリビュートしたり、というのは、一回こっきりレコーディングで残せば、まあそれで気持ちを表した、ということになるんだけど、「マンボ・コヤマ」という曲をつくって、一回録音して終わったんではなくて、死の直前の公演でも演奏していた。しかもその演奏が彼が残した中のどれよりも長い17分の演奏なんです。今日はそのCDを持ってきました。聞きたくないといっても、わたくしは流します(笑い)。

(会場爆笑)

田村:お願いします。

児山:長いので、最初の前半を聞いてください。

♪Mambo Koyama

田村:マンボですから、ラテン系の軽快なリズムなんですけど、みなさんお聴きいただいていかがだったでしょうか。本当に軽快でストレートに感情が伝わるような演奏を聴いて、児山先生の性格を非常によく表している曲だなとわたしは思ったんです。本当にまっすぐに、アート・ペッパーに思いを伝えた先生の情熱と、そして明るく快活で、そういうお人柄にアート・ペッパーは後押しされて再帰を実現したんだなと、この曲を聴いていつも思うんです。

児山:ぼくがいちばんびっくりしたのは、ペッパーはわりとマンボというラテンリズムが好きで、他にもマンボという名前がついた曲をつくっているんですけど、わたしがまだジャズの世界に入る前、最初に勤めた読売新聞の大阪本社の社会部付のボーヤをした当時のニックネームが、マンボだったんです。
当時、ペレス・プラードの「マンボNo.5」というのが大流行していて、わたしのファッションがペレス・プラード風の、当時マンボズボンというのが流行っていたんですね。ちょっといまの若い人にはわからない昔の話なんですけど。そのファッションが新聞記者のあいだではすごく風変りに見えたので、読売新聞のわたしが配属されていた記者のみなさんからは、「おい、マンボ」というふうに呼ばれていて。まさかマンボ・コヤマというのが出てくる、というのは想像を絶する驚きがありましたね。
というような次第で、ペッパーとの出会いというのはわたしの長いジャズ人生の中で生涯忘れられない思い出になっています。

 

アルバート・アイラーの数少ないインタビュー

田村:本当にアート・ペッパーをはじめ、先生がスイングジャーナルのお仕事をされていた時は特にですけど、たくさんのミュージシャンの方たちに突撃インタビューをされてきたんですね。
先生、アート・ペッパーのほかに印象に残っているインタビューというのはどんなものがありますか。

児山:いっぱいあるんですけど……。まあ、マイルスともずいぶんおっかけをやりましたし。
そのほか、最初に電話をして会いたいと言った時に、じゃあ会いたければ来年もう一回電話をして来いと。わたしが自己紹介して、日本から取材のためにニューヨークに来ているんですけど、ぜひ会ってお話を聞きたいので、インタビューにお宅にうかがってもいいですかと聞いたら、来年もう一回来た時に電話をかけたらいいよ、という話だったんです。それで、次の年かけたら、また来年と言われたんですよ。それで、かなり厳しいなとは思ったんですけれど、それでもこちらはそうまでしても会いたかったので、三年目にようやくOKしてくれたんですよ。それは、目が不自由だったレニー・トリスターノというピアニストなんです。そのレニー・トリスターノの音楽は今でも、若いミュージシャン、ピアニストの、非常に多くの人たちが自分がまず勉強すべきピアニストの一人だと思って勉強しています。そのくらい偉大な、カルト的存在だったんです。
いまから振り返って、よくあんなインタビューができたな、あるいはしたな、と同時にやっておいてよかったなと思うのは、アルバート・アイラーとのインタビューです。今日はそのアルバート・アイラーのアルバム持ってきたんですよ。全集的なアルバムですけども、これはCD9枚組のアルバムで、解説がこれです。ブックレットというよりも、これはもう、もう本ですね。田村さんに聞いたら、中古市場で、5万円?

田村:はい。5万円だったら買ったほうがいいなと。


アルバート・アイラーの全集的アルバム『HOLY GHOST』(写真右・田村直子さん)

児山:アルバムの中にこんな、アルバート・アイラーの子供のときの写真まで。ひと箱ひと箱こんな仕様になっているんですよ。
その9枚組のCDの、9枚目がぼくがやったアルバート・アイラーとのインタビューなんですよ。このボックスセットをやったプロデューサーから、「ミスター・コヤマとのアルバート・アイラーとのインタビューをぜひこの中に収めたいので、お願いしたい」と。
インタビュー、インタビューと簡単に言ってますけど、インタビューをしようと決めたのが、ニューヨーク滞在中、1970年。ニューヨークにいって、ニューポートのジャズフェスティバルを取材してニューヨークに戻って来て、本屋さんの雑誌コーナーで、フランスのジャズ雑誌「ジャズ・マガジン」というのを買って、裏表紙を見たら、アルバート・アイラーのコンサート、7月12日から13日の二日間、南フランスのサン・ポール・ド・ヴァンスのマグー近代美術館の仮設テント小屋でコンサートをやる、という広告が出てたんです。その時にそれを見た瞬間、あ、これはフランスに行くべき!と決めて、カメラマンと二人でニューヨークから日本に帰るのを止めて、パリを経由して、南フランスまで行きました。よくあんなことができたなって。やっぱり若いからですかね。できちゃうんですよ。
レニー・トリスターノも3年待ちでしたけど、距離からいったら日本、ニューヨーク、フランスまで行って、アルバート・アイラーに会ってるわけですからね。なぜそこまで行ったか。コンサートの広告が出ていて、そこに行って待っていれば、確実にアイラーに会えるという確信ができたことですよね。それぐらい、アイラーに会うということは現実的に無理な状況だったので。だったら二日前くらいに入って、彼がどんなに早く来ても一日前くらいだろう、待ち受けていれば必ず会えるという気持ちで行きました。待てど暮らせど、来ない。
いよいよ今日がコンサート。この日に会えなければ、わたしたちは翌日に飛行機で日本に出発。コンサートの事務局の人に聞いてもいつ来るかわからない。すごくあやうい返事なんですね。でも、待ってました。そしたらついに、コンサートの数時間前。現れたんですよ。うれしかったですね。これからリハーサルだという前、彼の部屋に、ホテルというか、美術館のそばにある、まあ、民宿みたいなところなんですけど。南フランスの避暑地あたりにはそういうのがいっぱいあるんですけど。そこに押しかけてインタビューしました。
それが、彼がニューヨークのイーストリバーで謎の死を遂げる4ヶ月前なんです。そんなの全然予期してませんから。とにかく元気でやっているというか、これからコンサートをやる。そのアイラーに、なぜ演奏活動を積極的にしていないのか、いろいろ聞きました。そのインタビューが貴重なので、この全集にも採用したいという。
とにかく、インタビュー自体が少ないんですよ。そのものがない状態なんですね。ですからアイラーの生の声を聴くなんていう機会も、非常に少ないというか、まあ、めったにないですよね。今日、持ってきました。

田村:早速、聞かせてください。肉声ですね。

児山:どんな声か。英語です。

♪アルバート・アイラーとのインタビュー

児山:アルバート・アイラーという伝説のミュージシャンの肉声を、短いフレーズでしたけど、聞いていただきました。インタビューを始めたら彼は怒濤のように話し始めて、このところニューヨークでは全然演奏してない、幸いなことにインパルス・レコードとの契約があって、毎年アルバムを出すことができていて、他のミュージシャンよりも、ギャラというか、収入があるので、演奏活動をしなくても、自分自身の気持ちを曲げずにやりたいと思っていることを、やりたいと思っている音楽、彼は我々の、黒人のクラシック音楽だというふうに表現していましたけども、やっているんだ、という話をしてくれました。
このインタビューが終わったあと、テント小屋でリハーサルをやって、夜、コンサートを聞いて、翌日の朝、もうわたしたちは日本に向かったんです。
彼の生のステージの演奏を聞いた時にわたしが体験したのは、サックスから出る音に色がついているなとイメージしたのはそれが最初だったんですよ。どんな色か。金色でした。音に色がついているなんて感じることはほとんど経験のないことなんですけど、彼がステージで吹いた時のサックスからは、黄金の粒になったような音がばーっと吹き出てくるような、すごい体験でした。それが彼のラストパフォーマンスなんですよ。その後、シャンダールというレーベルからリリースをされて、大きな話題になりました。
間もなく、彼の死体が、イーストリバーに浮かんで、謎の、いまだに自殺なのか他殺なのかわからない状態で、見つかった。その伝説のミュージシャンのインタビューができた、というのはぼくの長いジャーナリスト人生の中でも非常に……。いま、アメリカの作家がアルバート・アイラーの伝記を書いてます。その中にまた、このインタビューテープの、アイラーのコメントが、もう随所に引用されていまして、先日ドラフトが送られてきて、許可を得たいという連絡がありました。アイラーの伝説はこれからも続くと思います。

 

「わたしは聖者になりたい」―コルトレーンとカマシ・ワシントン

田村:先生がこうして長きにわたって取材されてきたことというのは、先生がジャーナリストとして、いまやっている番組もそうですし、この本でもいろいろなところに刻まれています。本当に貴重な証言というか、まだまだ出ていないものもたくさん眠っておりますので、それをなんとかね、後世にずっと残せるようにしていただきたいなとわたしは思っていまして、そのタイミングでこの本を白水社さんにつくっていただいて、ありがたいなと、ジャズの一ファンとしては、ほんとうに感謝しております。
みなさんもぜひ、いまでも毎週番組は放送していますし、先生がプロデュースされた作品がたくさんありますので、ぜひお手に取ってご覧いただいたり、聞いていただけたりしていただければと思います。
そしてわたしが十年ちょっとという短い時間ではありますけど、一緒にお仕事をさせていただいて、こういった貴重なお話をうかがっているんですけども、数多くのミュージシャン、本当に親日家がほんとうに多いと思うんですね。そういう人たちのお話を聞いていると、先生をはじめ、たくさんの音楽に携わってこられた方たちが真剣に、ミュージシャンと向き合って音楽と向き合って時代をつくってこられたからこそ、日本でも貴重な音楽を聴く機会がですね、たぶんほかの国に比べても多いと思うんですね。そういった環境にわたしたちは恵まれているんだということを常に感じています。
いま、本当にインターネットとかいろんな情報だったり人にアクセスできる時代ではありますけど、それが困難だった時代から足を運んで、いろんな方法で取材されてきた記録というのは、本当に貴重ですし、やっぱり心意気というのは比べられないものだったんだなというのを、非常に感じています。ぜひ、この本をお読みになって、そういった五十年以上かけて、やられてこられたことをぜひ知っていただければと思います。

児山:最後にあの、ちょっと店内を先ほど歩いて気がついたのが、あっちのコーナーにカマシ・ワシントンのジャケットがずらずらっと。

田村:はい、いま話題のサックスプレイヤー。

児山:カマシ・ワシントン、我々の番組にも来ていただきました。いまのジャズ界で、最も注目されているアメリカのテナー・サックス奏者。
彼をコルトレーンと比較して、比べるというのはまだ時期尚早な、ありえないことかもわかりませんけども、カマシに対する期待というのはジャズ界で非常に大きい。その期待ゆえに、彼に番組に出てもらった時に質問をぶつけたんですね。
ジョン・コルトレーンが1966年に日本にやってきた時に記者会見があって、わたしはその記者会見の席で、新聞記者の質問というのはありきたりなものが多いので、もう少しまともな質問をひとつくらいしなくてはいけないなと思いまして。後ろのほうに立っていたんですけども、手を挙げて指名をされましたので、ジョン・コルトレーンに向かって、「あなたは、いまから10年後、どういう自分になっていたいですか」という質問をぶつけました。
そうしたところ、コルトレーンは、あの有名な「I wont to be a saint.」聖者になりたいと言ったんですね。それはいまや伝説のインタビューであり、伝説の答えであり、コルトレーンを取り巻くエピソードの中でももっとも有名なエピソードになっています。聖者になりたい。誰もがその時、バカ言え、って思わなかったんですからね、本気で彼は言ったと思いました。
そこで、カマシをゲストに迎えた時に、実はコルトレーンにインタビューをした時に、コルトレーンは聖者になりたいと言った。あなたに同じ質問「10年後自分はどんなミュージシャンになっていたいか」をぶつけたら、どう返事しますかと聞いたんです。カマシはまだ20代ですから、その質問にはさすがにあっと驚いたんですね。しばらく、ラジオの番組なのにマイクに向かって声が出ませんでしたよね。

田村:はい、放送事故寸前の沈黙でした。

児山:で、かなりの沈黙の後に、カマシが言ったのは、「10年後、わたしはいまと同じに健康であって、健康な体で、いまもやっているように同じような気持ちで10年後も演奏をし続けられたら、ありがたいというか、そういう自分でありたい」と。こういう答えが出てきた。収録が終わったあと、田村さんとも話したんですけど、非常に素直な答え。

田村:そうですね、けっこう風貌は、こう……。

児山:1メートル90センチくらいあるんですよ。

田村:かなり迫力があるんですけども。


カマシ・ワシントンの等身大パネル登場!

田村:こんな感じで、服装もけっこうスピリチュアル系の、インパクトのある方なんですけど、精神論をうわべだけで語るような方でもなかったですし、本当にこう、純粋なピュアな、素直な青年で、非常に好印象を受けました。 こうしたフレッシュなサウンドも、声も番組では届けていますので、毎週土曜日夜11時から、「ジャズ・トゥナイト」を聴いていただけるとありがたいです。

児山:どうもありがとうございました!

 

>児山紀芳著『ジャズのことばかり考えてきた』

>NHK-FM「ジャズ・トゥナイト」

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