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「読書バリアフリー」って何?(宇野和博)

 二〇二三年七月、市川沙央さんの『ハンチバック』が芥川賞を受賞しました。市川さんには主人公と同じ重度の障害があり、作品の中でも授賞式でも「読書バリアフリー」をうったえましたので、ご存知の方も多いと思います。この「読書バリアフリー」とはどういうことなのでしょうか。バリアフリーと聞くと、歩道の段差をなくしたり、駅にエレベータを設置することを連想する人もいます。ところが様々な生きにくさを抱えている人がバリア、社会的障壁を取り除いてほしいと願うのはハード面だけではありません。読書をはじめ、情報へのアクセスに壁があれば、それをなくしてほしいと望む人はたくさんいます。

 では、読書にはどんなバリアがあるのでしょうか。だれもが思いつくのは目が見えない、または見えにくい、視覚に障害のある人は活字本は読めないだろうということです。ほかにもいます。手が不自由な人は本のページをめくることができませんし、寝たきりの状態であれば本を持ち続けることが難しくなります。ディスレクシアとよばれる読み書きに障害のある人は、縦書きが読みづらかったり、フォントや文字の大きさの問題で文章を読むことが困難になることもあります。左右の目のピントが合わせられないなどの眼球使用困難症の人もいます。

 あるディスレクシアの方に話を聞いたことがあります。小学生の時、教室に戻ると黒板に「たいことばちを持って体育館に来てください」と書いてありました。それを読んだその方は、「どうやってたい(鯛)とことば(言葉)とち(血)を持っていくんだろう?」と考えこんでしまったそうです。どうやら分かち書きがポイントだったようです。ある上肢障害の方は、「図書館の中に住みたい!」というくらい本が大好きでした。自分ではページがめくれないので、介助者にその都度「ページをめくって」と伝えながら本を読んでいたのですが、だんだんそれが面倒になり、結局本を読まなくなってしまったそうです。ある全盲聾の大学教授はテレビやラジオといった視覚や聴覚からの情報が得られませんので、「本は私にとって心の食べ物である」と言いました。ところが新刊本や読みたい本の点訳を図書館等に依頼しても、数か月待つこともあります。またこれまでに点訳や音訳された本は、小説などが多く、絵本や児童書、専門書は少ない傾向にあります。

 

 私は一九九四年から筑波大学附属盲学校で働き始めました。盲学校には全盲の子どもだけが通っているわけではなく、弱視児もたくさん就学しています。学習における困難を詳しく聞いてみると、cとeやbとhを見間違えたり、ルビや数学に出てくる上付き数字を読み間違えたり、「壁」と「璧」を同じ漢字だと思っていたり、挿絵をパッと見て俯瞰することが苦手だったりと、様々な困難があることが分かってきました。しかし当時、弱視の高校生には通常の検定教科書が配布されているだけで、ごく一部の生徒がボランティア製作の拡大教科書を使っているという状況でした。通常の高校ではなく、視覚障害教育を専門とする盲学校のことです。ちょうどその頃から私の目の病気が進行し、視力が下がってきましたので、弱視生徒のもどかしさも痛いほどわかるようになってきました。「教科書は教材の一丁目一番地である。勉強以前に読むことそのものの困難を取り除いてあげないと、同じ土俵に立っているとはいえない」。このような思いが強くなり、当事者や保護者とともに拡大教科書の保障を求める運動を始めました。幸いにも理解ある国会議員をはじめ多くの方のお力添えがあり、二〇〇三年には拡大教科書に関する著作権法が改正されました。二〇〇四年には小・中学校で無償で給与されるようになり、二〇〇八年には教科書バリアフリー法が制定され、ようやく拡大教科書が安定的に配布されるようになりました。

 この運動を進める中で、私は二つのことに気づかされました。一つはディスレクシアの中にも弱視と同じようにゴシック体の大きな文字が有効なケースがあるということです。もう一つは、「教科書は読みやすくなったけれど果たしてそれだけでいいのか?」という疑問でした。私自身は、たまたま大人になってから目の病気が発症しましたので、高校受験や大学受験の時にはたくさんの受験参考書や問題集のお世話になりました。また小学生の頃から江戸川乱歩シリーズにはじまり、あらゆる推理小説や伝記、SFなどを読みまくりました。その中で人生観を揺さぶられるような本とも出会いましたので、私自身は本から多くの恩恵を受けてきたといえます。子どもにとって読書とは「言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないもの」と子ども読書推進法に書かれていますが、まさにそうだなと痛感したわけです。ところが私の目の前にいる子どもたちは好き好んで目が悪くなったわけでもないのに、好きなだけ絵本や児童書を読めてきたわけではない。受験勉強をしたくても、定評のある受験参考書や問題集は文字が小さかったり、点訳されていなかったりして読めない。新刊本や話題になっている本を読みたくても、すぐに読めるわけではない。この現実にはっとさせられたわけです。またある全盲の女子高生が、「十代の女の子が読むようなファッション誌にはどんなことが書いてあるんだろう?」とつぶやいた時にもドキッとしました。また、卒業生からは、「大学に進学したものの教科書となる専門書を読むのに苦労している。社会福祉を専攻しているので社会福祉用語辞典を読みたいのだが、点訳されているのは古いので使えない」という声も聞こえてきました。研究者や学校の教員からは、「本を裁断しОCRにかけて読んでいる。教材研究をするために教師用指導書を参照したいのに読めない」という声も上がります。さらに大学の推薦試験において、指定の課題図書を読んでレポートを書くという課題を課す大学も出てきました。こうなると読書はもはや娯楽や余暇という次元ではなく、生徒の進路や人生にも影響してくることになります。スーダン出身のある全盲の研究者は、視覚に障害を負った時に母親から「目が悪ければ身体を使った仕事ができるわけではない。だからこそあなたはしっかり勉強しなければならないんだ」と言われたそうです。日本はスーダンよりも障害者の読書環境は整っているようですが、それでも研究者としてやっていくにはかなりもどかしい思いをされています。これらは個人の資質や能力が劣っているのではなく、環境が整っていないことに起因しているといえます。そこで教科書バリアフリー法が成立した直後の二〇〇八年から、志を同じにする仲間と「教科書バリアフリーから読書バリアフリーへ」というスローガンを掲げ、「読書バリアフリー法」の制定を求める運動を開始しました。

 偶然ですが、世界的にも障害者の読書環境をよくしていこうとする運動が進められており、二〇一三年に国連の世界知的所有権機関が「盲人、視覚障害者その他の印刷物の判読に障害のある者が発行された著作物を利用する機会を促進するためのマラケシュ条約」を採択しました。驚いたことにマラケシュ条約の受益者は視覚障害者だけでなく、ディスレクシアなどの発達障害者、寝たきりや手が不自由な身体障害者、眼球使用困難者と幅広く定義されていました。このマラケシュ条約採択をはずみに障害当事者四団体が運動を進め、二〇一九年に視覚障害者等の読書環境の整備の推進に関する法律が制定されたということです。

 

 それではすべての人が本に親しめるようになるにはどうすればよいのでしょうか。視覚障害を例にとっても点字、音声、拡大文字と必要な媒体は障害の程度によってまちまちです。そのほかにも触る絵本、LLブック、布の絵本などもあります。本来ならばこのような様々な本が発売されることが理想的ですが、現実的にはほぼ不可能です。そこで考えられるのが「One Source, Multi Use」です。正確なテキストデータがあれば、個人でも瞬時にほぼ正確に自動点訳したり、スクリーンリーダーで読み上げさせたり、見やすい字体や大きさに拡大したりできる時代です。現に私は定期試験を作る時、最初にテキストデータを作ります。そして自動点訳ソフトを使って点字データに変換し、レイアウトを整えて点字問題を完成させます。弱視生徒のためにはフォントをゴシック体に変え、文字の大きさを一八~二六ポイントに変更し拡大問題を作り上げます。つまりアクセシブルなテキストデータは、様々な媒体に活用(Multi Use)する有用な源(One Source)になるということです。この考え方が読書バリアフリー法第十二条の「視覚障害者等が利用しやすい電子書籍等の販売等の促進等」に活かされています。ちなみにテキストデータそのものは、学生や研究者が専門書の漢字を確認したり、正確に引用する時にも大いに役立つデータ形式です。

 同じことが図書館におけるバリアフリー図書の製作にも当てはまります。図書館はこれまで点訳、音訳、拡大写本に分けて作業を進めてきました。時に一文字ずつ打ち込んだり、ОCRで活字を読み取ったりしてきました。しかし一方で日本の家族形態が変わり、専業主婦が少なくなったせいか、障害者の読書の多くを支えてきてくださったボランティアの数が減少してきています。このような心配を払拭するためにも図書館はどうやって出版社からテキストデータの提供を受け、効率的な点訳等の作業に結び付けられるか、経済産業省と文部科学省、厚生労働省、関係団体を中心とした議論が現在も続いています。すでに出版業界はアクセシブル・ブックス・サポートセンター(ABSC)を立ち上げ、各出版社に連絡窓口の設置を要請しています。

 

 読書バリアフリーをめぐる動きはまだ道半ばといえます。私たちが目指したい社会とは、「誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会」です。また文字・活字とは、「人類が長い歴史の中で蓄積してきた知識及び知恵の継承及び向上、豊かな人間性の涵養並びに健全な民主主義の発達に欠くことのできないもの」と文字・活字文化振興法に書かれています。インターネット上には情報が溢れていますが、本には正確で崇高で示唆的な知識や知恵がぎっちり詰まっています。一方、障害者が読書できるようになるには、「作る→蓄積する→届ける→支援する」という過程のどれが抜けても完遂しません。せっかくアクセシブルな書籍が出版社や図書館にあっても、必要とする人に届かなければ宝の持ち腐れです。最近、館内にアクセシブルな書籍を紹介するコーナーを設置する図書館も増えてきました。それに気づいた人が近くの読書困難者にその存在を伝えることでも読書への扉を開くことになるかもしれません。またその媒体をどうやって利用するのか、障害者に近い立場の人が障害の種別や機器操作の習熟度に応じてきめ細かく支援していくことも大切です。

 このように、障害の有無に関わらずすべての人が読みたい本をいつでも買ったり借りたりできるようにするには出版社の合理的な配慮、図書館の協力、ボランティアの支援、そして一般市民の方々の理解が不可欠だと感じています。本来、創造した作品を活字でなら読者に届けてよいが点字や拡大文字は駄目という著作者はほとんどいないと思います。著者もwin、出版社もwin、読書障害者もwinとなれるような情報アクセスの解がきっとあるはずです。また知る権利も人権の一つです。福祉や思いやりというレベルではなく、基本的人権という視点で「読書バリアフリー」とは何か、今一度問い直してみたいものです。

 

宇野和博(うの かずひろ)
1970年生まれ。筑波大学附属視覚特別支援学校教諭。NHK「視覚障害ナビ・ラジオ」コメンテーター。著書に『拡大教科書がわかる本 すべての見えにくい子どもたちのために』(読書工房)。

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