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田中洋二郎著『新インド入門——生活と統計からのアプローチ』立ち読み:「ダドリ・リンチ」


田中洋二郎著『新インド入門——生活と統計からのアプローチ』

一 ダドリ・リンチ

ダドリ・リンチとその波紋
 二〇一五年九月二十八日、インド全土を揺り動かす事件が、首都デリーから東へわずか二十キロほどいったダドリという地区で起こった。事件は、あるムスリムの家族が牛を殺して肉を食べ、冷蔵庫にその肉を保存しているという「噂」から始まった。
 午後十時半頃、この噂を聞きつけたヒンドゥー教徒の集団が、モハンマド・アクラルの自宅までやってきた。アクラルが群衆に気付いた時にはすでに遅かった。彼らはアクラルの家に入りこみ、アクラルを家から引きずり出した。アクラルの息子ダニシュも引きずりだされ、二人は一時間以上にわたって壮絶なリンチを受けた。リンチが行われている間、残された家族は冷蔵庫に入っている肉は牛肉ではなくマトン(山羊)肉だという懸命の主張を行った。しかし、リンチが止むことはなかった。結果アクラルは死亡、ダニシュも重体となり病院へ搬送された。
 事件後、警察は地元のヒンドゥー教寺院の司祭を含めリンチに加わった者たちを逮捕したが、その逮捕に対し、逆に地元では大規模な抗議運動が起こった。地元の抗議は激しく、警察は拳銃を空に向けて発砲し事態の沈静化を図った。しかし、ダドリ事件の波紋はインド全土に広がり、以降、インドでは牛肉をめぐる暴力事件が頻発している。
 最近でも、二〇一七年七月二十三日の朝日新聞に、ムスリム人口の多いウッタル・プラデーシュ州で牛肉加工場を経営するアヤズ・シディキ氏へのインタビュー記事が掲載されていた。記事によれば、一日平均二千頭を処理していたアヤズ氏の工場は、四月に入ってから牛肉の処理数が三百頭まで激減しているという。直接の原因は、二〇一七年四月にラジャスターン州で起きた事件だ。それは、牛をトラックに乗せて運んでいたムスリム五人が、ヒンドゥー教徒と見られる十人の男たちに鉄棒やレンガで殴られたという事件だった。その四月以降、農家から牛が集まらなくなった。
 このような事件が起こると、「インド=牛肉がタブー」というイメージが作られ、「インドでは、牛肉を食べただけで殺される国」というイメージが独り歩きし始める。しかし、事態はそれほど単純ではない。事実として、インド人の中で牛肉を食べる人は意外と多い。驚くことに、インドはブラジル、アメリカ、オーストラリアなどに匹敵する、世界一位、二位の牛肉(水牛を含む)輸出大国でもある(1)

多様性インドの事情
 このように、インドは牛肉を食べたという「噂」だけで人が殺される国であり、一方で牛肉の世界的な輸出大国でもある。我々は、このギャップをどのように理解すればいいのだろうか。
 それを考えるヒントこそ、インドの多様性とその巨大な人口にある。前述のとおり、インドはヒンドゥー大国であると同時に、イスラーム大国でもある。一億七千万人を超すムスリムにとっては、牛は聖なる動物ではなく、牛肉を食べることはタブーではない。こうした人たちが、インドの牛肉加工ビジネスを支えている。
 さらに、以下の地図を見て欲しい。これは、インドで牛の屠殺(とさつ)が禁止されている州、条件付きで認められている州、無条件で認められている州をあらわしたものだ。このうち、条件付きおよび無条件で牛の屠殺を認めている州の人口を合わせると、約五億三千三百万人もの規模となる(2)。このことからも、牛を殺すこと自体がインド全体で禁止されているわけではないことが見えてくる。牛の屠殺を禁止している州とそうでない州とを分ける明らかなラインが、インド北西部と、南、北東インドとの間にあることが分かる。これは、南インドは主にドラヴィダ民族が、北東インドはモンゴロイド系の山岳民族が多く住んでおり、それらの地域では全く違う価値観が主流になっていることを意味する。


雑誌India Today (October 19, 2015) より。黒いエリアは屠殺が禁止されているエリア、灰色のエリアは屠殺が認められているエリア

 私のインド駐在中でも、自宅でお世話になっていたメイドのZ氏は南インドのカルナータカ州マンガルールの出身で、北インドでは珍しいビーフカレーを作ってくれた。ある時、Z氏にデリーでどうやって牛肉を手に入れているのか聞いてみたら、ムスリム居住区に行けば、デリーでも牛肉は簡単に手に入ると教えてくれた。このような日常のやり取りからも、インドの多様性が見て取れる。

それぞれの対応
 そもそも、なぜ牛肉がタブーなのだろうか?
 古代インドから牛はインド人にとって貴重な存在だった。牛は、畑を耕す労働力であり、牛は貴重な蛋白源となる牛乳を提供する。その糞は壁に塗って乾燥させれば良質な燃料となった。こうした牛をインド人はとても大切にしていた。その後、雄牛は有名なシヴァ神の乗り物「ナンディン」として、雌牛はクリシュナ神の従者として崇められるなど、牛が神聖化されていった。
 なお、インドでは牛は神聖な動物ではあるが、そんな神聖な牛の扱いは日本人が想像するのとは少し様子が違う。インドでは牛が町中を歩いているのをよく見かけるが、その牛たちが雑に扱われていることも多い。時にはお尻を思いっきり叩かれているような牛も見かける。牛は宗教的には有り難い・・・・が、日常生活では路上で売っている野菜をむしゃぶり食べようとするあり得ない・・・・・存在なのだ。それを止めようと牛を叩く人びとの気持ちは現地で生活しているとよく分かる。こんな時、お牛様を叩いている人がいても、それを非難するような人はいない。この辺り、インドの寛容性と言えるだろうか。
 さらに余談だが、インドの町中を闊歩する牛たちはほとんどが野牛ではなく飼牛である。彼らはどこかにねぐらがあって、朝ねぐらから出てきて町を歩き回り、夕方またねぐらに戻っていく。言ってしまえば、町に放牧されている状態である。もちろん、飼い主がいるわけだから、路上の牛を勝手に捕まえたりすれば大問題となる。
 このように牛が神聖化されているインドでは、表立っては牛肉を食べることはできない。しかし、デリーなどの大都会ではたまに「ビーフステーキ」とメニューを堂々と出しているレストランもある。ただ、この時のビーフの中身は大体が水牛だ。上述のナンディンは基本的にインドでよく見かけるこぶ付きの牛のことで、水牛ではない。このため、牛の屠殺を禁止している州であっても水牛を食べることが認められていることがある。
 インドでは、豚肉も、牛肉と同じく公然とは食べられない。一般的にインドで食べられるのは鶏肉か山羊肉だ。インドにあるマクドナルドでも牛肉や豚肉を使った商品はなく、日本のビックマックにあたる「マハラジャ・マック」も鶏肉をミンチにしたパテを使っている。

現政権の影響
 さて、話をダドリ・リンチに戻そう。今回の事件に端を発した一部の過激なヒンドゥー教徒による暴行事件については、事件後、現BJP(Bharatiya Janata Party(インド人民党))政権の右傾化が大きく影響しているという批判が噴出した。もともとBJPはヒンドゥー教徒から強い支持を集めている政党であり、特にRSS(Rashtriya Swayamsevak Sangh)というヒンドゥー至上主義組織がBJPの政治母体であることから、政権発足当初からBJPの「(宗教)マイノリティ問題」に対する懸念は存在していた。今回の事件に関しては、政権が発足してから一定期間が経ち、当初の懸念が現実化したものと考える論調も多くみられた。しかし、私としては、今回の事件を政治化することで、物事の本質から目を背けようとしていることが気にかかる。確かに、現政権の政策の中には、牛肉禁止政策などヒンドゥー教の価値観を押し付けるような政策が少なからず存在するが、現政権の右傾化を非難すれば、村人をリンチしたヒンドゥー教徒の罪が消えるわけではない。この事件は、インドの政治問題である以前に、他者に対する差別、偏見、無知といったインド人の心の問題だ。その責任のすべてを、現政権になすりつけることはできない。

今、必要なもの
 「ダドリ事件についてどう思うか」と、知人のインド人学生に聞いたことがある。その時の彼の率直な回答が印象的だった。彼は、今でこそデリーにある大学に通っているが、もとはダドリのような小さな村の出身だった。事件に関して、彼はこんな風に言っていた。「もし自分がいまでも村に居続けていたら、リンチに加わったでしょうね。しかも、村人の期待を一身に受けて、誇らしげに。でも、今はできませんね。何故かは分かりません。多分、自分の信条とは異なる信条をもつ人間がいることを学んだからじゃないでしょうか」。
 知人の話から見えてくるもの。それは、異なる宗教観を理解し、共感する心がダドリのような事件を防ぐものではないかということだ。そういった心を育む教育が何よりも必要とされている。これはインドの村人に限ったことではない。こうした事件を理解しようとする私たちにとって必要なものでもある。
 今回のダドリ・リンチ事件は、日本のネットニュースでも取り上げられていたが、そこには「宗教って何だか怖い」といった宗教そのものを否定するようなコメントや、「牛肉を禁止するなんて馬鹿げている」というインドの風習を否定するようなコメントが寄せられていた。確かに日本人にとって、ダドリでの事件を理解することは難しい。しかし、当事者の宗教やその国の風習を否定するだけの姿勢からは、インドの社会、家庭に生まれ育った人間の心情を理解することはできない。日本人には奇異に見える事件だからこそ、異文化に対する想像力とその社会で暮らす人々への共感が必要となってくる。インドに限らず、宗教が理由で起こる争いについて、テロを擁護するのではなく、しかし事件を起こした人間の心にも目を向ける姿勢が求められている。
 ダドリ・リンチをめぐり忘れていけない日付が十月二日だ。この日は、インドの国父ガンディーの誕生日。異なる宗教の共存を願い、最後までヒンドゥー教徒とムスリムの融和を目指し、そのことで逆にヒンドゥー原理主義者の凶弾に倒れたガンディーがダドリの事件を聞いたらどう思っただろう。ガンディーは、次のような含蓄のある言葉を残している。

それでも、宗教教育なしには〔インドの〕解放はありえません。インドは無神論にはけっしてなりません。無神論の作物はインドの大地に合わないのです。……インド洋の海岸にはごみがたまっています。ごみの中で腐敗したものを取り除かなければなりません。私たちだって同じです。自分たちの汚れの大半を自分で取り除けるのです。……インドを本来の方向に持って来るために、私たちが本来の方向に来なければなりません。……あとは自ずとうまくいくでしょう(3)


(1) 「インド人は牛肉をよく食べる。「牛肉輸出量」世界一の理由」https://diamond.jp/articles/-/119320
(2) 二〇一一年インド人口統計(www.census2011.co.in
(3) M・K・ガーンディー『真の独立への道(ヒンド・スワラージ)』(田中敏雄訳、岩波文庫、二〇〇一年)一三〇—一三一頁


*続きは田中洋二郎著『新インド入門——生活と統計からのアプローチ』でぜひお読みください。

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