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田中洋二郎著『新インド入門——生活と統計からのアプローチ』立ち読み:「はじめに」


田中洋二郎著『新インド入門——生活と統計からのアプローチ』

はじめに

巨大国家インド
 いまインドが大きく変化している。
 しかし、私たちは昔ながらのインドのイメージにとらわれていて、世界のパワー・バランスを大きく変えるインドの変化に気が付いていない。アジアの大国インドは、あと二十年もすれば、今の中国のように、世界の大国としての存在感と影響力をもつようになるだろう。私たちは、そういうインドをもっと理解するべきだ。もっとインドとつながるべきなのだ。そのためには、私たちは自分たちのインド観を見つめなおす必要がある。
 インドを理解するにあたっては、まず、この国がいかに巨大であるかを認識するところから始めるべきだろう。インドほどの巨大国家では、一億人程度の人口は少数派(マイノリティ)としてカウントされる。二〇一一年の国勢調査によると、インドの人口は十二億千八百五万四千九百七十七人となっている。インドはヒンドゥー教徒が多数を占める国だが、人口の十四・二三%にあたるムスリム(イスラーム教徒)も暮らしている。これを単純に計算すると、インドにはムスリムが約一億七千三百万人、つまり日本の人口を優に超すムスリムが宗教マイノリティ・・・・・・・・として暮らしていることになる(1)。現にインドは、人口の約八割がヒンドゥー教の国でありながら、中東のどの国より多くのムスリム人口を抱える、世界第三位のイスラーム大国(一位はインドネシア、二位はパキスタン)なのだ。こうした桁違いの人口の多さは、インドを理解する上で重要なポイントとなる。現在、中国に次ぐ人口を抱えるインドは、今後十年以内に中国を超えて、人口世界一の国になると言われている。良くも悪くも、インドのインパクトはその人口にあると言っていい。
 次にインド経済について見てみよう。今でも多くの人がインドを貧困国の一つとして捉えていないだろうか? BRICSの一つに数えられるインドのGDPは既に世界第七位。米国、中国、日本、ドイツ、イギリス、フランスに次ぐ位置まで高まっている(2)。また、堅調な経済成長によって、インド国内には購買意欲が旺盛な中間層が着実に増えている。研究者によって定義が異なるが、五千万人から三億人規模と言われている(3)。まだまだ若年層の割合の多いインドはこれから人口のボーナス期に突入する。本格的な経済成長が始まった時のインド経済のポテンシャルは計り知れない。
 インド経済の推移を理解するにあたって、中国経済の成長を横に置いてみるとそのインパクトをよりリアルに感じられる。二〇一七年のインドと日本の名目GDPは、インドが二兆六千二十億ドル、日本が四兆七千八百三十億ドル。日本とインドには約二倍の差がある。それを日本と中国のGDP比に照らしあわせてみよう。日本が中国の二倍ほどの経済力をもっていたのは、二〇〇六年。その後、二〇一〇年には中国のGDPが日本のGDPを追い抜き、今では、中国のGDPは日本の約三倍の規模まで成長している。インドの経済成長に関して、一部では向こう十年の間(二〇二八年まで)に日本経済を追い抜くという予想もなされている。もちろん、インドが中国と同じ経済成長プロセスを経るわけではないが、それでもインド経済が日本経済を追い抜く時代が、決して遠い未来の話ではないことが想像できるだろう。
 次にインドの文化発信力についても見てみよう。インドは文化の発信源として周辺国に対し常に影響を与え続けてきた国でもある。インド文化の影響について、古代インドで発祥しアジア全体に広まった仏教は言うまでもないが、近年の例で言えば、インド映画が挙げられる。インドのムンバイ(旧ボンベイ)で製作されている映画は、米国のハリウッドに対してボリウッドと呼ばれているが、そのボリウッドが世界中を魅了している。日本でも近年「きっとうまくいく(原題「3 Idiots」)」や「バーフバリ(原題「Bahubali」)」の大ヒットがあった。インドはムンバイ以外でも映画が製作されている。インド全体の年間映画製作本数は約二千本で、なんと米国の年間製作本数の約三倍にあたる。その年間観客動員数は約二億人で、これも米国の約二倍の規模を誇っている(4)
 こうしたインド文化の存在感は、南アジアにいるとよく分かる。たとえば南アジアの小国ブータンで制作されているブータン映画を例にとろう。登場シーンから、民族衣装「ゴ(男性)」と「キラ(女性)」を着た素朴な男女がダンスをしながら現れる。クルクル回転しながら木の陰に隠れる女性と、それを追いかける男性。まるでインド映画のノリだ。ブータンに限らず、インド発の映画コンテンツは南アジア(インド、バングラデシュ、ネパール、パキスタン、スリランカ、モルディブ、ブータン)を席卷しており、絶大な影響を与え続けている。映画以外にも、インドはヨガ、アーユルヴェーダなどインド固有の文化発信を積極的に行っている。近年の世界的ヨガブームを受けて、インド政府が六月二十一日を「国際ヨガの日」とし、全世界に呼び掛けているのも、そうしたインドによる文化発信の一例だ。
 またインドは、世界で活躍するグローバル人材の輩出でも突出している。いまやグーグル、マイクロソフト、ペプシコなどのトップグローバル企業のCEOにインド人が就任している。また、フォーブズによれば、資産十億ドル(約千八十九億円)以上を保有するビリオネア・リストに名を連ねるインド人の数は、二〇〇五年には三十六名、それが五年後には五十五名に増加、今では百名を超えている。インドは米国、中国、ドイツに次いで世界で四番目にビリオネアが多い。ちなみに、日本人のビリオネアは二〇一八年時点で世界十六位、五十名に達していない(5)
 もちろん、このことはインドの著しい経済格差を物語るものでもある。オックスファムによれば、インドは、富裕層上位のたった五十七人の総資産が下位七十%の総資産である二千百六十億ドル(約二十四兆五千二百四十六億円)に匹敵するとしている。これほど大きな貧困を国内に抱えるインドの舵取りは容易ではないはずだが、この点に関し、インドは世界最大の民主主義国家として、多くの国内問題を抱えながらも、十三億人国家の舵取りをしている。近年、民主主義政治の危機が叫ばれている中、インドが民主主義制度を維持している点は注目に値するだろう。インドの有権者数は八億千四百五十万人(6)。なお、インドの識字率は七十四・〇四%で、有権者の中には文字が読めない人も含まれる(7)。この問題を克服するため、インドの投票所では、政党名が文字ではなく政党のシンボルの絵(たとえば現政権のBJPは蓮の花の絵)で示されている。文字が読めなくても投票できるためのインドらしい工夫だ。
 また、英語人材にも目を向けてみよう。いまやグローバルに活躍する人材の必須条件ともなっている英語だが、インドには米国に次ぐ英語話者がいる。その数はおよそ一億二千万人。ちなみに、イギリスの英語話者が約六千万人なので、インドには元宗主国のイギリスの約二倍の英語話者がいることになる。
 最後に、インドはITエンジニアの数でも他を圧倒している。いまやシリコンバレーに多くのインド人ITエンジニアが集まっている。インドは年間の自然科学系学位取得者数が三十三万人で世界第一位。また、コンピュータ科学系の米国大学院への留学においても一万二千二百八十名と世界一位で、二位の中国の七千五百五十名の倍近い数字となっている(8)。こうした人材が、「フラット化された世界」でグローバルな表舞台にのし上がってくることは間違いない。

統計と体感によるアプローチ
 さて、このように多くの面で桁違いのインドを理解し、この国と付き合っていくにはどうしたらいいのか。そのためには、今までのイメージによるインド観を変える必要がある。私たちは驚くほど簡単に外国に対するイメージを固定化してしまっている。日本人のインド人に対するイメージが、今でもインドの人口一%強に過ぎないシク教徒(9)が巻くターバン姿なのは驚きだ。ちなみに、このイメージが定着した理由は、第一次世界大戦時、英領インドから送られたインド兵の中に体つきのがっしりした人が多いシク教徒が多かったからと一般には説明されている。
 しかし、その後何十年経った今でも、私たちのイメージはほとんど変わっていない。このように世間で語られるインドと生のインドの間には大きなズレがある。そして、多くの人が、イメージのインドと現実のインドとのズレに気付いていない。神秘の国、カオスの国、貧困の国、ITの国、カーストの国など、今も昔もインドについては様々なことが言われてきた。しかし、それらは「イメージのインド」に過ぎない。インドのイメージが強烈であればあるほど、それらが独り歩きしてしまって、「ありのままのインド」が見えなくなっている。その結果、私たちは「インド=よく分からない国」といった辺りで自分たちのインド理解を落ち着かせてしまっている。
 このインド観のズレを補正するために、これから「統計」と「体感」という二つのアプローチからインドの実態に迫ってみたい。統計から得られる客観的なデータに実体験から得られる知識を照らし合わせていき、インドの実態にピントを合わせていきたい。
 インドの経済成長、人口推移等のマクロな動きについては、今までにも多くの書籍が出版されており、最近はインターネットでもかなりの情報が収集できるようになった。こうした数字を改めて注視してみると、いろいろな事象を物語ってくれることがわかる。そして、時にこれらの数字が示すインドが、我々がイメージするインドとはほど遠い姿をしていることに気付かされる。
 こうした視点に、社会や文化やそこで暮らす人びとに目を向ける視点を加えていく。これは、インド社会の内側に入り込み、そこで暮らす人びとの喜びや葛藤を、自分の体験をつうじて見つめる視点とも言える。そういう距離感でインドと付き合うことで、日本にいるだけでは見えてこなかったインドの姿が見えてくる。
 私が勤める独立行政法人国際交流基金は、世界二十四カ国二十五拠点を構える、日本の国際文化交流を促進する唯一の公的機関である。国際交流基金は文化芸術交流、日本研究・知的交流、日本語教育支援という三つの活動の柱をもち、それらを組み合わせながら、各国の日本理解や国際文化交流を促進している。国際文化交流は、イメージとの葛藤なしに成し遂げることはできない。自分たちが手掛ける事業が単に人びとのイメージを助長するだけに過ぎないかが、現場では常に問われているからだ。
 私は、インドの大学院の修士課程で学んだのち、当基金のニューデリー日本文化センターにおいて日印文化交流に直に携わるという機会に恵まれた。留学や駐在生活を経て得た「生の体験」は、本で学んだ知識とはことなる、リアルな姿を見せてくれた。その地を歩いた者にしか分からない、その空気を吸った者にしか味わえないものが必ずある。例えるなら、デリーの雨が「天の恵み」に感じられるようになるには、摂氏四十六度になる酷暑をエアコンもない部屋で耐え忍ぶ必要があるといったようなものだ。自分の感覚を通じて得た知識は、その国の理解を助けてくれる。留学生としてインドで暮らし、その後、駐在員として暮らす中で得た視点が、今まで語られてこなかったインドの姿を見せてくれた。このように体験から得られる知識と統計から得られるデータとの間を行ったり来たりしながら、今まで語られることのなかったリアルなインド、ありのままのインドの姿を描き出していきたい。
 近年、日印の政治的・経済的重要性は今までにないほど高まり、日印両政府は特別グローバル・パートナーシップ(10)という枠組みを打ち出して関係強化に取り組んでいる。しかし、その中身はまだまだ十分とは言えない。今、日印両国が取り組むべきこと。それは、互いの苦悩さえも分かち合えるような血の通った交流だ。そのためには、自分たちが知らず識らずのうちにかけている色眼鏡を外し、相手の姿をそのまま見つめる視点がかならず必要となる。
 インド経済はここ十年足らずの間に大きく飛躍し、それに伴い社会が大きく変化している。そのように躍動するインドの姿を捉えていきたい。それは自分たちを見つめなおす鏡ともなるだろう。経済発展を達成し、世界有数の富める国になった日本だが、その過程で何かを失ってしまったと感じている人は少なくない。インドで暮らしていて、日本ではほとんど見られなくなった光景に何度も出会った。それは一台のバイクに一家全員が乗り込む姿であったり、物乞いにわずかな野菜を与える貧しい八百屋の姿であったり、感情を露わに怒鳴りあっている半裸の男たちの姿であったりした。こうした人と人がぶつかり合いながら懸命に生きようとしている社会から私たちは何を学ぶべきか。これから本書を通じて皆さんと一緒に考えていきたい。
 最後に、本書で述べることはすべて私個人の意見であり、私が勤める国際交流基金を代表するものではない点を予め断っておく。なお、本書で用いた統計については、主に二〇一一年のインド国勢調査と国際統計データの専門サイト、グローバル・ノートのデータを参照した。


(1) 二〇一一年インド人口統計(www.census2011.co.in
(2) Global Note(https://www.globalnote.jp/post-1409.html
(3) 『知的資産創造/二〇一六年七月号』(野村総合研究所(NRI))
(4) Global Note(https://globalnote.jp
(5) http://www.geniuslab.net/2018world/#country
(6) 二〇一九年に行われた総選挙において有権者数は九億人を超えた。
(7) 二〇一一年インド人口統計(www.census2011.co.in
(8) レインボー・チルドレン(http://rainbowchildren.holy.jp/archives/4342
(9) 二〇一一年インド人口統計(www.census2011.co.in
(10) 日印両首脳は日印特別グローバル・パートナーシップを行動指向のパートナーシップ「日印ヴィジョン2025 特別戦略的グローバル・パートナーシップ」に移行した。(平成二十七年十二月十二日外務省)http://www.mofa.go.jp/mofaj/s_sa/sw/in/page3_001508.html


*続きは田中洋二郎著『新インド入門——生活と統計からのアプローチ』でぜひお読みください。

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