【寄稿】「追悼 アンヌ・ヴィアゼムスキー」四方田犬彦
「追悼 アンヌ・ヴィアゼムスキー」四方田犬彦
アンヌ・ヴィアゼムスキーは2017年10月5日、パリの病院で70歳の生涯を閉じた。『中国女』の撮影から、ちょうど半世紀後のことだった。
死の直前に彼女は、自分の2冊の回想記── Une Année studieuse(『彼女のひたむきな十二カ月』、DU BOOKS) とUn An après ──が、とうとう映画化されたと知った。かつて大学生だった自分がゴダールから求婚され、五月革命の興奮冷めやらぬパリ、映画女優として波乱万丈に生きたという実録物語である。すでに身は癌に蝕まれていたが、彼女は満身の力を振り絞って試写会室に向かった。若き日のゴダールを演じている男優には、見覚えがあった。ゴダールと別れた後、どこにも行き場のなくなった自分を救い上げ、『秘密の子供』で主演させてくれたフィリップ・ガレルの息子だった。
わたしは今、晩秋の夜ごとに雨の降るパリにいて、問題のフィルムを見てきたばかりだ。困ったなあ、これ、ちょっと違うんじゃない……というのが、わたしの感想である。恋物語はいいが、背景の政治文化闘争が煤(くす)んでみえる。ヴィアゼムスキー本人はどう思ったのだろう。自分が映画革命の偶像(イコン)として君臨した数年間が、神話として後世に記憶されることに、誇りを感じていたはずである。
アンヌ・ヴィアゼムスキーは17歳のときブレッソンに発見され、その後、ゴダール、パゾリーニ、フェレーリ、ガレルの作品に出演した。毛沢東主義の女子大生から、夢見るブルジョワ娘、70年代でもっとも貧しく悲惨な恋人までを、演じた。これほど監督に恵まれた女優というのも、映画史では珍しい。だが齢40になったとき、彼女は映画女優である自分にすっかり興味を失ってしまった。代わりに台頭してきたのが、幼少時からの情熱であった文学である。何を隠そう、彼女はフランスを代表するカトリック作家フランソワ・モーリアックの、直系の孫娘であった。Une Poignée de gens(ひとにぎりの人々)やMon enfant de Berlin(ベルリンの子供)といった、彼女の遠い出自であるロシア、生地であるベルリンに材を得た小説が、日本でも翻訳されるといいと思う。
アンヌ・ヴィアゼムスキーとは、7年前に来日したとき、対談したことがあった。その後、「ウラガスミ」が呑みたいというので、白水社の鈴木美登里さんと3人で、月島の居酒屋へと繰り出した。彼女は上機嫌で、店主にむかって「ウラガスミ」を連発した。どうやら日本酒一般をそう呼ぶものだと、思い込んでいたようだ。愉しい夜だった。ただひとつ、気になることをいった。ゴダールをいまはどう思うと訊ねたら、ジャン= リュックは天才だけど、結局はculture のない人だったわねえと答えたのだ。モーリアックの孫にしていいえた言葉ということなのか。ともあれ、あんな愉しい夜が二度とないかと思うと、彼女の冥福を祈りたくなる。
(よもた・いぬひこ/映画史・比較文学)
◇初出=『ふらんす』2017年12月号