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特集「Mai 68 革命か、危機か?」

『ふらんす』2018年5月号から、特集の一部をご紹介します。

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1968年5月、当時のドゴール体制のみならず、フランス社会全体を揺るがした、
一連の学生と労働者の激しい抗議運動。
事件、革命、危機など、さまざまに呼ばれる「Mai 68」を特集します。

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[インタビュー]
鈴木道彦「政治の季節」
聞き手:澤田直

そもそもの発端、「3月22日運動」

澤田:1968年、パリの学生運動に端を発し、やがてフランス全土に広がり1000万人もの学生・労働者を巻き込んで展開した一連の闘争を、フランスでは「Mai 68(1968年5月)」と呼んでいます。日本では「五月革命」あるいは「五月危機」と呼ばれるこの出来事から、今年でちょうど50年が経ちますが、道彦先生はこの時期パリにいらっしゃって、「事件」の経緯をかなり近いところで目撃・観察・参加されました。そのお話を聞かせていただけますか?

鈴木:〈五月〉は決して不意に始まったわけではなく、その芽は以前からありました。具体的な起点はまず、「3月22日運動」です。ヴェトナム反戦運動に参加した若者数名が検挙され、そのなかにパリ大学ナンテール分校の生徒が含まれていたことから、学生のダニエル・コーン=ベンディットの呼びかけで抗議集会が行われ、ナンテール校の一部が彼らに占拠されました。それが3月22日です。このグループは、実は1年余り前から大学の教育そのものをラディカルに批判する運動を続けていて、ナンテール分校は常に緊張状態にあったのです。その後、リーダーたちの処分などで混乱は長期化します。ついに5月3日にグラパン学部長はナンテールを閉鎖し、それに抗議してソルボンヌで集会が開かれる。抗議活動がカルチエ・ラタンに移ったわけです。ナンテール校は、もともとソルボンヌに収まりきらない学生たちを収容するため、郊外の貧窮地に作られた新校舎です。僕はその年の4月から1920 ~ 30年代のシュールレアリスムの潮流について調査するため、パリに1年間滞在することになっていましたが、到着してまもなく「3月22日運動」のことを知り、すぐに関係者に取材しました。そこで、コーン=ベンディットとともに中心的な存在だったある女子学生と親しくなり、彼女からその後もさまざまな情報を得るようになります。

澤田:彼らは先生からしたら、ずいぶん年下の世代ですが、そもそも「3月22日運動」についても、どういうところから関心を持たれたんですか?

鈴木:彼らとは20歳くらい差がありますね(笑)。でも僕は上でも下でもあまり年齢の違いは気になりませんし、日本人は概して若く見られますから、向こうにとってもあまり違和感はなかったんだと思います。フランスに行く直前、日本でアメリカ脱走兵の問題が起きたとき、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の要請で引っ張りだされて、脱走兵援助の「イントレピッド四人の会」の責任者を務め、講演などもしましたが、フランスのジャン・コントネーというジャーナリストが講演後に大学の研究室に訪ねてきて取材を受けました。彼はフィリップ・ギャヴィというペンネームでサルトルと鼎談なども出版している人物です。フランスに着いてからは、まず彼を通してさまざまな情報が自然に入ってきました。


鈴木道彦氏

 


学生デモからゼネストへ

澤田:実際に学生デモにも行かれたのですか?

鈴木:ええ。多少野次馬的なところもありましたが。当時はドゴール体制で、閉鎖的なフランス社会に対する彼ら学生の破壊力はすごいと思いました。彼らは体制全体に異議を申し立てていましたし、それが路上ではバリケードになったのですが、そもそも体制全体を否定しなければ小さな改革も獲得できないことを、彼らの明敏な部分はよく心得ていたのです。いずれにせよ、二月革命、パリ・コミューン、またパリ解放の民衆蜂起にいたるまで、フランスの歴史はバリケードによって作られたと言っても過言ではありません。パリの石畳の舗石は、いとも簡単にはがせるんですね。それであっという間にバリケードが出来上がる。実に手際のよいものだと感心しました。5月10日のデモとバリケード造りもごく近くで見ていましたが、11日未明の機動隊による激しい弾圧は、深夜になって僕の帰宅した後の出来事でした。

澤田:11日の警察による「暴力」が、13日の大規模なゼネストの引き金にもなったと言われています。

鈴木:当時の世論はかなり学生に同情的でしたが、共産党だけは学生の運動を酷評して、日刊紙『リュマニテ』も厳しく非難する論調でした。それが一般の下部労働者にはきわめて不評で、それをなだめるために、CGT(共産党系組合)はCFDT(フランス民主主義労働同盟)と共同で5月13日をゼネストの日として、労働者と学生のデモを組織したのです。数十万と言われたこの日のデモには、僕もフランス人の友人とともに参加して、レピュブリック広場からカルチエ・ラタンを経て、ダンフェール・ロシュローまで歩きました。フランスのゼネストは、普通ならこのCGT の指令なしには成り立ちません。ところが皮肉なことに、13日のゼネストとデモが学生と労働者を結びつける役割を果たしたんです。単に学生たちだけの運動だったら、これほどの衝撃はなかったでしょう。その日から下部労働者たちはあちこちで指令もなしに勝手に工場を占拠してストライキを始め、この動きが数日のうちに全国に広がったのです。この情勢は、じじつ「革命的」と言えるものでした。メトロも、バスもとまり、郵便配達もなくなる。新聞やタバコも買えなくなり、銀行も開いていないからお金もなくなる。ゴミの収集もなくなり、街にゴミが溢れ悪臭を放つ。労組のゼネスト指令なしのゼネスト、この不自由さ、この無政府状態には、言い知れない「自由」がありました。しかし、労働者の大部分は、あれだけの規模のストにはまったく見合わない多少の賃上げと、いくぶんかの組合活動の拡大、労働時間の短縮で満足し、ストを解除したのです。会社側からの相当な圧力もあり、またストの「政治化」を極端に恐れたCGT の指導部からブレーキもかけられていたのです。そして、やがて運動も終息していきます。

[…]


澤田直氏

 

(続きは『ふらんす』2018年5月号をご覧ください)

(すずき・みちひこ/獨協大学名誉教授。著書『余白の声』、訳書プルースト『失われた時を求めて』、サルトル『嘔吐』)

(さわだ・なお/立教大学教授。著書『ジャン=リュック・ナンシー』、訳書ナンシー『自由の経験』、サルトル『言葉』)

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「フランス映画と〈五月〉」
四方田犬彦

 1968 年の世界を京劇に喩(たと)えてみると、パリは「生(せい)」(二枚目)で、東京が「旦(たん)」(女形)。ワシントンとモスクワが「浄(じょう)」(悪役)。北京は「丑(ちゅう)」(道化)となる。わたしにそう語ったのは、上海出身の日本文学者、張競(ちょうきょう)である。う~む、これは相当に辛辣な評価だなあ。

 舞台の上で喚(わめ)き散らしているのは、怖ろしい隈取(くまどり)をした二人の悪党。二枚目は両方に言い寄ろうとする。その側(そば)で女形が悪役に媚びつつ、二枚目にも色目を使っている。ひどく離れたところで道化が一人、物語の進行と無関係に、不毛な喜劇に興じている。いずれにしても、舞台がひどく騒がしかったことは事実だ。狂騒は1972年ごろまで続き、その後は陰気で憂鬱な停滞に入った。「鉛の時代」が始まったのだ。

 映画はどうだっただろう。カンヌやヴェネツィアといった国際映画祭は、その権威ゆえに、次々と中止に追い込まれた。草月アートフェスティヴァルも中止に追い込まれた。いたるところで「造反有理」が叫ばれていたのだ。

 アメリカではいわゆる「ニューシネマ」が誕生した。ヴェトナム戦争から先住民虐殺まで、アメリカ社会の矛盾と歴史の汚点を積極的に描こうとする傾向のフィルムである。ドイツでも同様に、戦後の冷戦体制に疑義を向け、社会の周縁に生きる者たちに照明を投じる「ノイエヴァーレ」が出現した。クルーゲやストローブ/ユイレといった監督たちだ。日本はアクション映画と任俠映画の王国であったが、その隙間から吉田喜重、大島渚、松本俊夫といった、実験的な作風と主題をもった監督が輩出した。イタリアではパゾリーニが健闘。その弟子筋にあたるベロッキオやベルトルッチがデビューの機会を狙っていた。

 おっと、これは『ふらんす』という雑誌だ。フランス映画の話をしなければならない。

 今、手元に50年前の『カイエ・デュ・シネマ』のバックナンバーがある(よくもまあ、そんなものを捨てずに保存していたものだと、我ながら呆れ返るが)。これをズラッと眺めてみると、〈五月〉の前後でパリの映画状況がどのように変化していったかがよくわかる。

 1968年3月号では、シネマテックの館長を突然に解任された創設者アンリ・ラングロワをめぐって、2月16日に開かれた記者会見の報告がなされている。ジャン・ルノワール御大を始め、ゴダール、シャブロルといったヌーヴェルヴァーグの面々、さらにジャン・ルーシュまでが解任処置の撤回を求め、彼らの発言のあとにズラリと賛同者の名前が続いている。4 / 5月合併号では長老アベル・ガンスが登場。ラングロワ事件の追跡記事が続き、「映画と国家」をめぐるアンケートが掲載されている。

 ここまではまあ、いささか先鋭的な映画雑誌という感じなのだが、〈五月〉にはこの『カイエ』の周辺の映画人が大挙してカンヌに押しかけ、ついに国際映画祭を中止してしまう。もっとも過激に動いたのはトリュフォーであった。さすがに雑誌の方も、パリという都市の機能が全面的に停止したこともあって、刊行できなくなる。

[…]

(続きは『ふらんす』2018年5月号をご覧ください)

(よもた・いぬひこ/映画史・比較文学。著書『映画史への招待』『ルイス・ブニュエル』、編著『1968』全3 巻)

『ふらんす』2018年5月号では、鈴木道彦さんインタビュー(聞き手:澤田直さん)の全文、四方田犬彦さんの寄稿の全文のほか、「壁は語る」(編集部)も掲載しています。ぜひご覧ください。

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