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倉方健作「にわとり語学書クロニクル」

第11回 単語集

 フランス語を読み、書き、話すにはどれくらいの単語が必要なのだろうか。Petit Robert の収録語数は約 60,000 語だが、一般的なフランス人が日常で使用するのはそのうち 3,000 語という。300 語あれば生活はどうにかなる、という頼もしい言葉もどこかで目にした。だが、最低限のサヴァイヴァルを目指すのか、それとも辞書なしでプルーストを読むつもりなのか、目標が異なればおのずと必要な単語数は違い、それだけに「単語集」は、対象レヴェルも編集方針もさまざまである。

 現行の単語集に目を向けると、清岡智比古『フラ語ボキャブラ、単語王とはおこがましい!〈改訂版〉』(2011)にはさまざまな工夫がこらされている。収録語の「使える」1,511 語はテーマ別に分類されており、2006 年刊行の旧版にはなかった 2 枚組の CD が付いたことで、発音や印象的な例文が記憶に残りやすくなった。


『フラ語ボキャブラ、単語王とはおこがましい!(改訂版)』


 こうした「最新型」に至るまでの歴史を確認してみれば、白水社最初の単語集は、徳尾俊彦『仏蘭西常用五千語』(1929)にさかのぼる。収録語は「季節、月、週」「食事」「法律」などテーマ別に分類されており、当時の広告はその利点を力説する。「あらゆる品詞の、すべてが、容易に記憶さるべく、劃然(かくぜん)とその部署に就いてゐる。そして、動詞がこだまのやうに名詞を呼べば、形容詞は稲妻のやうに副詞を作る」。セルロイド製「暗記用しおり」と「新語書込用紙」を付録とした単語集は好評をもって迎えられ、戦後まで続くロングセラーとなった。『仏蘭西常用五千語』の翌年には、山田原実『仏蘭西単語の合理的暗記法』(1930)が刊行された。収録語数はほぼ同じだが構成はまったく異なり、接頭辞、接尾辞の解説から、語源に基づいた単語の整理へと進んでいる。このほか戦前の白水社からは、山本直文『標準フランス単語カード』(1936)も出版されている。名刺整理ボックスのような外箱に収められた 1,380 のカードのそれぞれに基本単語とその派生語がフランス語で印刷されており、裏返すと日本語訳が書かれている。これを用いれば約 8,000 語が覚えられる、という触れ込みであった。

 これらを単語集のパイオニアとすれば、朝倉季雄『朝倉フランス基本単語集』(1959)の編集方針はまさに画期的である。「基本単語をどうやって決めるかというのに、従来の単語集は著者がその経験でこれを決定していたようですが、これは科学的な選定法とは言えません」と著者は「まえがき」で断じ、統計資料をはじめとする「科学的調査」を最大限に利用して収録語を選定した。加えて、一般的な書物にあらわれる単語の約 90 パーセントを「基本単語」が占めるといった事実も説得的に示されており、「従って、本書は私が参照した文献の科学性をそのまま保持している、と言うことができます」という著者の誇らしい宣言は、学習者の胸に心強く響いたことだろう。アルファベ順に 2,400 語を収録した単語集は語学書の定番として数世代にわたって愛用されることとなった。刊行から約 30 年を経た 1988 年に 2 色刷の「新版」となり、別売のカセットテープも制作された。最近でも 2010 年に「語学の基本図書」の 1 冊として装いを新たにし、3 枚組の CD も発売されていたが、どちらも現在は白水社のカタログに掲載されていないようだ。


『朝倉フランス基本単語集』

 比較してみると面白いのは、ジョルジュ・マトレ著、野村二郎・滑川明彦訳『フランス基本語辞典』(1969)である。これは 1963 年にフランスで刊行されたDictionnaire du Vocabulaire essentiel を翻訳したものだが、原著者が「序」で語るところによれば、収録語の選定にあたっては「教養あるフランス人の言語意識、および、私たちフランス語教師が実地の教授を通じて得た教育経験に照らすほうが望ましいと思われた」として、「科学的」手法が排除されている。具体的には Petit Larousse illustré の収録語から選別を繰り返して「基本語」を決定したという。

 私自身は、大学院を受験するときに『フランス基本語辞典』を単語集として利用した。同書の「訳編者の言葉」には「日本版使用者は、この辞典を単なる字を引く辞典として愛用されるばかりでなく、暗記用として見出し語・語義・文例をともどもに記憶されるようお勧めしたい」とあり、あながち間違った使い方ではなかったようだ。pamplemousse の訳語が「ざぼん」であるなど、訳語の古さに用心しつつページを繰ったが、収録語のいくつかには、これは本当に「基本語」だろうか、という疑問も抱いた。torpiller「魚雷で攻撃(撃沈)する」という単語などは、大学院の入試には当然出なかったし、その後も出会った記憶がほとんどない。いま手元の『プチ・ロワイヤル仏和辞典 第4版』(旺文社、2010)を見ると、torpiller の重要度は収録語の 5 段階中 5 番目で、収録語の上位 12,000 語に入っていない。編者の経験に基づく選定はもとより、「科学的」統計調査であっても時期やコーパス次第で、「基本語」の定義はずいぶん異なるのだろう。

 いまだに新しい辞書や単語集を目にすると、torpiller のことが気になって真っ先に調べてしまう。書いたり発音したりすることはまずないにも拘らず、常に意識のどこかにあり、もはや私にとっても「基本語」となった。1 冊の単語集を愚直に読み通したお陰である。

◇初出=『ふらんす』2017年2月号

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著者略歴

  1. 倉方健作(くらかた・けんさく)

    東京理科大学他講師。19世紀仏文学。著書『カリカチュアでよむ19世紀末フランス人物事典』(共著)

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