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「越境する日本人 ~海外移住する日本人から読み解く、生き方・働き方・育て方~」後藤愛

第6回 ワクワクを大事に、生き方を自ら創る

20代、社長として社会人生活をスタート

 マリエさんは、大学中退後、劇団の座長として活動したが、いつもお金がなかった。周りにいた俳優たちも同じで、アルバイトをして演劇の夢を追おうとしても、演劇の仕事が不定期であるために直前の欠勤が重なりすぐ首になってしまう。経済的な理由で夢をあきらめていく人たちをたくさん目にして悶々としたことが、ビジネスアイディアにつながった。
 俳優たちを支えるビジネスをしたいと考え、当時は今のようにインターネットに情報があふれる前の時代だったため、ホリエモンの本を見ながら自力で事業計画書を作り、人づてに出資してくれる人を見つけ、俳優専門の人材派遣業を23歳で開業した。
 人材派遣業は免許制のため、既存の派遣会社を買収する形でスタート。社員5人は20-30代の年上ばかりだった。創業1年で約1000人の俳優、ミュージシャン、モデルなどの駆け出しの人たちが登録し、夢はあるがお金はない役者の卵たちが、互いの人材派遣先のシフトを埋めあって助け合う形で繁盛した。マリエさん本人は、自分より演じることに長けた人はたくさんいると感じ、役者としてではなくむしろ演劇に関わる人たちがエコシステムとしてうまく回るような環境づくりに徹した。
 26歳の時、経営方針の違いから、もう一度独立する形で二度目の創業を行い、現在も続くマリエ・エンタープライズ株式会社を設立。27歳でプロダクション、28歳で撮影スタジオを巣鴨にオープンして、経営を多角化。俳優の育成から、舞台のプロデュースも手掛けた。会社を大きくし、六本木に撮影や稽古場としてのスタジオをオープンし、やりがいと成功を手にした。
 実家が会社経営をしていたわけではない。それでも、ビジネスと経営の勘所は、前世から持ってきたのかもしれないと思うほど、マリエさんの肌に合っていた。退路を断つべく大学を自ら中退したあの日から、怖くても前に進むことだけを考えて行動し、自分で道を切り拓いてきた結果だった。

結婚、出産、仕事

 仕事も順調だった30代半ば、テレビでたまたま刀鍛冶職人のドキュメンタリーを見ていた。熟練の技で刀を創る職人が言った。「強い刀は、成分の純度が高いものではなく、むしろ異物と混合しているものだ」と。この話が、マリエさんの頭の中で、突如つながった。「人間の遺伝子もそうかもしれないとピンと来てしまいました。そして閃くような感じで、子どもをもち、育てたいと思ったんです」。自分を突き動かす興味にまた火が付いた瞬間だった。
 そのころ、クリエイティブで頭が切れる尊敬できる男性がいた。業界では名の知られた放送作家で、10歳以上年上の頼もしい存在だった。付き合いを経て、34歳で結婚することになった。
 2016年、娘を計画無痛分娩で出産。子育てでは、「天上天下、唯我独尊」の言葉を、「他者との比較ではなくオンリーワンの存在として、あらゆる人が存在している」という意味に捉え直し、子どもの名づけの由来にした。
 2017年、娘さんが生まれた翌年。子どもの教育について考えたとき、疑問が頭をもたげた。このまま日本にいていいんだろうか? 自分が子どものころ感じたような息苦しさを感じてしまうのではないか? 仕事でも業界の様々なしがらみから、20代のようにのびのびと事業を形にするのが難しいと、もどかしさを感じていた。


マリエさんと娘さん、東京に在住のころ(マリエさん提供)

 海外に暮らすという選択肢を思い立ち、ハワイやマレーシアなど候補地を視察し、現地での直接の印象を大切にして、マレーシアへの移住を決定した。マリエさんは自分のビジネスをマレーシアから遠隔で実施し、多くの番組製作に携わる夫は日本に残り自身の会社を経営し続けるという選択に至った。この決断を実行に移すために、マリエさんは仕事が海外から遠隔でも回せるよう数年をかけて調整していった。

マレーシアでの子育て、多様性

「娘は、今、大変のびのびして、マレーシアも気に入っています」

 日本にいた3歳のころから、1日の終わりに自分に起こったことをシェアリングして1時間ほど話しあっている。親子で一緒に言語化し、子どもが自分自身を理解する手段にしている。とはいえ、子育ての最初は大きな戸惑いもあった。「出産前から、もちろん子育ては大変だと聞いていたので、いろいろと準備をしていました。大量の新しく不慣れなタスクをこなすイメージでした。ところが、実際には、娘の誕生は、タスクをこなす作業ではなかったですね。人としてのあり方を問われ、世界の見え方が変わり、これまでにない重責を引き受けるという、根本的に自分の転換を迫られる出来事でした」。この転換を前向きな生き方の転換につなげて、これまで歩みを進めてきた。
 「一方で、仕事へのプラスの影響も計り知れません。子どもの相手をしていても、子育て本を読んでいても、これは仕事に生かせそうだなとかヒントをもらうこともよくあって、いい循環になっていると感じます。娘は、自分とは違う人格をもったひとりの人間だと捉えています。我が強い感じですが、カオス(混沌)や、変化を楽しむ性格のようです。マレーシアに引っ越して2年弱ですが、すでに『次はどこ行くー?』と楽しそうに話してます」。娘さんの存在と、その前向きな性格が、新たな日々に静かな確信をもたらしてくれているようだ。親子で参加する学校行事などもあり、「マレーシアに来て、子どもとの関係は、より濃密になりました」と子育て環境には満足している。
 マレーシアに来たからこそ気づけた視点がある。「それまで、文字だけで見ていた多様性や、多民族国家というものを実感する日々です。日本には八百万の神々がたくさんいる多神教の考え方で、そのうえで大変世俗化していて、日常的には宗教を意識しないことが多いですよね。マレーシアでは、宗教が、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、キリスト教と分かれていて、誰がどの宗教を信仰しているのかがはっきりしています。生活のあらゆる場面に宗教が根付いています。日本では、人と違うことへの圧力があるけれど、マレーシアでは、逆に人と違うことが当たり前の大前提です。好奇心を掻き立てられ、日本人のアイデンティティをみつめなおす場面が多いです」。


マレーシア国立モスク(Masjid Negara)にある、その日のお祈りの時間と、日の出と日没の時間を表示する時計。礼拝時間は太陽の動きによるので毎日少しずつ移り変わる。1日5回の礼拝が義務であるムスリムの生活を刻む(マリエさん撮影)

 同時に、日本人の素晴らしさにもあらためて気づいたという。精神性の高さ、日本文化の奥深さ、美しさ、歴史や国民性の深さだ。「第二次世界大戦後の教育によって、欧米至上主義やコンプレックスを植え付けられているとも感じました。日本の皆さんには、『ぜひ海外に行くべし』と言いたいです。外から日本を見ることには、とても価値があります」。
 こうした新しい視点を楽しめることが、変化に富んだ海外暮らしを成功させる要なのだろう。
 マリエさんにとって海外移住への気持ち的なハードルは、意外なほど湧かなかったというが、一方で、日本でモヤモヤしている人には、「タイミングは人それぞれ。急げばいいとも思わないです。じっくり考えて不安をつぶしていきたい人もいると思う。時間をかけて、自分自身の価値観を深めて、決める。そのうえで不安を1個1個つぶしていけばいいんですよ」と優しくエールを送る。マリエさんも海外暮らしへのぼんやりとした思いから、実際の実現までには、10年近くの隔たりがあった。こうした、人に知られずじっくり考えを煮詰めて「秘める時間」は、新たな行動を起こすときに必要なのかもしれない。

これから

 これからについては、「年齢的に、ちょうど人生の折り返し。まだまだ、理想を追求してゆきたいです」「文化、アート、エンターテイメントという自分が関わってきたことで、日本が持っているコンテンツを、世界へつなげる活動をしてゆきたいです。マレーシアでも、アニメの舞台化など、手掛けてゆきたいです」と前向きだ。
 「夫は、日本で猛烈に仕事をしていた現役の放送作家でした。3月に自宅で制作中に脳出血で急逝しました。急いで帰国しましたが、立ち会うことはできませんでした。驚きと悲しみと後悔と、さまざまな感情が入り交じり、受け止めるにはあまりにも大きすぎるできごとでした。その時やるべきことに対処してゆくばかりで、自分事として正面から向き合う勇気もなく、うまく涙を流すことすらできませんでした。」
 「そんなとき、『日本人は、感情を表に出さず、我慢する文化があるでしょう。悲しいのは人として当たり前だから、我慢しないで』と優しい言葉をかけてくれたのは、イラン人の尊敬する友人でした」。言葉や文化や出身地が違う友人に出会えたのも、マレーシアだった。文化や国籍を超えた友情もいつの間にか育まれていた。
 マリエさんは現在、これまで培ってきた経験と実績を活かし、マレーシアとアジア近隣諸国での新規ビジネス立ち上げの準備を行っている。マリエさんの仕事を紹介するパンフレットには、「本当の豊かさとは何かを追求していきたい」とある。「住む場所については、しばらくはマレーシアですが、この先自分の考えで拠点を増やしたり変えたりするライフスタイルが理想です。まだどのようにするかはこれから考えてゆきます」
 世界は今後ますます混とんとしてゆくという未来予想だ。手探りで、皆がそれぞれの正解を探してゆく。その時の一つの道しるべが、「ワクワク」することを基盤にしながら、現実的な作戦を立てるような生き方だ。そして、こうしたワクワクを思い出させてくれる存在が、子どもであり、子育てなのだともいう。
 マリエさんは、「これから私の次のステージにどんなことが起こるのか、本当に面白いんです」と、どこまでも力強く、自立している。自分で決めて、自分で責任を取る。その根底にあるのは、ワクワク。この潔さが、これまでもこれからも彼女を前に進める原動力であることは間違いない。

ノアの箱舟?

 最後に、「愛さんの出版企画は、ノアの箱舟への招待状のようだと思うんです。新しい居場所や生きる場所を求めている人に、気づくきっかけを示し、行動へと背中を押すことを応援しています」と言葉をかけてくれた。
 戦争や感染症や予想しない事態が起こり続けるこの世界で、私たちは、自分が信じる選択をして生きている。人によって選択肢の幅に違いはあれど、生きたい道を定め、現実的な戦略を立て、行動することで、生き方は自ら創れるのだとマリエさんの歩みが教えてくれた。未来のある生き方を目指して、私たちは自分なりのアクションを取る。一人ひとり人生の選択の連鎖が、少しでもよりよい生き方になり、それが総体としてよりよい社会につながると信じながら。

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著者略歴

  1. 後藤愛(ごとう・あい)

    1980年生まれ。一橋大学法学部(国際関係論専攻)を卒業後、2003年独立行政法人国際交流基金に入職。2008年フルブライト奨学生としてハーバード大学教育大学院教育学修士号(Ed.M。国際教育政策専攻)取得。2012年から2017年同基金ジャカルタ日本文化センター(インドネシア)に駐在し、東南アジア域内と日本との文化交流事業に携わる。2021年同基金を退職し、現在マレーシアでCHANGEマイクログラント(https://changemicrogrant.org/)活動に携わる。家族は夫と子ども3人。

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