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根井雅弘「英語原典で読む経済学史」

第2回 アダム・スミス(1)

 アダム・スミス(1723-90)は、しばしば、「経済学の父」と呼ばれています。彼の著書『国富論』(1776年)は、カール・マルクスの『資本論』やJ.M.ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』とともに、経済学の三大古典といってよいほど有名なので、スミスのことはほとんど何も知らなくても、『国富論』やその中に出てくる「見えざる手」という言葉くらいは聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。
 スミスは18世紀のスコットランドに生まれているので、彼が書いた英文は、当然ながら、現代のものよりもやや古い感じを与えます。もうずいぶん前、経営管理や組織論を研究していた教授と話す機会がありましたが、経済学史の話になったとき、唐突に「スミスの英文は読めたものではない」とはき捨てるように言われたので、ちょっと驚いたことがありました。学生時代にスミスの『国富論』を原典で読まされた授業が面白くなかったのか、古風な英文には反感をもっておられるようでした。
 たしかに、亡くなって200年以上も経つ遠い国の人が書いた英文なので、今日私たちがインターネット上で読んでいるニュースの英文よりは硬くて古臭い感じがするのは否めません。しかし、ギリシャ語やラテン語で書かれているわけではないので、全く意味不明の英文ではないどころか、読み込むほどに味わいのあるよい文章ではないでしょうか。もちろん、人には好みがあるので、単純な一般化はできませんが、スミス、デイヴィッド・リカード、そしてジョン・スチュアート・ミルと継承されてきた古典派経済学の大物の文章は、多少の癖はあっても、きわめて明快のように思えます。

 さて、スミスの『国富論』ですが、やはり有名な冒頭の文章から読んでみましょう

1 スミスの『国富論』も、もちろん、前回紹介したウェッブサイトで読むことができます。
http://oll.libertyfund.org/titles/smith-an-inquiry-into-the-nature-and-causes-of-the-wealth-of-nations-cannan-ed-vol-1

http://oll.libertyfund.org/titles/smith-an-inquiry-into-the-nature-and-causes-of-the-wealth-of-nations-cannan-ed-vol-2
 『国富論』は、キャナン版(1904年)が上がっています。

The annual labour of every nation is the fund which originally supplies it with all the necessaries and conveniencies of life which it annually consumes, and which consist always either in the immediate produce of that labour, or in what is purchased with that produce from other nations.


 比較的簡単に読めそうですが、文章自体は長めです。欧米人は、この英文を読むとき、どのように頭を働かせるでしょうか。最初の文章The annual labour of every nation is the fundが最も強く訴えかけることは間違いありません。冒頭の文章なのに、fundにはtheまでついています。「すべての国民の年々の労働こそがまさに根源的な基金なのだ」と。もし「基金」がお金と誤解されるというなら、「真の源」でもよいかもしれません。その後に出てくるwhichは、そのfundの意味を説明しています。which以下を先に訳すのが高校までの英文法で教わったことであり、私は、この場合はそれでも意味不明にはならないのでよいと思っています。しかし、後ろのほうから先に訳すと、訴えかけるメッセージとしてはやや弱くなるのは否めません。
 ふつう、これだけwhichが多いと、まず文章を切るのが翻訳の定石とみなされています(安西徹雄『翻訳英文法』バベル・プレス、新装版2008年参照)。その場合、適当に接続詞を補ったほうがよいとも指摘されています。試しに、the fund; fot it originally suppliesと読み込んでみましょう。どのような訳になるでしょうか。

 「すべての国民の年々の労働こそがまさに根源的な基金なのである。というのは、それがその国民が年々消費する生活の必需品と便益品のすべてを本来その国民に供給しているからである。そして、そのような必需品や便益品を構成しているのは、つねに、その労働の直接の生産物か、その生産物で他の国民から購入されたものである。」

 私はこの試訳が既存の訳よりよいとは思っておりません。ただ、何度も繰り返すように、私が関心のあるのは、あの英文を読まされた欧米人がどのようにメッセージを受けとるかということです。もし初めの文章が頭に入らなければ、たちまち理解不能に陥ることはいうまでもありません。このように語順に着目するという方法は、もうずいぶん前(たぶん中学生の頃)、本屋さんで見つけてきた『翻訳の技術』(中村保男著、中公新書、1973年)を読んで以来、いつも私の頭のどこかにあったように思います。

 ところで、スミスが『国富論』の冒頭になぜあのような文章をもってきたかといえば、それは、「富」とは何かという問題に対して、スミス以前の「重商主義」の思想家たちがそれを「貴金属」と同一視していることを批判したかったからでした。そうではなくて、富とは、国民の労働によって生産される「必需品と便益品」(換言すれば、「消費財」のこと)なのだとスミスは主張したかったのです。スミスは、『国富論』のほとんど全編を通じて、重商主義の批判を展開しているといってよいほど、その思想と政策を目の敵にしています。
 もちろん、重商主義の思想をあまりにも矮小化したり過小評価したりすることは慎まなければなりません(例えば、竹本洋『経済学体系の創成――ジェイムズ・ステュアート研究』名古屋大学出版会、1995年を参照)。しかし、スミスは、重商主義をあれほど批判しながら、反面、「農業のみが純生産物を生み出す」という主張で有名な「重農主義」(「フィジオクラシー」=「自然の支配」の訳語としては不正確ですが、わが国では重農主義という言葉が根づいているので、ここでもそれを使います。その指導者は、外科医としてヴェルサイユ宮殿の中二階に住んでいたフランソワ・ケネーでした)に対しては極めて寛大な評価を下しています。
 ケネーの『経済表』(1758年)は、ひとつの表のなかに、モノと貨幣が「生産階級」「地主階級」「不生産階級」のあいだをどのように循環し、再生産がおこなわれるのか、その客観的な法則を追究した真の天才の作品ですが、スミスは、農業のみが生産的だという重農主義者の主張を狭い見方であるとして退けながらも、ケネーの重農主義が「経済科学」の真理に一番近づいたものだと高く評価しています。
 私は、いまでも、経済学史上「天才」という言葉がぴったり当てはまるのはケネー以外にないと思っている一人ですが、世の中での人気は、ケネーよりもスミスのほうが高いようです。スミスはフランス滞在中にケネーに実際に会ったことがあり、その学識に深い感銘を受けました。スミスが、重農主義の欠点を突きながらも、その学説に寛大な評価を下しているゆえんです。そのような事情を念頭に置きつつ、次の文章をよんでみましょう。

Though in representing the labour which is employed upon land as the only productive labour, the notions which it inculcates are perhaps too narrow and confined; yet in representing the wealth of nations as consisting, not in the unconsumable riches of money, but in the consumable goods annually reproduced by the labour of the society; and in representing perfect liberty as the only effectual expedient for rendering this annual reproduction the greatest possible, its doctrine seems to be in every respect as just as it is generous and liberal.


 長めの文章ですが、論理的に続いています。「土地で使用される労働が唯一の生産的労働であると述べた点で、その学説が説き聞かせた見解は、おそらくあまりにも狭く限定されたものだったとけれども」と。
 英文にはときに;(セミコロン)が出てきますが、たいていの場合、はっきり意味がわかるように言葉を補ったほうがよいと思います。ここにはyetとあるので簡単ですが、セミコロンがあるだけの場合もあり、そのときは、and,or,but,soなどを補わないと明快な訳にならないものです。それゆえ、「それにもかかわらず、諸国民の富を構成しているのが、貨幣という消費しえない財産ではなく、その社会の労働によって年々再生産されうる消費財であると提示し、さらに完全な自由がこの年々の再生産を最大限にするための唯一の有効策だと捉えた点で、その学説は、すべての点において、正当であるとともに、寛大かつ偏見のないものであるように思われる」となりましょうか。

 『国富論』は、キャナン版で二巻もある大著ですが、これを全部日本語に移しかえると考えただけでも気の遠くなる作業が必要です。幕末以来、私たちの先学たちは、それを何度も試みてきたわけですが、読む人の好みはそれぞれなので、万人が納得する翻訳ができる可能性は小さいのがふつうです。それでも、「翻訳学問」という言葉があるように、日本では毎年たくさんの翻訳書が本屋さんの店頭に並びます。私などは翻訳にそれほど膨大なエネルギーを使うくらいなら、それをもっと違う方向に向けたほうがよいのではないかと思うのですが、海外の話題作が日本語でもすぐに読めるようになる贅沢はそれほど簡単に手に入るものではないことも事実です。それゆえ、私たちは、翻訳の意義と限界をつねに頭の片隅においておくことにしましょう。

<参考訳>
岩波文庫(水田洋監訳・杉山忠平訳、全4巻、2000-2001年、引用は第1刷による)

 「すべての国民の年々の労働は、その国民が年々消費するすべての生活の必需品や便益品を本来その国民に供給する基金であって、そうした必需品や便益品はつねにその労働の直接の生産物であるか、あるいはその生産物で他の諸国民から購入されるものである。」(『国富論1』、19ページ)

 「土地にたいして使用される労働が唯一の生産的労働だとする点で、それが説く諸見解は、おそらくあまりに狭く局限されているにしても、諸国民の富は貨幣という消費しえない財産ではなく、その社会の労働によって年々再生産される消費可能な品物だとしていることからいって、また完全な自由がこの年々の再生産をできるだけ大きくするための唯一の有効な方策だとしていることからいって、この学説は、すべての点で、寛大であり自由であるとともに、正当でもあると思われる。」(『国富論3』、324ページ)

●少し寄り道●
 英文で書かれた古典を日本語に訳すとき、そのフランス語訳やドイツ語訳を参考にするというのも一つの方法です。というのは、英文を仏文や独文にするのは、日本語に移しかえるよりもはるかに容易な作業だからです。
 『国富論』の冒頭の文章はフランス語版では以下のようになっています。パブリック・ドメインに入った古典(フランス語)のテキストは、これも便利なことに、ケベック大学のサイトで読むことができます(http://classiques.uqac.ca/classiques/index.php#class_r)。

Le Travail annuel d'une nation est le fonds primitif qui fournit à sa consommation annuelle toutes les choses nécessaires et commodes à la vie; et ces choses sont toujours ou le produit immédiat de ce travail, ou achetées des autres nations avec ce produit.


 英文ではevery nationとあるのにフランス文ではune nationとなっている違いはありますが、fundを「根源的な基金」と訳したのは、フランス語版のle fonds primitifがいいアイデアだと思ったからでした。そして、英文ではconsumesのあとがコンマ(,)ですが、フランス語版ではセミコロン(;)となっています。私もそう解釈したほうが論理的だと思いました。

[2018年10月16日追記]
本連載に大幅に加筆し、『英語原典で読む経済学史』として刊行いたしました。続きはぜひそちらでお楽しみください。

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著者略歴

  1. 根井雅弘(ねい・まさひろ)

    1962年生まれ。1985年早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。1990年京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士。現在、京都大学大学院経済学研究科教授。専門は現代経済思想史。『定本 現代イギリス経済学の群像』(白水社)、『経済学の歴史』、『経済学再入門』(以上、講談社学術文庫)、『ガルブレイス』、『ケインズを読み直す』、『英語原典で読む経済学史』『英語原典で読む現代経済学』(以上、白水社)、『経済学者の勉強術』、『現代経済思想史講義』(以上、人文書院)他。

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