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インタビュー「「その他の外国文学」の翻訳者」

第19回 マヤ語:吉田栄人さん(3/4)

翻訳でマヤ文学を意味あるものに
 先住民の復権は必ずしも先住民の文化的伝統の回復である必要はない。しかし、吉田さんが外部から見たときに、インターカルチュラリズムという言葉で語られる脱植民地主義のイデオロギーに、先住民作家たちが囚われてしまっていると感じる。「マヤ文学はマヤの文化について書かねばならないという制約を自らに課している限り、マヤ文学は行き詰まってしまいます。むしろ、マヤ語で書くことそれ自体がマヤ文学なのであり、新しいマヤの文学を生み出していく原動力になるのだというような、意識の転換を図る必要があるはずです。これはまさにソル・ケー・モオさんが実践していることです」。
 吉田さんにも、ソル・ケー・モオがノーベル文学賞という目標を本気で掲げているのかどうかはわからない。ただ、自分を鼓舞するために、あるいはほかの作家を鼓舞するために、あえてパフォーマンスとして言っているのだろうと考えている。
 ノーベル文学賞をとるには、多くのひとに読んでもらう必要がある。マヤ語作家はもちろんスペイン語も習得しているので、ほとんどの場合、自分で自分の作品のスペイン語訳をしている。しかしスペイン語だけでは世界には届かない。英語に訳されないといけないし、あるいは日本語にも訳されたほうがいいだろう。では、自分はマヤ語をいま勉強しているし、日本語に訳すのは自分ができるかもしれない。原文を読むだけでなく、翻訳をすればより深くマヤ語も理解できて、研究にも役立つ。そんな考えが吉田さんのなかで生まれた。
 出版の具体的な予定はまったくなかったが、翻訳にとりかかった。文学研究者でもなく、マヤ文学が日本の読者に受け入れてもらえるか、自信があるわけではなかった。挑戦ではあった。ただ、翻訳することによって、マヤ文学を読んでもらう意味があるものにしなくてはいけないという思いがあった。「意味があるかどうかはすでに定まっているものではなくて、でも翻訳による力はありますよね」。研究者や翻訳家がいいところを見つけて届けられれば、読者が納得したり、新しい意味を見つけたりできる。
 作品をいくつか訳して、出版社に持ち込みに回った。やっと水声社の編集者が反応を示してくれて最初に出版に漕ぎつけたのが、ソル・ケー・モオの3つの短編を1冊にまとめた『穢れなき太陽』だ。マヤのひなびた村の暮らしの雰囲気がにじむ作品が収められており、日本人がメキシコの先住民と聞いてイメージするところに馴染むので受け入れられやすいと考えて選んだ。ここからマヤ文学の存在を知ってもらって、読者が増えれば狙い通りとなる。
 そして時を経ずして、国書刊行会で次の企画も決まる。最初は編集者も現代マヤ文学というジャンルに驚いたようだが、メキシコ政府からの助成を受けられれば成り立つかも、と前向きに検討してくれた結果だった。吉田さんはせっかく助成を受けて出せるなら1冊ではもったいない、と3冊を出すことを提案した。編集者は、それでは宣伝として打ち出すのにシリーズにしようと応えてくれた。はじめ吉田さんは「メキシコ先住民文学」というシリーズ名を考えたが、出版社のほうで「新しいマヤの文学」という、よりインパクトのあるタイトルを練ってくれた。
 シリーズの第1巻はやはりソル・ケー・モオの『女であるだけで』。夫を誤って死なせた先住民女性が、逮捕されたことをきっかけに、自らがマイノリティであることで、そして女であることで、理不尽な思いをしてきたかを悟るという小説だ。シリーズということで、出版社も宣伝に力を入れ、社会学者の上野千鶴子さん、ラテンアメリカ文学の研究者、翻訳家の第一人者である木村榮一さんから推薦のことばを寄せてもらえた。木村先生は実はかつて吉田さんの指導教官でもあった縁もある。宣伝も功を奏して、書評で取り上げられ、読者からのうれしい反響も寄せられた。

マヤ語とスペイン語の最小公倍数で訳文を創作する
 「新しいマヤの文学」シリーズを担当した編集者は、シリーズを紹介するインターネット記事のなかで、吉田さんの訳文をとても読みやすいと感想を記している。吉田さん本人は「買いかぶり」と謙遜するが、もちろん意識的に工夫を重ねた結果である。
 翻訳技術をだれかに教わった経験はない。学部生時代には、木村榮一さんにスペイン語を教わったが、それも翻訳を教えてもらったというわけではない。授業で文学作品を講読すると、学生は直訳になる。同じ箇所を木村先生が自分の訳した文を読み上げる。「そうするとそれに聞き惚れているだけというか。何かを学ぶということはありませんでしたね」と苦笑する。自ら翻訳をと意識してから、あらためてスペイン語の原文と木村先生の訳文とを照らし合わせてみた。当然、直訳ではない。むしろ原文より語数が増えている。どうしたらこんなふうに訳せるの?と驚いた。ほかの翻訳家の訳したものでもそれは同じだ。「翻訳っていうのは創作だなと。原文で使われていることばを使いつつ、表現、単語を並べ替えて組み合わせて、新しい日本語にする。もうほとんど創作だなと感じますね」。翻訳は、原文と使われている意味内容が同じなだけで、文章としてはちがうものと考えるようにした。
 読者は原文と対比して読むわけではない。日本語としてきれいに意味が通ることが大切だ。だから、原文の文体や表現方法はあるが、それにこだわりすぎず、「原文でこの単語を使うなら、自分だったらこの表現を使うな、というように日本語らしい文章にする」という方針をとった。文学の専門ではないとはいえ、これまでに読んできたスペイン、ラテンアメリカ文学からの表現が蓄積されてきている。それが自然と自分の訳文にも滲み出る。
 編集者にも日本語としてのわかりやすさをチェックしてもらう。ここの日本語が変ですよ、という指摘を受ければ、原文をチェックする。すると、訳のまちがいが見つかることが多々あった。編集者は文法的にチェックをするわけではないが、日本語として見たときにおかしければ、誤訳に気づけるということだ。
 マヤ文学は、ほかのラテンアメリカ文学と異なる点がある。それはほとんどの作者がバイリンガル作家として、マヤ語で書いた作品を自らスペイン語に訳していることで、ひとつの作品にもふたつのバリエーションがあることになる。そして同じ作者の手によるのであっても、マヤ語版とスペイン語版でちがいがある。翻訳の際にはこのふたつをどのように扱うのだろうか。吉田さんの場合、まずスペイン語版をもとに翻訳する。理由のひとつは、マヤ語よりもスペイン語のほうが語学力として自信があるためである。もうひとつは内容的なことで、マヤ語は語彙数が少ないため、スペイン語版よりも情報量が少なくなるという点による。作者自身がマヤ語からスペイン語版にするときに語数を増やしている。吉田さんも先にスペイン語版を見て、その膨らませ方を取り入れる。
 全体を訳し終えたら、スペイン語版とのちがいを意識しながら、マヤ語版と訳文を突き合わせてチェックする。マヤ語版のほうが逆に情報量が多い場合はそちらを訳文に反映する。スペイン語版とマヤ語版の重なり合う「最小公倍数で訳文をとっている」イメージだ。
 スペイン語とマヤ語では言語の構造がまったく異なるので、スペイン語に訳したときに失われるものがどうしても出てくる。しかしそれを日本語からとらえると、むしろマヤ語からストレートに訳せることが多いというから面白い。もちろん、ほかの言語と同じように、マヤ語ならではの表現というのはある。吉田さんにとっても、それを完璧に理解できるわけではない。なので、意味内容がとらえられれば、日本語でならこういうだろうなと想像を働かせて、日本の読者にわかりやすい表現をとる。
 もちろん、日本語に置き換えようがないものもある。オノマトペがそうだ。日本語で対応できるオノマトペもあるが、訳しづらいものがある。それであれば、オノマトペはすべてマヤ語の響きを残す方針にしようと決めた。


2019年マヤ国際会議(チェトゥマル市)にて。マヤ語辞書および文法書作成の協力者と共に。

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【お話を聞いた人】

吉田栄人(よしだ・しげと)
東北大学大学院国際文化研究科准教授。1960年、熊本県天草生まれ。専攻はラテンアメリカ民族学、とりわけユカタン・マヤ社会の祭礼や儀礼、伝統医療、言語、文学などに関する研究。主な著書に『メキシコを知るための60章』(明石書店、2005年)、訳書にソル・ケー・モオ『穢れなき太陽』(水声社、2018年。2019年度日本翻訳家協会翻訳特別賞)。

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