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インタビュー「「その他の外国文学」の翻訳者」

第16回 ポルトガル語:木下眞穂さん(4/4)

体当たりの翻訳
 木下さんの翻訳の持ち味はどんなところにあるのだろうか。心がけているのは、「字面だけで訳すのではなくて、からだを通して訳す」ことだという。木下さんが私淑する翻訳家には芹沢恵さん、小竹由美子さんなど何人かいるが、その筆頭が小川高義さんだ。小川調とも呼ばれる、冴えた日本語訳で知られている。一語一語を訳しているのではなく、辞書に載っている訳語を必ずしも使うわけではない。けれども、訳文を読めば、原文を読んだときと同じように登場人物の精神状態を含めて伝わってくるのが小川さんの訳だと木下さんは分析している。
 原文で読んだときに感じる驚きやにおい、痛みといった感覚が伝わるようにしたい。たとえば『ガルヴェイアスの犬』は、村に隕石が落ちてくるところから物語が始まる。この隕石から発せられる硫黄のにおいに加えて、体臭や血といった、気持ちいいとはいえない生々しいにおいが全編を通して漂ってくる。ほかにも暑さやまぶしさといった印象が強く残る。そのフィジカルな刺激を訳文に出そうとした。その工夫は、日本翻訳大賞の選考委員にも伝わったようだ。受賞の際の選評で松永美穂さんが字面だけでない、「体当たりの翻訳」だと評価してくれたのだ。
 木下さんは、登場人物のキャラクターを背の高さや声の調子といったところまで、具体的に頭の中で像をつくって訳すという。原文が伝える意味や状況はわかるのに、うまい訳語が出てこないときは苦しい。こういう場面でどこにいて、からだの状態はこうで、と整理して考える。それでも出てこないなら、机から離れていても、頭の片隅に常に意識しておく。すると数日経ったころに、電車やお風呂のなかでふいにぽん、とよいことばが思いつくときがある。木下さんには、原文で読んだ作品のはずなのに、自分で翻訳したゲラを読んで、あれ?こんなに面白かったんだ、と気づくことがあるらしい。「自分で翻訳しているのにばかみたいですよね」と笑うが、それはよい翻訳ができたからこそ、すっと作品の魅力が入ってくるからなのだろう。
 いま訳しているサラマーゴの『象の旅』で意識している感覚は聴覚。語り手がサラマーゴ本人と重なり、サラマーゴの声が木下さんには聞こえるのだそうだ。サラマーゴのドキュメンタリー映画『ジョゼとピラール』の字幕を担当して、作家の声が耳に染みついた木下さんならではの訳文が楽しみだ。

「ポルトガル」のラベルを越える
 自分で見つけた作品の企画をふたつ続けて成功に導いた木下さんだが、もちろんまだまだ訳したい作品がある。2021年には、ブラジルの絵本を含めて3作品も出版される。ひとつは、ペイショット、アグアルーザと並んで訳したいとかねてから思っていた作家、ゴンサロ・M・タヴァレスの『エルサレム』で、これも木下さんから持ち込んだ。自分に文学の目を開かせてくれたサラマーゴの『象の旅』は、出版社から声をかけてもらえた。ただしそれも、木下さんが誰かの目に留まればと、『ジョゼとピラール』の上映に合わせて大使館ホームページに抄訳を載せてもらったことがきっかけだ。アグアルーザの代表作“O Vendedor de Passados”(『過去を売る男』)の翻訳も準備に入った。驚くべき勢いだ。
 作品を選ぶ観点は、賞をとっているものを指針にはするが、単純に面白いかどうか。国や地域は特に意識しないが、自分のアンテナにひっかかるのは、土着性というか、その土地ならではの歴史や日常が感じられるものだという。たしかに、『ガルヴェイアスの犬』はポルトガルの小さな村、『忘却についての一般論』は内戦下のアンゴラと、ミクロとマクロのちがいはあれども、舞台にした土地の雰囲気や歴史が物語に織り込まれている。
 もうひとつ意識しているのが、逆にポルトガル語圏の作家ということを感じさせない作品を探すことだ。これにはふたつの意味がある。まずは、地域性を感じさせない作品も手がけたいことがある。先に挙げた『エルサレム』がたとえばそうだ。しかしより肝心なのは、どの国の作家、作品だからという垣根なく、面白い作品だから読んでほしい、というもうひとつの点だ。
 そもそも『ガルヴェイアスの犬』の企画持ち込みを考えたときも、できるだけ大きな出版社から出したいと思っていた。ただふつうに出すだけでは、英米文学でもフランス文学でもドイツ文学でもなく、その他の文学という扱いになって、大きな書店でも片隅に置かれるだろう。それではいけない。大きな出版社から出れば、それだけである程度、目に留めてもらえる可能性がある。「もし最初にそれができれば、次のポルトガル文学を小さい出版社から出したときにも、そういえばあれが面白かったから、と読者が思ってくれるかもしれない」というねらいがあった。どこの国ということとは関係なく、面白い本だから読むという読者に届く可能性を開きたい。『ガルヴェイアスの犬』には、その可能性を広げる力があると確信したということでもあるのだろう。
 韓国文学の翻訳者、吉川凪さんも、第四回日本翻訳大賞の授賞式で同じようなことを言っているのを木下さんは耳にした。韓国文学はなんでこの作品なのと聞かれたときに、なにか理由がなくてはならなかったのが、最近になってやっと、ただひと言面白いから、といって訳せるようになったと語ったのだ。木下さんは大学院にも行かず、文学史や理論を専門的に研究したわけではないから、文学史においてこういう意義があるからとか、~主義を代表するから、というようなことは言えないし、そういう観点で作品も見ていない。しかし、そういう理由付けなしに、ただ面白いから、と原文とがっぷり四つに組んで、からだ中の感覚を働かせて訳してくれる。受け取るわたしたちも、その面白いということばを信じるのがいいのかもしれない。
 翻訳予定が目白押しの木下さんだが、「あとどれだけできるかわからないですから」という。そのほのめかしの裏にあるのは、後進を育てたいという気持ちだ。きっかけは、スペイン語圏の翻訳家、宇野和美さんと食事をしたときに「育てなきゃね」と言われたことだった。宇野さんは翻訳業と並行して後進の育成にも陰に日向に力を注いでいる。そのひと言に、はっとなった。自分も岡村多希子先生に道を開いてもらい、鴻巣友季子さんに教えてもらい、ほかにもいろいろなひとに手を引いてもらってきたことに思い至った。自分がいろいろな作品や作家を訳すことで間口が広がれば、自分もやりたいと思うひとが出てくるきっかけになるかもしれない、という意識が芽生えた。後進のための活動も今後は具体的に起こしたい。
 冒頭でアンゴラ文学の少なさ、珍しさを数字で表した。この数字は近い将来、注目を集めるものではなくなるだろう。木下さんがいままさに更新し、さらには今後、ほかの翻訳者も加わって塗り替えていくはずだからだ。わたしたち読者はただ、気になった作家や翻訳者の作品を、シンプルに面白いかどうかで判断すればいいのだ。


『エルサレム』の作者、ゴンサロ・M・タヴァレスさんと

ブックリスト)
翻訳の参考になる本
・『翻訳の秘密』(小川高義、研究社、2009)
・『越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文 決定版』(越前敏弥、ディスカバー21、2019)
・『翻訳百景』(越前敏弥、KADOKAWA、2016)
・『翻訳問答1』『翻訳問答2』(鴻巣友季子、左右社、2014、2016)

おすすめのポルトガル語文学
・フェルナンド・ペソア『不安の書[増補版]』(高橋都彦訳、彩流社、2019)/『新編 不穏の書、断章』(澤田直訳、平凡社、2013)
ポルトガル現代文学の根幹となっていると言っても過言ではないのがフェルナンド・ペソア。
・『ポルトガル短篇小説傑作選』(ルイ・ズィンク、黒澤直俊編、現代企画室、2019)
短篇の選択をポルトガル文学の教授でもあり作家でもあるルイ・ズィンクに協力してもらった。そのため、多岐にわたる個性豊かな短篇がそろっている。
・『白の闇』(ジョゼ・サラマーゴ、雨沢泰訳、河出文庫、2020)
ポルトガル語圏唯一のノーベル文学賞受賞作家。聖書、歴史、現代、と時代も場所も変わり、作品のバリエーションも豊かなので、本作に限らず読んでもらいたい。
・『ガルヴェイアスの犬』(ジョゼ・ルイス・ペイショット、木下眞穂訳、新潮社、2018)
非常にポルトガルらしさがにじみ出ながら、普遍性もある作品。
・『星の時』(クラリッセ・リスペクトル、福嶋伸洋訳、河出書房新社、2021)
ブラジルのヴァージニア・ウルフと呼ばれる重要な作家だが、近年になって再認識されてきている。

ポルトガル語・ポルトガル語圏の文化を理解する本
・『ポルトガルのポルトガル語』(内藤理佳、白水社、2019)
欧州ポルトガル語に特化した稀有な参考書。
・『海の見える言葉 ポルトガル語の世界』(市之瀬敦、現代書館、2004)
アフリカにおけるポルトガル語の歴史、変遷などを軸に広い視点から見たポルトガル語の世界が解説されている。
・『ポルトガル 革命のコントラスト』(市之瀬敦、ぎょうせい、2009)
日本では詳しく知られていない1974年のポルトガルの革命についてドキュメンタリータッチで綴られている。

(聞き手・構成:webふらんす編集部)

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【お話を聞いた人】

木下眞穂(きのした・まほ)
上智大学ポルトガル語学科卒業。訳書にパウロ・コエーリョ『ブリーダ』『ザ・スパイ』(角川文庫)、ルイ・ズィンク、黒澤直俊編『ポルトガル短篇小説傑作選』(共訳、現代企画室)、ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ『忘却についての一般論』(白水社)など。2019年、ジョゼ・ルイス・ペイショット『ガルヴェイアスの犬』(新潮クレスト・ブックス)で第5回日本翻訳大賞受賞。

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