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インタビュー「「その他の外国文学」の翻訳者」

第15回 ポルトガル語:木下眞穂さん(3/4)

英語で翻訳修行
 このあと、コエーリョの作品を数点、翻訳し出版することができた。するとだんだんと欲が出てくる。これまではブラジルの作家の翻訳だったが、自分のルーツを考えるとやはりポルトガル文学をやりたい。子育ても手が離れるようになってきたので、ポルトガルで話題の本を自分で調べ、インターネットで本を取り寄せて読むようになった。
 これまでほぼ独学で翻訳の技術を身につけてきた木下さんだが、ある翻訳サークルに参加してみようと思い立つ。2014年、翻訳家、鴻巣友季子さんがSNSのFacebook上でNHKのドラマ「花子とアン」について語るサークルを立ち上げる、というのを見つけたのだ。「花子とアン」は、『赤毛のアン』の翻訳者として知られる村岡花子をモデルとしたドラマだ。ストーリーにも『赤毛のアン』や村岡花子の翻訳へのオマージュがあふれた作品になっている。翻訳をやっている者どうしでこれを見て感想を語り合おうという趣旨だった。まだまだ無名の自分がこれに参加していいものかどうか迷った。しかし、やっぱり仲間にいれてもらいたい。恐る恐るメールを書くと、すぐに返事があった。すでに自身も翻訳を手がけている木下さんなのに、「あの鴻巣友季子」から返信がきた!と舞い上がったというのだからおかしいが、それだけ鴻巣友季子さんを一流の翻訳家として尊敬しているということが伝わってくる。
 サークルはとびきり楽しかった。駆け出しからベテランまでの翻訳家がいたし、編集者や作家も参加して、刺激的なおしゃべりになった。翻訳の勉強をもっとちゃんとしたいと思っていたところ、鴻巣さんが教える都内の大学での講義に聴講生として参加できることになった。聴講生仲間から教えられて、ほかの勉強会にも参加するようになった。もちろん、扱うのは英語の翻訳で、ポルトガル語について教えてもらえるわけではない。「わたしなんかが行ったら英語もできないのに迷惑がかかるんじゃないかと思ってたんですけど、そのへんは図々しくなったんでしょうね。そんなことを言ってられない、勉強したいと思って」。翻訳のことを学ぶのに、ポルトガル語に固執する必要はないんだ、英語からの翻訳でも学べることはあるんだと気づいた。青山ブックセンターの文芸翻訳クラス、柴田元幸さんや越前敏弥さん、芹沢恵さんの勉強会などと積極的に参加して、刺激をもらった。

ポルトガルの作品でつかんだ大賞
 翻訳修行の道を開いてくれたのが鴻巣友季子さんだが、企画を実現するための道を開いてくれたのも、鴻巣さんだった。
 2015年、ポルトガルの作家、ジョゼ・ルイス・ペイショットさんが来日して東京外国語大学で特別講義をするという情報が入った。木下さんはペイショットさんのファンだったから、もちろん参加した。講義のあと、東京外大の先生方と研究室に残ってお茶をする場にも交えてもらった。せっかくの機会なので、自分がペイショットさんのファンであり、作品の翻訳をやりたいと伝えたかったが、なかなか言い出せない。帰り道、JR中央線に一緒に乗って、このままだともう別れてしまうと、思い切って熱意を伝えた。するとペイショットさんは帰国後、最新作『ガルヴェイアスの犬』を送ってくれた。
 すぐに翻訳したいと思うほど面白かった。企画書も書いた。しかし、どうしたら企画の持ち込みができるかわからない。木下さんのこの悩みを鴻巣さんが目に留めて、企画書を見せてみて、と言ってくれた。鴻巣さんの返事は早かった。「これはいける、と確信して思わず笑いが出た、っておっしゃってくださったんです」。そして新潮社の「クレスト・ブックス」の編集者に取り次いでくれ、この編集者も企画に賛成してくれた。木下さんにとっても予想以上の反応だった。なにせ現代の外国文学のシリーズとしては最高のレーベルなのだ。翻訳に取りかかってもまだ半信半疑だった。編集者とやりとりすることもなく孤独な作業を続けていると、ほんとうに出版されるのだろうかとも思えてきた。脱稿して半年ほどしてやっとゲラが届いたときは、「あ、新潮社も本気なんだな」と感動で自然と泣けてきた。
 これまでのコエーリョの作品はいわば自分の名刺をつくってくれた。しかし今度は、ポルトガルの文学をと思って自分で探し当てて企画したものである。自分が見つけなければ、日本では日の目を見ることがなかったかもしれない。気持ちとしては、第1作目というくらい、思い入れはひとしおだった。
 だから、日本翻訳大賞の最終候補に『ガルヴェイアスの犬』が残ったと聞いて驚いた。錚々たる選考委員に読んでもらって、ポルトガルにこういう作家、こういう作品があると知ってもらえると考えるだけでうれしかった。最終選考が行われる日、木下さんは翻訳ミステリー大賞の公開選考会を見に行っていた。選考は大接戦となり、『あなたを愛してから』になるか『カササギ殺人事件』になるか、残り3票で決まる、というタイミングで携帯電話に着信があった。知らない電話番号からだ。慌てて会場を飛び出して電話に出た。翻訳大賞の選考委員の金原瑞人さんだった。「大賞に決まりましたけど、受けてくださいますか?」。驚いて、うまく受け答えができない。あまりに不審だったのか、金原さんに「え?受けていただけませんか?」と念押しされてようやく「受けます!」と答えられた。後ろの会場からは拍手の音が聞こえる。ああ、こっちも決まったんだ、やっぱり『カササギ殺人事件』かな、と思いながらうれし泣きした。

いまのポルトガルだからこそ見えるアフリカ文学
 ポルトガル文学を届けたいという宿願を、日本翻訳大賞受賞という最高の形で実現させた木下さんが、次の企画として持ち込んだのが、冒頭で紹介した『忘却についての一般論』だ。アンゴラの作家、ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザの作品だ。
 アグアルーザは木下さんにとって10年くらい前からずっと気になっていて、漠然といつか訳したいと思っていた作家だった。なのでこの作品がブッカー賞の国際賞の最終選考に残ったというニュースを聞いて、すぐに取り寄せた。こんな作品は読んだことがないと思った。「ストーリーがすごく面白い。後半は怒涛の伏線回収で、伏線好きにはたまらない。プラス、その土地の背景がものすごくよく組み込まれている」と感じた。これはいける、と企画を持ち込んだ。 ポルトガルやアフリカの事情に詳しくない立場からすると、同じポルトガル語圏といってもポルトガル文学とアンゴラ文学とではだいぶフィールドがちがうのでは、という気もする。しかし実際には、ポルトガルとアフリカの結びつきは強い。たとえば、木下さんが訳者のひとりとしてかかわった『ポルトガル短篇小説傑作選』というアンソロジーがある。タイトルどおりの本だが、この中でもアフリカの旧植民地の独立戦争をテーマにした物語が複数収められている。ポルトガル人としてアフリカで生まれ育って、ポルトガルに戻って書いている作家もいれば、アグアルーザのように、両親はポルトガルとブラジル系の白人で、自分は「アンゴラ人」というアイデンティティをもって書く作家もいるのだそうだ。現代のポルトガル語圏文学という観点からすれば、木下さんがこの作品にたどり着いたのも不思議ではないとわかる。
 日本では少ないアフリカの文学ではあるが、不安要素だとは思わず、どこかでは必ず出してくれるだろうという確信があった。実際に、刊行後にいくつかの書評で好評されたし、日本翻訳大賞の二次選考にまで進んだ。前例が少ないとかアフリカだからとか、そういったことは作品の魅力の前では関係がないと教えてくれる。


『ガルヴェイアスの犬』作者のジョゼ・ルイス・ペイショットさんと


ガルヴェイアスのご婦人たちと。みんなペイショットさんが小さいころから知っている

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【お話を聞いた人】

木下眞穂(きのした・まほ)
上智大学ポルトガル語学科卒業。訳書にパウロ・コエーリョ『ブリーダ』『ザ・スパイ』(角川文庫)、ルイ・ズィンク、黒澤直俊編『ポルトガル短篇小説傑作選』(共訳、現代企画室)、ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ『忘却についての一般論』(白水社)など。2019年、ジョゼ・ルイス・ペイショット『ガルヴェイアスの犬』(新潮クレスト・ブックス)で第5回日本翻訳大賞受賞。

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