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インタビュー「「その他の外国文学」の翻訳者」

第12回 タイ語:福冨渉さん(4/4)

タイでこそ生まれる文学
 このことばに続けて、福冨さんはこうも言う。「なんだかよくわからないけど、なにかすごいものに出会ったなと思ってもらえたら、あの作品に関しては成功だと思うんですよね」。
 読者対象への意識について尋ねたときにも、「よくわからないけど」ということばが出てきた。このキーワードを福冨さんが重視するのは、わからない部分があっても、ひっかかるものが残ると、好奇心が育っていくと考えているからだ。それを福冨さんは「もやもやを抱えて次に進んでいける」と表現し、文学の大切な機能だと考えている。
 この「わからなさ」という点でいくと、日本と大きく状況が異なるタイ社会、それに文学は、その要素をかなり抱えている。
 タイでは王政と軍部という、社会を支配する大きな権力が残っている。加えて、多様な民族が暮らし、60から70もの言語が話されているとも言われ、そこに社会階級もあるという複雑な社会構造をもつ。これまでにクーデターが起きたこともたびたびあり、2020年は若者の政治運動が大規模に広がった。世の中にまだとても大きなものが存在していて、それと対比させられる小さい個人の存在がまだはっきり残っているのが、タイという国だといえる。この状況で小説を書くことに対して、福冨さんは「文学にできることは個人に寄り添うことだと思うんですよね。ひとつの社会とか時代に生きた、ひとりひとりの姿を描けるのが文学のいいところだと。すなわち、タイ社会ではまだ文学の力は残りうる」と希望をもって見ている。「そういう状況を、作家たちは自分たちなりの想像力を使ってとらえて、物語として読めるものをつくっている。その能力はすごい」。
 日本の作家が置かれた状況とはまったく異なる。だから、タイ文学を翻訳することは、いまの日本で文学の力を残していくことにつながるかもしれない。たとえば、100年後に『プラータナー』が読まれたとする。読んでも当時の状況は全然わからないかもしれない。それでも、どうやら人がすごく苦しんでいて、そこでなんとか生きているのはわかる。そしてそれを必死に書いた人、翻訳した人がいたらしい、と思ってもらえるかもしれない。強烈な体験を未来にもち越すことができるかもしれない。福冨さんは自身が翻訳するものに、そういう未来への責任感を感じている。

100年後の「ひとり」に届くように
 福冨さんが自分の翻訳について責任を感じるようになった背景には、クーデターに遭遇した体験も影響しているようだ。
 二度目の留学のときにはタイ語も十分に使え、作家たちとの人脈もできていた。自分はタイに精通してきたという自信があった。ところが、クーデターが起きると、自分とタイ社会の間に境界線が存在することを突きつけられた。自分は、あと数か月したら、日本に戻ればいい。しかしタイの人たちは、これから非常事態が日常になる。「自分は一時的にここを訪れているに過ぎない。彼らの怒りとか悲しみに全然寄りそえてない。それでタイの現代文学が、文化がどうこうといっている。それってすごく無責任じゃないか」と当時の疑念を振り返る。
 いまは、これまで自分に刺激を与えてくれた作家や作品に恩返しをするつもりで、彼らの声を届けようと考えている。たとえば、ラップグループRap Against Dictatorshipのミュージックビデオに日本語字幕をつけたのもその一環だ。ラップに乗せて、強烈に体制を批判する内容で、それを日本で聴いたからといって、直接の影響はないかもしれない。しかし、アーティストにとっては、海外の人にこの状況を知ってもらえるとうれしいはずではある。そしてあわよくば、これに触れた人が、自分たちの生活や社会に引き付けて何かを考えてくれるかもしれない。その可能性は、文学の翻訳も同じようにもっている。
 「動機はピュアなので、口に出すのは恥ずかしくもあるんですが、海外文学のことをやっている人間なりに、翻訳して紹介することで、未来の社会に対してどう貢献できるかということかなと思うんですよね」。
 アクチュアルなことを紹介しつつ、同時にもう少し長い時間軸をも意識している福冨さん。それでは今後はどのような作品を翻訳していこうと考えているのだろうか。
 基本的には読んで面白いかどうか。しいて意識しているのは、日本語世界にそれをもってきたときに意味があるかどうか。それは作品を読んだときに「ひとりの人間の姿をちゃんと写し取るとか、ひとつの社会の姿を、あるひとりの視点からでもいいから、その複雑さを書きとれている」と思えるかどうかだという。照れ隠しの微笑みを浮かべながら「結局、ひとりの人間の命をちゃんと考えているかが大事じゃないですか」と答える福冨さんの表情は温かい。
 実際に翻訳をしてみたい作品はたくさんある。少なくとも、面白いと思った作家はそれぞれ一冊ずつ出したい。すぐにはできないが、要約だけでも、発表していくような機会を考えている。
 もちろん課題もある。福冨さんのほかに、この分野の人材がいないことだ。福冨さんの下の世代でタイ文学を研究し、翻訳している数少ない人物に、指導教官の宇戸先生の娘さんである宇戸優美子さんがいる。だが宇戸さんの専門は、どちらかといえば近代寄りだ。なのでふだんはどの作品を翻訳するか相談したり、切磋琢磨したりできる相手もいない。作品を選ぶのが福冨さんだけというのも偏りができてしまう。
 「タイ文学仲間とかタイ文学オタクを増やしても、同質性の高い空間ができるだけかもしれないので、迷う部分はあります。ぼくは男性なので、そこも考慮にいれないといけない。でもタイ語に限らず、いわゆるマイナー言語をやる人が継続的に出てくる状況は、社会の健康のバロメータとしてすごく大事なことだと思いますね」。
 いま、福冨さんは大学での職を辞して、ゲンロンの社員として働いている。この会社が、アジアの知識人ネットワークに関心を寄せており、タイや東南アジアにまつわるさまざまな企画を実行に移せるかもしれないと声をかけてもらったからだ。なにより、基本的な理念が自分とあっているとも感じている。「アクチュアルな状況に対応するだけじゃなくて、たとえ100年経って世代が変わったあとでもちゃんと意味のあるものを残そう、という感覚があって、そういうところにすごく共感しているんです」。
 100年後、価値観もテクノロジーも大きく変わっているだろう。それでも、強烈な体験をくぐり抜けた人たちの声が価値あるものとして届くように、文学はあるのだ。


2014年の軍事クーデターの直前、作家ワット・ワンラヤーンクーンの家で焚き火を囲み、夜通し語りあった。クーデターを受けてワットは国外に亡命し、いまだに帰国できていない。


プラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』原書と日本語版。

ブックリスト)
翻訳の参考になる本
・『知識人とは何か』(エドワード・W・サイード、大橋洋一訳、平凡社、1998) オリエンタリズムの提唱者、サイードによる講演録。福冨さんにとってつねに「アマチュア」たることの勇気を与えてくれる大切な本。
・『ウルフ・ソレント』(ジョン・クーパー・ポウイス、鈴木聡訳、国書刊行会、2001) 20世紀イングランドの幻想文学作家による大著。「リーダブル」な翻訳ではないが、「だからこそテキストとの真摯な向き合い方を感じ取れます」とのこと。
・『世界文学とは何か?』(デイヴィッド・ダムロッシュ、秋草俊一郎ほか訳、国書刊行会、2011)
さまざまな作品が翻訳をつうじて流通し、「世界文学」になるプロセスを鮮やかに描く。マイナー言語の文学作品の翻訳を考えるうえで通らざるをえない一冊。

おすすめのタイ文学
・『鏡の中を数える』(プラープダー・ユン、宇戸清治、タイフーン・ブックス・ジャパン、2007)
プラープダー・ユンの初期作品を集めた短編集。日本におけるタイ文学のイメージも、タイにおけるタイ文学のイメージも変えた作品が多く所収されている。品切れ状態が続いていたが、この度電子書籍化されたので、ぜひ一読を。
・『タイ人たち』(ラーオ・カムホーム、星野龍夫訳、めこん、1988)
初版1958年ながら、21世紀の現在もタイで読まれ続ける、東北タイ文学の伝説的な短編集。格差の大きな社会で生きる人々の苦悩に迫る。
・「ぼくと妻」「女神」(カム・パカー、宇戸清治訳、髙樹のぶ子編『天国の風――アジア短篇ベスト・セレクション』、新潮社、2011)
フェミニスト批評家・ニュースキャスターとして有名な著者による2本の短編。タイの「性」を描く作品で邦訳されているものはほとんどないので、こちらをぜひ。

タイやタイ語の概要を知る本
・『タイの基礎知識』(柿崎一郎、めこん、2016)
自然・歴史・民族・政治・経済・文化など、タイについてさまざまな側面から学ぶ、最初の教科書としておすすめの一冊。
・『地図がつくったタイ』(トンチャイ・ウィニッチャクン、石井米雄訳、明石書店、2003) 地理学と地図作成技術が「タイ人」という観念を創造したと指摘する、歴史学の名著。現代のタイを考えるための根源的な問いに立ち返る。
・『タイ語の基礎』(三上直光、白水社、2014)
基礎的な文法を網羅的に解説。タイ語入門のテキストは数多いが、「タイ語の文章をしっかりと「読む」ことを目指すひとは、こちらを必ず参照しましょう」とのアドバイス。

(聞き手・構成:webふらんす編集部)

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【お話を聞いた人】

福冨渉(ふくとみ・しょう)
タイ文学研究者、翻訳・通訳者。タマサート大学教養学部 Research Fellowを経て、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程言語文化専攻単位取得退学。鹿児島大学特任講師などを経て、現在は株式会社ゲンロンに所属。翻訳にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン、2020)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー:憑依のポートレート』(河出書房新社、2019)、ノック・パックサナーウィン「トーン」(奥彩子、鵜戸聡、中村隆之、福嶋伸洋編『世界の文学、文学の世界』、松籟社、2020)など。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社、2017)など。
ウェブサイト: https://www.shofukutomi.info/
Twitter: https://twitter.com/sh0f/

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