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インタビュー「「その他の外国文学」の翻訳者」

第11回 タイ語:福冨渉さん(3/4)

「昼寝本」を目指して
 福冨さんの翻訳作業はどのような工程になっているのだろうか。
 まず全体を訳す。このときは直訳的に訳す。次に、原文は見ないで訳文を整える。一度、日本語だけで読んで読みやすいかをチェックするという意図だ。そして、原文と突き合わせて修正をする。そしてひとつ独特なのが、「一度訳した文を音読する」という工夫をしていることだ。そのねらいはというと、「黙読しているときにはこのリズムでいいなと思っていても、実際に口に出してみるとものすごく違和感がある、ということがあって。その場合は、声に出して読んでいるときのリズム感を重視したほうが、読む人にとってもいいんだろうなと思って、この方法を意識しているんです」。
 読むときのリズムを意識するようになったのは、『新しい目の旅立ち』を雑誌連載するようになったときだ。この作品は、作者がフィリピンに旅をするなかで、ソロー、スピノザといった先人たちの自然にまつわる思想をたどりつつ、自らも考えを紡いでいくという構成になっている。旅をして、少しずつ非日常に入っていきながら考えるという雰囲気を味わってもらいたい。時間のあるときに開いて、ちょっと読んでは置いておく、という読み方ができるようにと、平易な訳文を心がけた。福冨さんの分析では、プラープダー・ユンの文章は、わかりやすいが、タイ語の文章で典型的な、一文がどんどん長くなっていくタイプにあたる。冗長にならず、わかりやすく伝えるためにと考えて、音読を取り入れるようになった。成果はというと、「坂口恭平さんが、この本は昼寝のときに読んでます、って言ってくれて、そう、それだ! と思いましたね」というエピソードからうかがえる。
 『プラータナー』の場合は、どんな工夫があったのだろうか。この作品の翻訳はかなり難しかったそうだ。タイ語の特徴に、造語がつくりやすいこと、そして文章に句読点がなく、一文を長くしてしまえることがある。その特徴を踏まえた、独特の文体で綴られていたからだ。
 造語についてはドイツ語を学んだことがある人には想像しやすいかもしれない。既存の単語同士をつなげて、新しい表現をつくることができるということだ。『プラータナー』は造語での形容表現がとにかく多い。もちろん、辞書には載っていない。しかも「タイ語では、ふつうはこのことばとこのことばはつなげないよね、という組み合わせで新しくつくられた表現」なのだ。それを日本語でも、やはり違和感がありつつ、けれども意味が通じるようなことばに落とし込む、という作業が必要だった。
 一文を長くしてしまえる、というのはどういうことだろうか。たとえば、日本語で「彼は黄色い花をつかんだ。その黄色い花は~~であった」という2文がある。2文目は1文目を修飾する関係にある。タイ語では、このふたつの文を区切らず、ひとつの文章として続けていくことができるということだ。タイ語で1文だからということで、日本語でもひとつの文で訳そうとすると、修飾語や修飾節がやたらに長い文になってしまう。では代名詞で受けようとすると、冗長になってしまう。そういう難しさがある。そのうえ『プラータナー』は、ふつうなら関係代名詞などでつなぐところをあえて使わず、細かいフレーズをどんどんつなげていく。この独特の文体は「タイ語で読んでいるとリズムでイメージが入ってくる。でも全体に舌足らず」だと福冨さんは感じた。意味が伝わるように、かつ原文のリズムやイメージを切らずに、文をつなげていきたい、という難題になった。
 この作品は、日本人には縁遠いタイの政治運動を題材にしているということもあって、読みやすい本ではないことは福冨さんも認めている。「読むのはしんどかった」という反応をしている読者もいた。ただ、それはある意味で、福冨さんの意図どおりでもあって、必ずしも内容がすっと入っていく小説ではないのだから、日本語に訳されたからといって、それが変わるわけではないからだ。
 もっとも、福冨さんがいま翻訳をするときには「読みやすい」ことを基本的な姿勢にしている。

資料ではなく、作品として読まれるために
 「読みやすい」「リーダブル」な翻訳を心がけるのは、福冨さんのなかで読者対象は「高校を出たくらいから大学生くらいの若い人」という明確なイメージをもっているからだ。
 「大学や専門学校で教えていたから、その意識が強いのかもしれません。ぼくが教えてきた学生たちは、海外文学には一切触れたことがないという人たちがほとんどだったし、タイのことだってほとんど知らない。だからなにかのきっかけでこういう翻訳に触れたとしても、よくわからないということになるかもしれない。でも、よくわからないけど読めたし、なにか印象は残っている。その感覚はその人たちの未来につながると思うんです」。
 実際の読者層は、学生ではなく、いわゆるガイブンファンだろうとは自覚している。ただ、そういう若い人を対象に考えておけば、「難しいけどわかりやすい文章は両立できるのかも」という目論見はある。読書の経験値は多くなくても、若いが故の好奇心や冒険心はある、そういう人たちが「わからないけど触れてみる」機会を残しておきたい。
 翻訳のわかりやすさを考えるときに、訳注をどうするかという問題が出てくる。日本の読者にとって、なじみのない文物やできごとが登場したとき、理解をうながすために訳注がつけられることがある。これについて福冨さんは「できるだけ注はつけないようにしている」とはっきりとした姿勢を示した。それは、いわゆる東南アジア文学のこれまでの翻訳状況を踏まえての方針だ。
 1970年代から80年代にかけて、トヨタ財団など、企業の助成金を受けて東南アジアの文学作品が継続的に翻訳された時期があった。このとき翻訳を担ったのは、地域研究を専門とする人たちだった。精緻な訳文で学術的な価値はもちろん高い。しかし、注が多くなりがちでもあった。「極端な例だと、200ページの作品に、400くらいの脚注がつく」こともあったという。小説作品として読むにはしんどい。
 90年代以降、リーダブルな翻訳を目指したのが、これまでに何度か名前が挙がった、福冨さんの恩師、宇戸清治先生であり、あるいは、インドネシアの大作家、プラムディヤ・アナンタ・トゥールの作品『人間の大地』などの「ブル島四部作」を翻訳し、読売文学賞を受賞した押川典昭さんだ。福冨さんもその影響を受けていると語る。
 訳注にはもうひとつの問題もあると福冨さんは指摘する。
 「東南アジアとなったときに突然、注がないといけないという視線でしか受け入れなくなっている状態がよくない。日本人が東南アジアにもっている、オリエンタリスティックなまなざしが入っているんじゃないか」という問題意識だ。「オリエンタル」はもともと、ヨーロッパからみた東、つまり中東以東のアジア地域を指すことばだ。オリエンタリズムとはそこから派生し、非西欧圏の文化や風俗を、遠く離れた国の、異質かつ好奇心をそそるものとして志向する、というような意味合いで使われる。東南アジアの小説を読むとき、文学作品としての価値というより、珍しい異国のものを好奇心でのぞいてみる、ということになりはしないか、という指摘だ。たしかに、こと細かに注を入れることは、遠く隔たったものということを強調し、作品自体より知識を得ることが目的のようになりうるのかもしれない。注を入れることで、そうした眼差しを翻訳者として反映させてしまうことはすべきではないのでは、と福冨さんは考えている。
 実際、『プラータナー』は注がほとんどない。はじめはまったくなしと考えていたが、編集者からさすがにここは必要と指摘された箇所に割注をつけるに留めた。もちろん、現実の固有名詞がどんどん出てくるし、日本の読者には知識が少ないであろう、タイの政治を題材にしていることは理解している。それでもこの方針を貫いたのは「作品のなかの、このことばから喚起されるイメージのなかにいるときに突然、注で情報をさしはさまれることに必然性がどれだけあるのか」という判断からだった。タイ人が原文で読めば、肌感覚でわかるというところがある。それを注で補うことより、「この燃え盛るような欲望のイメージをどれくらいぶつけるか」が必要だと考えた。「現代のタイで虐げられた人たちの命とか声をすくいあげている作品だと思います。だから、それをきちんと伝えることが大切なんだと」。


プラープダー・ユン(左)と。2010年、学部生のとき、指導教官の代打で講演会通訳を務めたことから交流が始まった。


プラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』翻訳時のメモ。翻訳にかんするメモは、基本的にすべてノートアプリで管理している。

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【お話を聞いた人】

福冨渉(ふくとみ・しょう)
タイ文学研究者、翻訳・通訳者。タマサート大学教養学部 Research Fellowを経て、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程言語文化専攻単位取得退学。鹿児島大学特任講師などを経て、現在は株式会社ゲンロンに所属。翻訳にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン、2020)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー:憑依のポートレート』(河出書房新社、2019)、ノック・パックサナーウィン「トーン」(奥彩子、鵜戸聡、中村隆之、福嶋伸洋編『世界の文学、文学の世界』、松籟社、2020)など。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社、2017)など。
ウェブサイト: https://www.shofukutomi.info/
Twitter: https://twitter.com/sh0f/

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