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インタビュー「「その他の外国文学」の翻訳者」

第4回 ヘブライ語:鴨志田聡子さん(4/4)

文化のちがい、考え方のちがい
 最終的に、鴨志田さんのなかで『アンチ』の登場人物たちはどういう像を結んだのだろうか。主人公のアンチは「たしかにかわいそうなところもあるけれど、やはり家族に愛されていますよね」。けれどそれをうまく表現できず、かっこうよく見せようとしたり、意地をはったりしてしまう。
 これを翻訳でも表現するために、言葉遣いを工夫しようとした。アンチと同じような少年の登場するアニメなどを見て、「強がるときはこういう口調かな」などと参考にした。また、若者のことばを取り入れられればと考えて、インターネットではやりの表現などを調べて、講師をしている大学の学生に実際に使うかを尋ねるなどした。
 しかし、そうして調べたことばを訳文に反映してみるのだが、編集者からはダメ出しをされる。その理由を「翻訳家の柴田元幸さんが本のなかで、結局は自分のなかにあることば遣いで訳さないと納得できない、という意味のことを言っていたんですね。いい訳語を調べて見つけたつもりでも、自分のなかから出たことばではないので、結局しっくりこない。その通りなんだな、と実感しました」と分析している。
 イスラエル人と日本人の文化や考え方のちがいをどう訳すか、という問題もあった。たとえば、暦の問題。イスラエルには、ユダヤ教の祝日や歴史上のできごとを踏まえた行事や休暇がある。ここを説明しないと、一年のなかでどういう時期なのか、なぜ学校が休みになるのかがわかりづらくなる。一般的には、訳注を入れる方法がある。ただ、この翻訳は「10代からの海外文学」と銘打ったシリーズに入るし、作品のテーマとしても、読者対象は若い人になる。そういう読者にとって訳注はわずらわしいのではないか。訳注はできるだけ入れたくなかった。結局、これぞという答えは出せず、そのときどきで訳を工夫するなり、注を入れるなりの判断をしたそうだ。
 暦の問題などは、知識があれば理解できることではある。しかし、日本人とイスラエル人の文化やメンタリティーのちがいは、訳文だけで伝えるのが難しい。
 「イスラエル人と話していていちばん感じるのは、もうとにかく自己評価が高いんです。日本人のへりくだるとか、謙遜するという感覚が通じないんです。いや、むしろ、たぶん意味もわかってもらえないんではないでしょうか。イスラエルの人たちは、自分はなにができる、ということをはっきり表明するんです。でもわたしとしては、何を根拠にそんなこと言えるの? と時々感じます。小説でも、会話のシチュエーションで考えたとき、なぜこの登場人物は唐突にこんな自信満々のことを言うのだろう? となってしまうと思うんですね」。
 この文化のちがいをどう表したらよいかと頭を悩ませた。それと同時にうまく表して、いまのイスラエルの人の感覚を知ってほしい、身近に感じてほしいということも感じていたそうだ。

本への愛着
 イスラエルのヘブライ語文学を翻訳することにどんな意味があると考えているのだろうか。
 「あまりなじみがないからこそ、訳す意味があると思っています。知らないことを知るのはそれだけで意味があると思います」とはっきりと鴨志田さんは答えてくれた。
 イスラエルが日本で話題になるとしたら、複雑な中東情勢ということが多い。そのため、どうしても少し怖い、というイメージをもちがちになる。鴨志田さんも、留学するまではそうだった。しかし実際に行って、さらに暮らしてみればイメージは変わる。ユダヤ人でもパレスチナ人でも、接していれば身近に感じられる。『アンチ』は、「ごくふつうの思春期の悩み」を取り上げている。イスラエルに行かなくても、この本を読めば彼らのことを身近に感じてくれるのではないかと、鴨志田さんは期待をしている。
 鴨志田さんが本や物語が人に大きな影響をもつと感じたのも、イスラエルでの体験があったからだという。まず感じたのが、イスラエルでは、日本と比べて作家と読者の距離がとても近いということ。作者自身が朗読会を行うことが頻繁で、そこに集まった人たちと作者が気さくな会話を楽しみ、作者は読者の反応をみる。そして、本に対する愛着が高いということも感じたそうだ。ユダヤ人はずっと国がなかった歴史をもつためか、記録や物語が残っていることに安心するのかもしれない、と鴨志田さんは考えている。初対面でも、本や作者のことを話題に挙げるのがふつうだ。同じ本を読んだことがあるとわかれば盛り上がるし、これがおすすめだからと本を贈る。本の内容についてディスカッションもする。自分はここが面白いとか、わからなかったのはここだ、ということを伝えることで、どういう考え方や人柄なのかがわかる。本がコミュニケーションをうながす媒体になっているのだそうだ。それに本を対象にすることで、より自由に意見を表現しやすいのかもしれない。イスラエルのように多様な考えを表明する人が多い国では、大切なことだと言える。
 本を読んで終わりではなく、それをきっかけにコミュニケーションを広げていけたら、楽しいにちがいない。読書の力を感じさせるエピソードだ。
 もうひとつ、鴨志田さんが物語の力を信じるのは、自分自身も救われたという感覚があるからだ。先ほども挙げた『エルサレムの秋』もそうだが、『アンチ』も大切な読書体験になったという。
 「ちょうどキャリアと子育ての両立に悩んでいて、孤独を感じていた時期に『アンチ』を読んだんですね。アンチも、孤独を感じる時期だったわけで、孤独を感じているときに、孤独な人の話を読むのは心に染みました」と振り返る。
 いまは文学にさらに興味が出てきた。社会のことを知るのにとてもいい素材だと感じているそうだ。特に興味があるのは第二次世界大戦後の物語。日本人とユダヤ人は、ちがう地域で生きてきた。ところが、物語で当時のことや、当時の人の気持ちを知ると、日本人もユダヤ人も、同じ時代を駆け抜けてきたんだな、と感じるのだそうだ。「そうした感覚を味わうと、ほかの人に伝えたい、という気持ちが湧いてくるんです」。
 絵本、詩など、訳したいものはいろいろあるという。出版のめどはたっていないが、自主的にいろいろな作品を訳している。
 最後に、イスラエル文学の特徴を鴨志田さんに尋ねた。「同時代の人たちを引っ張っていこう、代弁しよう、このことばで社会をつくっていこうという雰囲気のある、未来志向のことば、文学だと思います」と教えてもらった。未来志向の世界を、どんどん日本に紹介していってほしい。


完成した『アンチ』の翻訳(岩波書店刊)をオリジナル版といっしょにもつ鴨志田さん

ブックリスト)
翻訳の参考になる本
『世界は文学でできている 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義』(沼野充義編著、光文社、2015)
『柴田元幸ベスト・エッセイ』(柴田元幸編著、筑摩書房、2018)
人気の翻訳家、研究者はいい意味で人間くさくて味がある、ということを知れる2冊。
『ナボコフ 訳すのは「私」-自己翻訳がひらくテクスト』(秋草俊一郎、東京大学出版会、2011)
 バイリンガル作家、ナボコフのロシア語版と英語版とを精緻に比較し作品解釈に迫る。

おすすめのイスラエルのヘブライ語文学
『バーデンハイム1939』(アハロン・アッペルフェルド、村岡崇光訳、みすず書房、1996)
ウィーンにほど近いとされる架空の保養地バーデンハイムを舞台に、ナチスによる侵攻を目前にしたユダヤ人たちの暮らしを描く。アッペルフェルドの初期の傑作。
『走れ、走って逃げろ』(ウーリー・オルレブ、母袋夏生訳、岩波書店、2015年)
舞台は1942年のポーランド。少年スルリックは家族と生き別れになったのち、ユダヤ人であることを隠しつつ生き延びる。過酷な放浪の日々だが、どこかユーモアを感じさせるオルレブの筆致はみごと。
『ぼくたちに翼があったころ コルチャック先生と107人の子どもたち』(タミ・シェム=トヴ、樋口範子訳、岡本よしろう画、福音館書店、2015)
ヤヌシュ・コルチャックはポーランドで孤児院を運営した実在の人物。ユダヤ人孤児とともにホロコーストの犠牲となった。コルチャック先生と子どもたちの日々をつづった物語。
『銀河の果ての落とし穴』(エトガル・ケレット、広岡杏子訳、河出書房新社、2019)
現代イスラエル作家として世界的人気のケレットの作品では、不思議なできごとが起こる。鴨志田さんいわく「それも起こりうるだろうなと思わせるのがイスラエル」。

ヘブライ語を知るために
『ヘブライ語のかたち《新版》』(山森みか、白水社、2013)
読みやすいうえに面白くヘブライ文字について知ることができる、手軽な一冊。
『ヘブライ語文法ハンドブック』(池田潤、白水社、2011年)
現代ヘブライ語の文法書として決定版といえる詳しさ。学習の際の手引きとして有用。
『現代ヘブライ語辞典(改版)』(キリスト聖書塾編集部編、日本ヘブライ文化協会、2006年)
活用表、文法解説も付いており、日本語で参照できる辞書としてちょうどよい。巻末のピクチャーディクショナリーがおすすめ。

イスラエルを知るために
『イスラエルを知るための62章[第2版]』(立山良司編著、明石書店、2018)
イスラエルの歴史、政治、経済、文化など全般についてまとめた、最初に読むべき一冊。
『Pen BOOKS ユダヤとは何か。 聖地エルサレムへ』(市川裕監修、CCCメディアハウス、2012)
 豊富な図版とともにユダヤ教、ユダヤ人の歴史を解説。
『ユダヤ人とユダヤ教』(市川裕、岩波書店、2019)
日本におけるユダヤ研究の第一人者が、ユダヤ人を歴史、信仰、学問、社会の視点から解説する。


(聞き手・構成:webふらんす編集部)

【お話を聞いた人】

鴨志田聡子(かもしだ・さとこ)
日本学術振興会特別研究員、東京外国語大学他講師。1979年、静岡県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。専門は社会言語学、ユダヤ人の言語学習活動。著書に『現代イスラエルにおけるイディッシュ語個人出版と言語学習活動』(三元社、2014)、『イスラエルを知るための62章[第2版]』(共著、明石書店、2018)、『Pen BOOKS ユダヤとは何か。』(共著、CCCメディアハウス、2012)。翻訳家としては『アンチ』(ヨナタン・ヤヴィン、岩波書店、2019)でデビュー。

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