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インタビュー「「その他の外国文学」の翻訳者」

第3回 ヘブライ語:鴨志田聡子さん(3/4)

最後まで難しかった韻
 『アンチ』は14歳の少年、アンチを主人公にした物語だ。イスラエルの大都市、テルアビブに両親と暮らすが、叔父さんが自殺してしまったことをきっかけに、家族とぎこちなくなってしまったし、学校でうまく振舞えない。そんなとき、ヒップホップと出会い、ラップにのせて自分の思いをぶつけられるようになる。こういう筋書きだ。
 ラップを題材にしているのが特徴的で、ラップバトルのシーンがあれば、セリフにラップが混ざりこんでくることもある。そこで気になるのが、ラップの訳し方だ。
 ラップは、あるリズムパターンにのせて、数小節の中で歌詞を歌い上げる。ヒップホップの中で重要な役割をもっている。ラップの歌詞は韻を踏むことが必要、かつそれが特徴で、歌詞をあらかじめつくる場合も、即興でつくる場合もある。いずれも自分の感情をいかにぶつけるかが大切なので、この物語でもラップの部分で強いメッセージが出てくることがある。その点でも、作品を左右する要素だろう。
 やはり、韻を踏むように訳すのはかなり手間がかかったそうだ。常に頭の中で似たことばを探す。とにかく辞書を引く。漢字の熟語で探していくという工夫もしてみた。担当の編集者がラップ好きで、かなり助言や提案をしてくれた。ラップの部分は共同作業だという。
 それでも、もとの単語の意味をもたせたまま日本語で韻を踏むことができない場合があった。その場合は内容が伝わることを優先して、もとの単語の意味合いを切り捨てざるをえなかった。
 こうして毎日、韻を踏むことを考えていたので、ふだんの会話でも韻を踏むことを意識してしまうようになったと鴨志田さんは笑う。「うまくいくとスカッとするんですよ。アンチが韻と一緒に心の中を表現しているのを見ていたら、言いたいことが言える、言いたいことを言おうとするようになれたんです」と話す鴨志田さんの顔は気持ちよさそうだ。

登場人物はイスラエル社会を映す鏡
 内容の面での苦労はどうだろうか。物語が後半に差しかかると結末が気になり、「ニンジンをぶらさげられた馬のように一気に最後まで読み進めました」とのことで、作品自体にはぐいぐいと引き込まれた。しかし訳してみると、最初は主人公のことがよくわからず、苦労したと振り返る。
 この作品は主人公、アンチのひとり語りの形をとっている。冒頭から「リサチームのことは知ってるよね? 知らないの? じゃあ、話さなくちゃね」と自分のことをどんどん話していく。確かに、いきなり何の話だろうという印象を受ける。鴨志田さんにとって、14歳の男の子というのが、身近でない存在ということもあった。
 また、リサというヒロインが登場するのだが、彼女はアンチとはまたタイプが異なる。ラップチームのリーダーの方針に対して、ひとりでも信念をもって反対する。聡明さと強さをもっているといえるが、なぜリサはこんなに強いのだろう。その設定として都合がよすぎないか。登場人物たちのキャラクター設定がうまく定まらなかった。
 この悩みを解決してくれたのは、作者のヨナタン・ヤヴィンさん本人である。鴨志田さんがイスラエルを訪れた際に、翻訳権を仲介するエージェンシーに挨拶に行った。すると、近くに原作者が住んでいるから会ってみるか、と紹介してもらえたのだ。突然の機会だったが、翻訳で迷っていることをいろいろ尋ねることができた。ヨナタンさんも日本で自分の作品が翻訳されるのがうれしいらしかった。疑問をぶつけると、「いや、それはね…」と積極的に答えてくれた。
 たとえば、ボーイスカウトということばが出てくる。しかしその文脈でこの語を出して何を言いたいのかがわからず、作者に聞いてみたところ、イスラエルではボーイスカウトにはオタクっぽいイメージがあると教えてもらった。イスラエルでは男性はマッチョたるべしというイメージが強いが、その逆の像になるわけだ。
 ではリサの強さの秘密はどうか。リサはロシア系の移民で、貧しい地域に暮らしているという描写がある。実はそれが鍵で、彼女のような子どもたちは早くから自立心をもつ。なので、リサも強い少女として描いているという答えがヨナタンから返ってきた。これは実際にイスラエルでよくあることで、鴨志田さんにも思い当たる経験があった。10代でイスラエルに移住し、不安定な生活基盤の中で育ち、ものすごく強い芯を持つ友だちがいたのだ。自分の経験と、登場人物とが結びついた。
 原作者とカジュアルに、しかし充実した相談をできたことで、その後もわからないことを尋ねられる関係を築けた。「質問して答えてもらったらまた質問して、という感じで、テニスのラリーみたいでした」とのことで、かなり数を重ねた。鴨志田さんだけでなく、ヨナタンさんの熱意のほどもうかがえる。
 リトアニアのイディッシュ語講座で知り合ったクラスメイトの存在も励みになった。ポーランド人の友人で、再会すると翻訳家として活躍していた。出会ったころすでにヘブライ語に堪能だったのだが、さらに頼もしい先輩に思えた。ヘブライ語ならではの表現に苦戦していると「日本語ではこういう表現はないかな、とか考えてみるんだよ」などと相談にものってくれたという。
 周りの人たちから刺激を受け、『アンチ』翻訳にかける熱意が復活した。


『アンチ』の作者、ヨナタン・ヤヴィンさんと


イスラエルに留学して最初のルームメイトと。彼女から生活の仕方やヘブライ語、エチオピア系ユダヤ人について教わった

>次のページ:イスラエルのヘブライ語文学を翻訳する意味


(聞き手・構成:webふらんす編集部)

【お話を聞いた人】

鴨志田聡子(かもしだ・さとこ)
日本学術振興会特別研究員、東京外国語大学他講師。1979年、静岡県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。専門は社会言語学、ユダヤ人の言語学習活動。著書に『現代イスラエルにおけるイディッシュ語個人出版と言語学習活動』(三元社、2014)、『イスラエルを知るための62章[第2版]』(共著、明石書店、2018)、『Pen BOOKS ユダヤとは何か。』(共著、CCCメディアハウス、2012)。翻訳家としては『アンチ』(ヨナタン・ヤヴィン、岩波書店、2019)でデビュー。

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