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往復書簡 姜信子×山内明美「忘却の野に春を想う」

第二十三信 姜信子より「すんなら じょろりば 語りましょうかい」

山内さん

 冷たい雨が降っています。今日は10月17日。山内さんからの前便を受け取った8月30日はまだ灼けつくような猛暑だったというのに、秋を一気に飛び越えて、今日はもう冬の雨です。
 お返事すっかり遅くなりました。
 ここ一か月余りの間、瀬尾夏美(文章と絵)&小森はるか(映像)という二人の表現者1を、仙台から今や私の根拠地になっている奈良・大阪に迎えて映像と語りの「場」を開くために、動きまわっていました。そして、いよいよ二人を迎えた10月11日~14日、この4日間は、集った人びとと共に日ごと夜ごと飲んで食って語らったのでした。時には「異人(まれびと)たちの宴」と称して歌ったり踊ったりもして。これは、彼女たちが東日本大震災このかた陸前高田を足場として経験してきたこと、感じたこと、考えたこと、そこから見えてきたことを「場」に集った者たちが受け取り、分かち合い、自分たちなりにつなげていこうという、ささやかな実践の試みでした。
 たとえば、それは、被災地のいわゆる利権まみれの「復興」ではなく、真の意味での「はじまり」をそれぞれに問うことでありました。「はじまり」とともにあるものとして、「芸能(あるいは祈り)」、「異人(まれびと)(あるいは逸脱者)」というようなことをも語りつつ2、厄払いと予祝の芸能である伊勢大神楽3、韓国の遊芸者たちが年のはじまりに歌う厄払いの歌4も登場しつつ。
 さらには、力ずくの「復興」の記憶の下に埋められてゆくばかりの、人々の「喪失」と「はじまり」の記憶に耳を傾け、記憶の継承の「場」を開いてゆくことについても、私たちは語り合いました。記憶の当事者ならぬ私たちが、当事者ではないからこそ、語り合うべき大切なこととして。
 ささやかだけど、豊かな、つながりの時間でした。
 その一方で、ごく個人的なことでありますが、8月半ば頃から今まで、横浜での独居生活が困難になった母を、私の住む奈良の有料老人住宅へと移住させるために駆けずりまわってもいました。
 八十五歳の母にとっては終の棲み処になるかもしれない場所です。でも、選択の余地はそうありません。いや、お金さえ出せば、それなりのところもあるにはあるんですけどね、在日の老人にはままあることですが、年金受給資格もなく、つい最近まで働きづめの綱渡り人生を送ってきたわが母の場合は、家賃・食費・水道光熱費込みで月額10万円前後で入居できる施設を探すほかなく、ここでも持てる者と持たざる者の間できっぱりと分断の線が引かれていることをつくづくと思い知ったのでした。
 安いというのは、その分手をかけないということです。できるだけ手薄な仕組みで施設がまわっている。しかも、その仕組みには、施設かかりつけ病院、かかりつけ薬局、かかりつけ居宅介護支援事業者が組み込まれている。介護ビジネスという一大産業の一端に触れた思いでした。
 手薄な介護の施設に幽閉されているかのようにして暮らす、”生産性ゼロ“の老人たちから生み出される経済効果を思うとくらくらしました。老人たちを収容する施設のありようは、本質的に津久井やまゆり園のような障害者施設と変わるところはどうやら何もない。その周囲ではお金がぐるぐる回っている。心が苦しくなるような気づきでした。
 “生産性ゼロの存在”そのものにかけるお金は、この国では政策的にどんどん削られていくばかりです。どんな「命」もかけがえのない「命」として手間暇をかける、手厚い介護体制を支える仕組みなど成り立ちようもない。あのALS患者嘱託殺人の背景にも、命の尊厳を損なう介護体制しか組めないという、あまりに酷い現実がありました。「青い芝の会」の頃から今に至るまで、闘わなければ殺される、それが私たちを取り巻く現実ですね。
 幸か不幸か、母にも私にも社会的協調性というものがありません。言われるままに黙って周囲の大多数の人々に協調していたら生きていけないような場所が、いわゆる在日の生きている場所でしたから。当然、母は一週間経っても、十日経っても、施設の静かな住人にはならない。「このままでは足腰立たなくなって、ボケて、死んでしまう」と声をあげつづける。私は私で煙たがれながらなにかと施設に顔を出し、母を外に連れ出す。さらに、介護保険でもなんでも使えるものは最大限使って、できるかぎりのサバイバル策を講じる。焼け石に水、ですけどね、それでも水はかけつづけたほうがいい。ごまめは歯ぎしりをしつづけたほうがいい。みずから幽閉に安住する諦めの虜囚などには絶対にならない。
 「お母さん、殺されないために闘うからね」「わかった、あたしも闘うよ」。
 これはつい昨日、10月16日の不穏な母娘のやりとりです。
 そして今日は、10月17日。東京のどこかで、「不沈空母」「単一民族」「黒人の知的水準」といった語録や、「土人女を集め慰安所開設」という手柄話を持つ元首相の国葬めいたものが行われていました。もちろん追悼なんかしません。新自由主義へと、歴史修正主義へと、格差社会へと、弱者切り捨てとマイノリティへのヘイトが堂々と繰り広げられる状況へと、この社会の空気と仕組みを変えてゆく最初の一歩を踏み出した者の追悼など……。
 むしろ、その変化の中で声もなく切り捨てられ、名もなく葬り去られてきた無数の死者を想い起こしたい、追悼したい、できることならその一人一人の名を呼んで。今日は、いつにもまして、切実にそう思ったのでした。

 無数の死者を想えば、私もまた、山内さんが触れていた「A-非A」の問題へとおのずと意識が向かいます。
 前便(22信)で山内さんが「非人」をめぐって語ったこととほぼ同じことを、これから私は別の表現で語るような気もします。
 21信で私は、詩人谺雄二の「らい」と「非らい」の話をしましたね。「健常者」を「非らい」と名づけなおすことで、人間世界の涯に追いやられていた「らい」こそが世界の中心に立つのだ、というように。しかし、これは、山内さんもお気づきのように、非常に注意を要する表現です。
 実のところ、詩人谺雄二が自身を「らい」と言い、みずからを「らい」と名づけた他者を「非らい」と呼び返す時、谺さんのこの「らい」こそが石牟礼さんの言うところの「非人(かんじん)」と響き合う言葉であり、「らい」も「非人(かんじん)」も、世界の果てからこの近代世界を見つめ返す存在として、そこにあるのだと私は思っています。

 真ん中にただ一つだけ、強大な中心がある。その中心に立つ者たちの想像力によって形作られた世界がある。そしてその周縁に身を置いて生きる無数の人々がいる。〈1対多〉の非対称の関係。これは〈名づける者〉と〈名づけられる者〉の関係と言い換えてもよいでしょう。この非対称な関係の上でまわっているのが、私たちの世界でありましょう。
 谺さんの「らい」といい、石牟礼さんの「非人」といい、それは、本来的には中心に立つ者の想像力によって周縁に追われた者たちの呼び名です。ところが、みずからを名づけなおし、(あるいは、他者からの名づけを逆手にとって、もうひとつの意味をその名に読み込み)、自身の立つ場から世界を見つめかえすならば、(その意味において、自身が世界の中心となるならば)、そして、そこに複数の想像力が並び立ち、複数の声が響くならば、ついに周縁はただ一つの強大な中心への闘いの足場となるでしょう。それは、「らい」が経験し、「水俣」も今なお経験している、私たちもよく知るまことに厳しい闘いの足場です。
 その闘いは、たとえて言うなら、たった一つの中心、たった一つの想像力で支配されている世界に、周縁から無数の想像力で、無数の穴(=中心)を穿っていく闘い。
 無数の中心は、中心という概念そのものを無化するでしょう。
 その無数の穴にこそ「もうひとつの世界」が孕まれるでしょう。
 世界に穿たれた無数の穴から、歌が生まれ、詩が生まれ、語りが生まれ、千年先までをも眼差す文学が生まれることでしょう。
 そんな詩や語りの一つが、らいの詩人谺雄二の詩であり、『苦海浄土』の石牟礼道子の語りなのでしょう。
 そして、何より大事なこと。谺雄二の詩も石牟礼道子の語りも、その声自体が既に自他の境を超えた複数の声でした。彼らは無数の死者たちの声をおのれの声に潜ませていました。その意味で、どうしたってただ一つの中心にはなりえない声です。
 あるいは、こう言ってもよいかもしれません。生と死のあわいに静かにひそかに響き合う複数の声、複数の想像力が彼らの身体には宿っている。彼らの身体自体が既に開かれた語りの「場」なのであると。
 世界に穿たれる「穴」とは、自他を超え、生死を超え、時を超え集う声たちの「場」でなければならないのです。

 「らいの村」は谺に言わせれば「人ならぬ鬼棲む村」でした。「らいにかかって一度は死んで」、なおもその絶望的な死(=社会的な死)を生きつづけて、終にふたたびの死(=肉体的な死)を迎える者たちの村でした。そうやって二度殺された死者たちが、たえず囁きかけるのだと谺は言いました。鬼の村で終に死んで、村のはずれの地獄谷を望む原っぱで火葬されて、拾い集めきれずに土の上にばらまかれた細かな白い骨片が、踏まれるたびにシャリシャリ歌う、その死者たちの声で谺の詩は書かれたものでした。5
 一方、石牟礼さんは、近代の毒を盛られた水俣の渚の村を「神々の村」と呼びます。それは『苦海浄土』第二部のタイトルでもありますね。「鬼の村」も「神々の村」も、近代の論理しか知らぬ者たちにとっては、究極の「生産性ゼロ」の村にすぎません。でも、そこには、近代の論理を食い破る「鬼」の声がある。「非人」の想像力がある。無数の「死者」たちの声と想像力をわが身に抱き、「もうひとつの世界」を眼差して、その過酷なはじまりの場となる「語り」を立ちあげる者がいる。

 と、ここまで書いてきて、あらためて、石牟礼さんの「非人(かんじん)」は「神々」とともにある「非人」なのだと、深く思い至ります。しかも、その「神々」とは、明治の世に、急ごしらえの近代国家に資することのない淫祠邪教として打ち壊されたり、国家と深く結びついた大きな神によって封じられたり、国家の神話の神の系列の名へと改名を強いられたり、鳥獣虫魚草木の類と踏みにじられたり殺されたりした、風土の名もなき小さな神々やその係累とでも言うべき存在たちです。
 『苦海浄土』第二部のタイトルが「神々の村」であること、そして、その第一章「葦舟」において、胎児性水俣病患者の杢太郎少年の爺やんが、「杢よい、杢よい」と呼びかけながら身動きもままならぬ杢太郎少年に、「ひとのことも、わが身のことも、なんにもでけん、おひと」である「ふゆじどん」の物語を語り聞かせること、そのことの意味深さを私は思わずはいられません。

 むかし、むかしなあ、爺やんが家の村に、ふゆじの天下さまの、おらいたちゅう。
 なして、ふゆじどんにならいたかちゅうと、三千世界に、わが身ひとつを置くところが無か。辛かわい、辛かわいちゅうて、息をするのも、世の中に遠慮遠慮して、ひとのことも、わが身のことも、なんにもでけん、おひとになってしまわいて、ふゆじの天下さまにならいた。(中略)あんまり魂が深すぎて、その深か魂のために、われとわが身を助けることが、できられんわけじゃ。のう、杢よい。
 ちょうど、お前のごたる天下さまじゃのう。
 それでまあ、わが身のこともなにひとつ、わが手で扱うことはできられん。そのふゆじどんが、道ばたに寝ておられれば、爺やんが家の、村の者どもは、
 ――ふゆじどん、ふゆじどん。お茶なりと、あげ申そかい。
 という。
 (中略)
 霜月の田の畦(くろ)にでも寝ておられれば、村の者どもはもう、おろおろ、おろついて、
 ――なんちゅうまあ、こういう所に、黙って曲らいて、体のさぞかし傷(いた)まいたこつじゃろう。はよはよ、寝藁ば小積んで寝せ申せ。(中略)
 ――まあ、寒かったろ、寒かったろ、こういうひとを打ち捨てておいては、わが身を捨てるもおんなじことじゃ。罰かぶる、罰かぶる。
 ――ああ、後生の悪か、後生の悪か
 ちゅうて、村のもんどもは、拝まんばっかりにする訳じゃ。

 と、杢太郎少年の爺やんは「ふゆじどん」の物語を語りだすのですが、これはまさしく、この世のはずれの野の草のような小さき「神」の物語であり、「杢太郎」の物語であるわけです。村の者どもがふゆじどんに積んで差し上げる寝藁などは、その昔、天草では、「ただのときは敷くことはでけん掟」のもので、そうしておろおろと神を歓待する村人たちの光景はそのまま、おろおろと水俣病を病んだ子どもたちを愛情深く育む爺やんたちの光景です。
 おそらく、杢太郎の爺やんは、この「ふゆじどん」の物語を実際に石牟礼さんの前で語ってはおりますまい。きっと、この物語は、石牟礼道子という生身の「語りの場」に降り立つ無数の死者たちが石牟礼道子の声を借りて語りだしたものにちがいない。
 名もなき神々が降り立つ「場」を開くということ。それも神々の数だけ、果てしなく、無数に開くということ。とつとつと神々が語りだす、その語りの場として、神々が歌い踊る、その宴の場として、おろおろとわが身を差し出すということ。
 これは、ますます無惨なこの世界に生きる私が、みずからの生き方として、石牟礼さんから受け継ぎたいと願っているものです。
 そして、名を奪われた死者たちと共に、命が命として生きるべき世界をありありと想像すること。つねに死者たちと共に語ること。これは、谺雄二から受け取った無言の遺言でした。

 確かに、世界はとことん理不尽です。周縁から、自身の立つ場から、どんなにこの世界を見つめかえそうとも、複数の想像力をもって複数の声を響かせようとも、この理不尽は、人間の短い一生をもってしてはなかなか闘いきれない。いかにこの不可能な闘いをつないでいくか? それをするには、近代の論理と言葉では、どうしても限界がある。連帯・解放・組織・自立・関係性・当事者性……、このような近代市民的な言葉に触れるたび、私はジョン・ケージのこんな言葉を想い起こします。「〈論理〉という項目のもとに私達が構築しているすべてのことは、出来事や実際に起きることに比べて非常に単純化されたことを表しているので、むしろ私達はそれから身を守ることを学ばなければならない。それが芸術の役目なんです。」それこそが、国家との闘いの中でハンセン病回復者として市民運動の理論的支柱となり、詩を書かなくなっていたらいの詩人谺雄二に対して、「いまひとたび、今こそ、詩を」と私が切実なる声で呼びかけた理由でもありました。
 一見のどかな昔語りのような「ふゆじどん」の物語もまた、有機水銀という近代の毒を盛られて生まれた子らを、無力を極めた神とする、それも近代の終わりとはじまりの間に生まれ落ちた蛭子/恵比寿の如き神とする、まことに苛烈な詩であり、神話です。この神々を歓待することができなければ、はじまりはけっして訪れないでしょう。だからこそ、私たちには近代的な論理や因果論を超えた「詩/うた」が必要なのです。

 振り返れば、三十年も前に初めて石牟礼さんと出会った頃、石牟礼さんは静かな声ではっきりと、「滅びろ、滅びろ、人間の世は滅びろ」と呪文のように語っていたのでした。そのとき、いろいろな意味でまだ若かった私は、今ならまだ間に合うかもしれない、なにかできるはずだ、と根拠もなく信じていました。その一方で、故郷とか風土とか村共同体とかいうものの実質を知らない、都市の根無し草の一族に生まれた私には、石牟礼さんの語り伝える水俣の渚の光景は、その悲惨さも、高貴さも、けっして美しいばかりではない人間の姿も、どこまでも神話のようでもありました。仰ぎ見る天の声を聞くような思いがしたこともありました。
 今では、私も、人間はやはり滅ぶしかないのだろう、もう取り返しのつかないところまできているのだろう、と思っています。私たちは「近代の業」を行きつくところまで生き抜いていかねばならないのだろうと。
 そう思いつつも、石牟礼さんが『苦海浄土』で語り伝えた「近代の業」を一身に引き受けた人々の織り成す光景は、私には今でも神話なのです。滅びを滅びとして受けとめるための、もうやってこないかもしれない「はじまり」をけっして手放さないための、最後の神話、空恐ろしい神話。それはかけがえのない贈り物です。でも、それだけでは足りない。そこにとどまるわけにいかない。
 私は私として、この世の無数の中心の一つとして、大きなつながりのなかにある一個の命として、私の大切な死者や生者たちの声を聴きながら、彼らと共に生きているこの場所で、私と彼らの想像力を紡ぎ合わせて、滅びへと私たちを引きずりこんでゆく者どもに抗して、私なりの「はじまり」を立ち上げるほかはないのですから。
 で、具体的に何をするのかって?
 山内さんもよくご存知のように、ここ数年、山伏と二人、〈旅するカタリ〉と称して、ささやかな「語りの場」を開く旅をしてきました6。〈野生会議〉だの、〈アナーキーin水俣〉だの、瀬尾&小森の二人組を招いて〈異人たちの宴〉だの、そのときどきでくるくる変わる看板を掲げては、このままでは断ち切られていくばかりの私たちが互いにつながり合うための「場」を開くことを企んだりもしました。とはいっても、集まって飲んで食って歌って踊って語り合って遊ぶだけのことなんですけどね。でも、それでいいんです。そこから、「滅び」を超えて生きてゆくための私なりの「はじまり」の試みがはじまるんです。
 試行錯誤のうちに気づいたことが、一つ。「場」を開くということ、それ自体がとても大事なことなのでした。その「場」を開くにあたって、何らかの明確なテーマや目的意識のようなものは、むしろないほうがよいかもしれない。そこには、ただ、無数の死者や生者の声で幾たびも語りつがれ、そのたびに息を吹きこまれ、そのたびに生まれ変わるような物語があってほしい。その物語は、語る者聞く者たちの祈りの器であってほしい。
 (ええ、私はいまこうして語りながら、かつて芸能者たちが物語を携えて旅をして、その土地土地の人々の声と想像力と祈りを受け取っては様々に物語を変容させていったという、今は失われた「声」の記憶、「旅の語り」の記憶をことさらに呼び起こしています)。
 「〇〇集会」のような「アジテーションの場」ではなく、「アジール/無縁所」であるような「場」であることが大事。そのような「場」が、地を這う苔のように、粘菌のように、カビのように、胞子を四方に飛ばして、菌糸を縦横に這わせて、ゆるやかにつながりあって増殖してゆくことが大事。

 そういえば、石牟礼さんは『苦海浄土』講談社文庫版のあとがきに、こう書いていますね。
 「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である」
 ここで石牟礼さんが言う「浄瑠璃」とは、華やかな舞台で演じられる人形浄瑠璃文楽のようなものではなく、かつて水俣あたりにやってきた瞽女や祭文語りのような旅芸人たちが語った昔ながらの物語のようなもの。『苦海浄土』とほぼ並行して取りかかり、二十年がかりで一九八八年にようやく刊行された『西南役伝説』には、水俣の丸島の祇園さんの祭りの頃にやってくる年老いた瞽女、「六道御前(ろくどうごぜ)」の物語が収められています。

 自分の親とは、あの世とこの世に分かれて、三界火宅のみなし子が、かかさんや兄者を思い出そうとすれば、じょろり(浄瑠璃)ことばで思い出す。じょろりがわたいやら、わたいがじょろりやら。

 乞食非人の六道御前が、西郷いくさ(西南役)このかたのおのれの人生行路を語りつつ、ぽろりと口にするこの言葉こそ、語る者も聞く者もその人生を溶かしこんでしまう「語り」の秘密であり、声によって開かれる死者も生者も集う「場」の秘密をこれ以上に物語るものはないでしょう。「六道御前」は、本当は琵琶を抱えて物語を語って旅する者になりたかったという石牟礼さんが呼び出した、もう一人の石牟礼道子のようにも思われます。かつて、狐になりたい童女でもあった石牟礼さんは、「六道御前」にその思いを託して、こんな言葉も書きつけているのです。

 もしや生まれ替わるなら、こんだは、六道じゃなしに、葛の葉ちゅう名をつけて貰うて、あの人と一緒に、よか世に逢おう如(ごと)ある。あたや六道よりこっちの名が好きじゃ、葛の葉が。
 すんなら、じょろりば語りましょうかい。

 ここで六道御前が口にする「葛の葉」とは、日本の物語の原型と言われる「五説経(山椒太夫、信徳丸、刈萱、小栗判官、信太妻)」のうちの「信太妻」から生まれた物語群の一つ、狐の「葛の葉」の物語です。人間に化身した狐の葛の葉とその子の童子丸(のちの陰陽師安倍晴明)の別れの段(くだり)は、瞽女が好んで語ったものでした。葛の葉に生まれかわりたいと願う六道御前、すなわち石牟礼道子は、「すんならじょろり(浄瑠璃)ば語りましょうかい」と物語のはじまりを告げる言葉で「六道御前」の物語を閉じます。これを私は石牟礼さんの覚悟の言葉と聞きました。いまこそ、現世(うつしよ)の生身の石牟礼道子自身の「浄瑠璃(じょろり)」の場が開かれるのだという……。
 さてさて、こうして書き綴っているうちに、またまた話が止まらなくなってきました。私からの山内さんへの手紙は今回で最後だというのに、本当に困りました。私は、石牟礼さんとは別の場所で同時代を生きて近代を問いつづけた森崎和江さんのことも、山内さんと語り合いたかったのでした。私にとって、石牟礼さんの声が「天の声」のように響いたとすれば、森崎さんの声は「地の声」でした。森崎さんの歩いた道をなぞるようにして歩く自分に気がついて、ハッとすることもたびたびあったのです。でも、この話は今日はここまで。
 東北のことももっと聞きたかった。(昨年案内していただいた気仙沼リアス・アーク美術館の常設展「東日本大震災の記録と津波の災害史」は、私にとって忘れがたい東北への扉の一つでした)。
 土と農と命のことも、もっと語り合いたかった(こんな喩えしかできず恥ずかしいのですが、この一年、ほんの少し土に触れただけで、それはとてつもなく長大で深淵な書物のように思われ、私はまだその目次のほんの数行しか読んでいないことを悟りました)
 風土と復興と芸能のことも語り合いたかった。(来年こそは南三陸に! 田束山に!)。
 分断を超えて、違いを超えて、つながり合うことについても……。(こうして語り合う姜-非姜、あるいは、山内-非山内のゆるやかなつながり、これはとても嬉しい)
 こんな世の中です。問うべきこと語るべきことは浜の真砂の数ほどもありましょう。その一方で、浜の真砂の目眩ましにやられさえしなければ、われらが為すべきことは、実はそれほど多くはないはずだ、とも私は思っています。
 ともかくも、また、きっと会いましょう。来年3月14日は水俣の桜の下で宴を!
 そして、私からの最後の手紙を結ぶのは、この言葉のほかはありますまい。もはや、私は、私のじょろりを語るほかないのですから。
 「すんなら じょろりば 語りましょうかい」

2020年10月17日
心に静かに闘いの炎を灯す夜に
姜信子


1 陸前高田森の前地区の巨石「五本松の岩」の上に立つ瀬尾夏美(左)と小森はるか(右)
瀬尾夏美さんの『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』(晶文社)は第7回鉄犬ヘテロトピア文学賞を受賞。小森はるか監督の映画『息の跡』にもまた、はじまりの荒野に生きる人間の姿。


2 「五本松の岩」は復興事業の一環である土地の嵩上げ工事により、森の前地区とともに埋められることになり、森の前の人々が集落の記憶と共にある岩にさよならをしようと、岩を囲んで盆踊りをした。この岩が埋められる前に、この地区の“徳さん”と呼ばれる青年がいきなり「五本松神楽」なる神楽を創り出しもした。

3 10月11日の「異人(まれびと)たちの宴」と称する集いでは、瀬尾&小森による「五本松の岩」を囲んだ盆踊りの映像を観た後に、旅する文化人類学者神野知恵さんによる『悪魔を払う獅子 伊勢大神楽』の映像も観て、「おわり」と「はじまり」と「芸能」を語り合う場が開かれた。その映像はここでは紹介できないので、代わって写真を。


① 岡山県瀬戸内市牛窓での回檀(2020年7月神野知恵撮影)


② 岡山県瀬戸内市牛窓での回檀(2020年7月神野知恵撮影)


③ 瀬戸内海塩飽諸島本島での回檀(2019年9月神野知恵撮影)

●伊勢大神楽のみならず、東北の廻り神楽のように、修験者たちによって各地に運ばれ、土地土地の風土とともにある神楽もまた、遠い昔の「はじまり」の記憶を持つ。そして新たな「はじまり」は、新たな神楽を呼び出すのかもしれない。

 

 4 韓国の伝統の語り芸パンソリのソリクン(唱者)安聖民(あんそんみん)による、액맥이타령(厄祓いタリョン)

 


5 谺雄二をはじめとするハンセン病療養所の十人の詩人たちによる『骨片文字』という詩集がある。詩人村松武司編による。1980年刊行。村松は序文にこんなことを書いている。「奪われた人間がかろうじて主張しようとするわが生が、詩となる。かぼそく、小さな生の声であり、じつはそのことが、他の何者もなしえなかった大きな主張=全体的回復への渇望の声となる。いま、草津の「つつじ公園」、碑のそばに立つと、足もとの赤土に白く乾いた小石のようなものの散乱をみる。掌にのせれば軽い。それは無数の骨片だ。砂礫のように小さなものが、生者と死者の共有の記憶である。それらが文字となってなお残ろうとする」

 

6 〈旅するカタリ〉による今様祭文「ふゆじんどん」です。これは、焼酎を飲んで、広げた胡座の中に杢太郎少年を包み込んで、夜の不知火海を渡る舟のように揺れながら「杢よい」と語りかける爺やんの物語です。この物語の中で、爺やんは「ふゆじどん」を語りだします。 〈旅するカタリ〉は石牟礼さん原作の一連の「語り」を「不知火じょろり」と名づけて演じています。

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著者略歴

  1. 姜信子(きょう・のぶこ)

    1961年、横浜市生まれ。著書に『棄郷ノート』(作品社)、『ノレ・ノスタルギーヤ』『ナミイ 八重山のおばあの歌物語』『イリオモテ』(岩波書店)、『はじまれ』(サウダージブックス)、『生きとし生ける空白の物語』(港の人)、『声 千年先に届くほどに』『現代説経集』(ぷねうま舎)、『平成山椒大夫 あんじゅあんじゅさまよい安寿』(せりか書房)など多数。訳書に、ピョン・へヨン『モンスーン』、李清俊『あなたたちの天国』、カニー・カン『遥かなる静けき朝の国』、編著に『死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集』(みすず書房)など。17年『声 千年先に届くほどに』で鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。路傍の声に耳傾けて読む書く歌う旅をする日々。

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