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往復書簡 姜信子×山内明美「忘却の野に春を想う」

第二十二信 山内明美より「近代の業と『非人(かんじん)』」

姜さん

 今日も仙台の青葉山からこの手紙を書いています。
 今年の7月もまた、鹿児島と熊本が豪雨災害に見舞われました。球磨川流域でも大規模な氾濫があり、芦北、水俣周辺、天草での復旧活動が今も続いています。韓国や中国でもかなり深刻な水害の様子が報道されました。
 連日の大雨が続く中、「今年は梅雨明けしないんじゃないか」とささやかれもしましたが、8月からは一転猛暑が続き、「残暑お見舞い」の便りが届くお盆明けだというのに、16日には浜松で41.1度という観測史上最高気温の記録になり、同日の米カリフォルニア州デスバレーでも54.4度を記録しました。デスバレーはその名の通り、死の谷のことで、高気温になることが知られていますが、それでも50度を越えるのは100年ぶりだそうです。COVID-19のパンデミックといい、地球が人類をふり落とそうとしていることを切実に身体で感じる時代です。
 私の青葉山暮らしは3年目になりますが、この間、仕事場にも住まいにもエアコンも、扇風機も置かない暮らしをしてきました。夏はそれなりに暑いのですが、ハンカチと扇子でなんとかやり過ごしてきたのです。隣県の福島原発事故はまだ終息してはいないし、なによりも青葉山の木々が精いっぱい助けてくれるからです。しかし、このお盆に至って、仕事中に朦朧としてしまい、どうにも辛くなって、研究室と住まいにひとつずつ扇風機を入れることにしました。9月を目前にして、だいぶ涼しくなり、今はすこしほっとしています。姜さんの暮らす奈良方面はまだ猛暑が続いているでしょうか。
 この夏の暑さは、加速的に人類を苦しめる大きな課題になっています。
 エアコンがなければこの凄まじい暑さを凌ぐことができないけれども、電気を使えばさらなる温暖化は免れない。もちろん、今のままでは良くないことを誰もが気がついている。でも何もできない。ずっとこの繰り返しだった。最後通牒を受け続けながら、この状況が改善できなければ、“環境非人”はあふれ続け、明日なき世界です。もはや選択の余地なく、大多数のひとびとが、都市から強制離脱せねばならない時代が来るのかもしれません。
 さらに今年は、核廃絶元年になるはず・・の2020年でした。
 8月6日と9日に広島と長崎で読まれた総理大臣の追悼文は、被爆地が憤りを隠せないほどの無味乾燥なものでした。この唯一の被爆国は、国連への核兵器廃絶決議を提案しつつも、核兵器廃絶条約の批准については回避しつづけて来ました。どんな国のひとびとよりも、原子力爆弾の恐ろしい現実を知りながら、この国の戦後は、アメリカの傘の下で、核に対する曖昧な立場を貫いてきたとも言えます。このことが、福島第一原発事故へまっすぐにつながっていることは、明白だと思います。敗戦から75年を迎え、戦争の記憶が遠のいています。忘却の中にあって、平和の担い手をどう育てていけるのか、そんな議論さえ大きく取り上げられることもありません。被爆者救済も途上のままに、また再軍備の足音が聞こえています。もう二度と戦争はしないと、あれほど誓ったにもかかわらず。ここにも、置き去りにされたままの“戦争/被爆非人”の姿が見えます。そんな夏でした。
 それともうひとつ。姜さんと津久井やまゆり園での殺傷事件のやりとりをしているこの最中にも、ALS患者の嘱託殺人事件が起こりました。事件の内実についてまだ真相が明らかではないので、続報を待ちたいと思います。

 前々回の私の手紙で触れた青い芝の会の横田弘さんによる「CP者の行動宣言」と、前回の姜さんの手紙のらい詩人集団による1964年の「宣言」がとても似通っていたのでちょとびっくりしましたが、同時代での影響関係や、同様の動きが他にもあったのかもしれません。折を見て調べたいと思います。宣言ではないけれども、フランツ・ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』の底流に流れるものも、横田さんや谺さんの自己認識に通じるところがあります。とりわけ、以下のような姜さんの文章は、多くの打ち捨てられたひとびとが、「自己回復」していく過程で通らねばならなかった茨の道のように思います。この引用文の「らい」の部分を、「CP」や「黒人」と読み替えることも可能です。

 村松が自身を「非らい」と呼ぶとき、それは「羞恥」の別名です。そして、村松をとおして「らい」―「非らい」という対の言葉を手にした谺雄二がみずからを「らい」と呼ぶとき、それは、自分の立つ場所こそが世界の中心なのであり、そこから「らい」の想像力をもって世界を創造しなおすのだという「矜持」の別名です。

 この、らい詩人集団の宣言がなされた60年代という時代性を考えれば、凄惨な迫害を身をもって知っていた亡命ユダヤ人レヴィ・ストロース以後の、自己と他者認識に関わる二項対立軸の思考が横たわっていることは、明らかだと思います。ファシズムの嵐は、上からの独裁のみならず、下からの大衆運動と共犯しつつ化け物と化したのでした。
 一方、石牟礼道子さんの作品中にしばしば出てくる「非人」という言葉は、世阿弥が生きていた中世の非人にさかのぼる話になるでしょうが、「非らい」も「非人」もその名前自体に孕まれている要素を、その名前が否定しているという点で、その言葉を発した側の、打ち捨てられた生きものの葛藤が宿っているように思います。ふたつの「非ず」は、奇妙に符合するところがありますね。それはほとんど、時代を越えた執念の符合のように思えます。
 近代に生きる私たちが「非人」という言葉を知った時にはすでに、非人は「人にも劣る」という意味でしかありませんでした。この「人に非ず」という意味が、「聖なる者/神」から「人にも劣る」という意味へと傾斜していった時代の変遷そのままに、トリアージと排除が手を取り合って、まるで正義かのように優先順位が低いとされる者が決められ、どんどん切り捨てられている今日的状況へ至っています。東日本大震災もそうでしたが、現在進行形のCOVID-19に至っては、救うべき患者、そして救うべき経済主体の選別が当たり前になっています。大規模な事故が起きた時などに、患者に赤いカード、黄色いカードを貼り付けていくことは、ありうることです。しかし、その行為が区別なく、日常社会で行われるようになってしまえば、それはとても恐ろしいことです。
 もっとも元来の「非人」という言葉自体が、聖俗併せ持った恐ろしく残酷で両義的な言葉です。「非人」とは、業と罪を運命づけられた、聖なる者とされた人々のことです。姜さんもお書きになっているように、石牟礼さんは、繰り返し水俣病患者さんに「非人」という言葉を形容しました。それは、ほとんど執拗なまでにと言った方がいいかもしれません。

 ここは少し慎重に議論したいと思います。
 つまり、「A‐非A」というソシュールやレヴィ・ストロース以後の二項対立軸の影響をうけつつ広がった自己認識論と、石牟礼さんが水俣病患者さんを「非人」と表現せねばならなかった抜き差しならぬ問題について、私は、一旦は腑分けしたいのです。もちろん、姜さんも前者と後者を一緒にお考えとは思わないですけれども。
 前回の私の書簡で、私は次のように書きました。

「障害児家族の向こう側に、「近代人主義」の圧倒的な排外社会が巣食っているのです。このことは、水俣病を考えるときには、もっと複雑化して行くのではないかと思うのですが、その話は姜さんの水俣でのお話を伺ってからにしたいと思います。」(山内、第20信)

 マジョリティとは異なる者たちが迫害される世の中がずっと続いてきました。「身毒丸」この方ずっと、です。しかし、わたしはこうも考えるのです。迫害の困難は大変に重たい。しかし水俣病の困難はさらに複雑なのではないか、と。決して誤解されたくはないのですが、例えば、先ほどの姜さんの言葉を、水俣病患者に置き換えてしまうことは、そう簡単なことではない。加害者であるチッソが向こうに控えている。認定患者はどんな立場に立たされるのだろう。「わたしの生はこんなはずではなかった。」そういう側面があると思います。

 みずからを「水俣病患者」と呼ぶとき、それは、自分の立つ場所こそが世界の中心なのであり、そこから「水俣病患者」の想像力をもって世界を創造しなおすのだという「矜持」の別名です。

 この世に生まれ出てきたこの生を、全面的に歓待したい。にもかかわらず、水俣の中心には自分たちではないチッソがあって、自らの世界を中心に創造するにはあまりに深い困難がある。しかし、それでも「苦海浄土」を立ち上げたのが石牟礼さんだったと思うのです。近代の論理に回収されないための「非人」の論理なのだと思うのです。
 「非人病気」「雪非人」「雨非人」「花非人」「舟非人」「非人乞食」……に託して、この時代に救い上げようとした「非人」は、多難な分断や厄災を乗り越えるための言祝を準備するためだったと思います。石牟礼さんの非人は、やはり「のさり」に通じる意味だと、私は思います。

 「東京までどげんしてゆこか。雨のふれば雨もろて、雪のふれば雪もろてゆこ。雨非人、雪非人と思い思いしとりました。」(石牟礼道子『苦海浄土』藤原書店、p680)

 「海の中から湧いて出たようなわたし共が、いったいどこの海に、ゆきようのありまっしょ。奇病魚、とるな、食うな、といわれても、わが魚を獲らん、米もつくれん漁師が、どこから湧いてくる銭を出して、わが口ば養いまっしょ。魚を獲りきらん漁師に、ただ銭をくれるひとは居んなはらんでしょうに。
 うつくしか眺めでございますよなあ。ほろほろ、帆を流して、舟も人間も、魚たちもいっしょにつながれて―。」(石牟礼道子『苦海浄土』藤原書店、p705)

 石牟礼さんは、水俣病闘争をかたちづくっていた情念について、都市の市民社会から取り残された地域共同体生活者たちの、最後の情愛と最後のエゴイズムについても語っていました。村社会の地縁血縁の中での憎悪や打算渦巻く闘争の内実について、患者たちの最後の常民の姿を『苦海浄土』に刻み込んだのでした。そこには、〈連帯〉〈解放〉〈組織〉〈自立〉〈関係性〉といった目的意識だけでつながっていく近代社会への違和感も横たわっています。それは例えば、こんな風に書かれています。「なんとまずしい言葉でしかいいあらわせなくなったことだろう。曰く「水俣の患者たちと連帯を!」」。徹頭徹尾、愛怨渦巻く苦海浄土でした。底辺社会として語られながらも、景色の、魂の、こんなに美しい世界があるものだろうか、と思うほどの作品です。1 

 私は、姜さんの話を、ふわふわしているとは思いません。しかし、自分固有のアクティビスムなのだから、自在に名づけが可能なのにな、とはちょっと思っています。それと、マイノリティを立ち上げようとする言葉の強度が強くなればなるほど、ちょっと怖いなとも感じます。私の方がもっとふわふわしていますよ。「近代を包み込んでも余りある価値/思考」という塩梅ですから。ま、そんなことはいいです。「姜‐非姜(山内)」くらいに考えてもらえればと思います。

 患者さんの声をおおきな耳で聴く、袋で育った永野三智さんが〈世界〉をめぐりながら、「耳非人」となって故郷へ戻る様子は、まるで現代能「耳非人」ともいえそうなお話でした。不知火の恵比須になって帰って来たんですね。同様に、やうちブラザーズの杉本肇2さんもまた恵比須なのだと思います。そのままに「非人(かんじん)」なのだと思います。

 来年の3月14日は、また笛を持って水俣へ行くつもりですよ。その頃には、このコロナ状況がすこしでも穏やかになっていることを願っています。来春は、東日本大震災から10年目になります。過ぎてみるとあまりにも短い時間でしたが、海沿いのガレキがちっとも片付かないころは、毎日がなんて重たくて長いのだろうと思っていました。来春にはあれから10年だなんて、信じられない気持ちです。こうやって時間だけが過ぎていくのでしょうか。

 姜さんの書簡を読みながら、私がはじめて水俣へ行ったときのことを思い出していました。
 私たちは障害者3を語る時に、その生それ自体の存在の尊さを語ることがあると思います。しかし、有機水銀という「近代毒」を盛られたために、生まれた生をそのままで歓待すれば、チッソを許すことにもなりうる。(緒方正人さんはこの部分を越えた人だと思います。)石牟礼さんの作品は、「苦海浄土」として書かれねばならなかった。この理不尽を来世へ託さねばならない言祝が、なんとしても必要だった。「近代の業」を一身に引き受けたひとびとのことを非人と呼んだ。
 こんな凪の美しい不知火海に、有機水銀が引き起こした生の歪みの、そのままの生を容認できない難しい部分が、私にはとても恐ろしかった。しかし、この「近代の業」を、間もなく、この世界すべてのひとびとが被ることになるだろうと思います。もうすでに、私たちの日常になっている、この世界のことです。この書簡は、そろそろ終盤ですね。私は、いま一度、石牟礼さんのテクストに還りたいと思っています。



水俣で最初に訪れた坪段。
ここへ連れて行ってくれたライターの野中大樹さんは、ここを水俣病の“激震地”とお話しされた。水俣病公式認定の最初の場所。そんなお話しを聞いてもなお、ここに立ったときには、ここは夢のような入り江だなと思った。目の前の大きな岩に子どもたちよじ登って、飛び込みしている光景を目にしているようだった。家の窓から釣り糸も垂らせるではないか。「あの、家の下の辺りに用水路の出口が見えるでしょう。あそこから有機水銀が流れたんです。」野中さんは言った。(山内撮影)


  それから、このお盆明けに、Zoomでアイヌ民族の学生に話を聞く機会がありました。北海道の二風谷で育った彼女は、アイヌというのは人間という意味で、その世界がずっと広がっているものだと思って成長したような子どもでした。そのお話は、「よくぞ」と思うほどに豊かな世界の話だったのです。彼女の祖父と祖母は、アイヌ民族文化の継承者であり、孫をアイヌとして育てたのでした。
 アイヌ民族は文字を持ちません。この無文字文化は、いわば「耳」で継承されてきました。このことは一方で、書き言葉での契約社会となった近代が、土地契約を取り結ぶのに、圧倒的な不利をアイヌ民族に与え続け、山野河海のすべてを収奪することともなりました。アイヌのひとびとは土地所有の概念を持ちません。それはカムイのものだからです。また、アイヌが先住民族として、あるいはアイヌの古い文化を認定するのに、型通りの「古い文書」を正統性として求める近代社会のために、虐げられてきた側面もあります。
 コロナ渦で、2020年春のオープンが延期となり、この夏にようやく始動した国立民族博物館「ウポポイ」ですが、開館と同時に、彼らを先住民族とは認めたくないひとびとによる誹謗中傷も起きています。今後の動向を見守りながら、このお話しは次回に譲りたいと思います。このコロナ渦で北海道行きも延期になってしまいました。
 奈良はまだまだ暑さが続きそうですが、お身体大事に、お過ごしください。八太夫師匠にもよろしくお伝えください。

鈴虫の声響く青葉山より
2020年8月30日
山内明美

1 石牟礼道子『苦海浄土 全三部』藤原書店、2016、p958.

2 杉本肇さんは、母親が水俣病の語り部だった杉本栄子さん。一時期、「水俣が嫌で」を東京などで暮らしていたが、帰郷し、現在は「水俣の子どもたちが、水俣を誇りに思えるように、水俣には笑いが必要だ」と兄弟親戚でコミックバンドを結成し、人気を博している。

3 障害者の表記については、私自身が、ある当事者から「表記は障害者でいいです。」と言われたことがあり、以来、そのまま使っています。


水俣市茂道の湧き水(撮影:山内)

「もやいの家」 杉本肇さん
https://youtu.be/vOc4xawbclY
https://youtu.be/WWzDw3BsAec


茂道の恵比須(撮影:山内)


沙流川。アイヌ語でシシリムカペッツ。日高山脈から二風谷へ流れる川。アイヌにとって母なる川に、二風谷ダムが建設され、アイヌ民族の威信をかけて起こされた二風谷ダム裁判は8年に及び、はじめてアイヌ民族が、先住民であることが判決文で認められました。(撮影:山内)

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著者略歴

  1. 山内明美(やまうち・あけみ)

    1976年、宮城県南三陸町生まれ。宮城教育大学教育学部准教授。専攻は歴史社会学、農村社会学。日本の東北地方と旧植民地地域の双方をフィールドに、稲作とナショナリズムをテーマとする文化的政治にまつわる研究をしている。東日本大震災以後は、郷里の南三陸での農村調査も行っている。著書『こども東北学』(イースト・プレス)、共著『「辺境」からはじまる――東京/東北論』(明石書店)、共著『グローバル化の中の政治 岩波講座 現代4』(岩波書店)、共著『ひとびとの精神史 第3巻』(岩波書店)など。

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